八幡と雪乃の恋物語   作:れーるがん

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心配しちゃ悪いかよ

「比企谷くん」

 

  静かな部室に響く上品な音色。それは、読書に集中していた俺の意識を現実に引き戻す程に凛々しくて、ずっとその音に耳を傾けていたいと思う程に綺麗な声。

  その声に呼ばれると、なんだか胸の奥が擽ったくて。けれど、彼女から名前を呼ばれるという事が、なぜかとても嬉しく感じてしまって。

 

「なんだ?」

 

  感情を持て余した結果、ぶっきら棒な返事しか出来ない。そんな自分に落胆する。

  しかし、こうして部室に二人しかいないのに、彼女の方から話しかけてくるとは珍しい。いつもは由比ヶ浜が話を振って来たり、由比ヶ浜との会話の延長線上で俺を詰ったりしているが、そうでもないのに俺を呼んだと言うことは、なにか話でもあるのだろうか。

  顔を向けた先の雪ノ下は、どうしてかどこか言い淀んでいるように見える。バツが悪そうに顔を逸らして、続く言葉を紡がない。

  そんな表情をされたら、自分がなにかしたのかと不安になってしまう。

 

「なに、俺なんかしたか?」

「いえ、そうではないのだけれど......」

「じゃあなんだよ?」

 

  再び問うても、やはり雪ノ下は言いづらそうに顔を逸らしている。

  そんな顔を見せられていると、ふと思った。まさかとは思うが、またなにか厄介なことに巻き込まれているのだろうか。俺や由比ヶ浜には言い出しにくいこと。そう、例えば家のこととか。けれど一人じゃどうにもならなくなったから、こうして言い出そうとしてくれている?

  いや、雪ノ下の家の問題はある程度解決を見せていたし、違うはずだ。でも絶対とは言い切れない。

  一体いつから、彼女はなにかを背負いこんでしまっていたのだろうか。アドリブや演技なんて出来ない彼女の事だから、なにかあれば直ぐに分かるとばかり思っていたのに。俺はそれに気づいてやることが出来なかった。それが堪らなく悔しい。

  いつか助けると、約束したのに。そのいつかを見誤って、見過ごして。そうして雪ノ下雪乃はまた独りになって、比企谷八幡は決定的に間違えてしまう。

  そんなこと、もう繰り返したくなかったと言うのに。

 

「比企谷くん......?」

「あ?」

 

  また、名前を呼ばれる。先程までの逡巡していた様子は見せておらず。今は何故か、どこか気遣わしげな眼差しをこちらに送っている。

 

「どうしたの?」

「いや、どうしたのって......。それはこっちのセリフなんだが。最初に話しかけてきたのお前だろ」

「そうではなくて。今、あなたが泣きそうな、つらそうな顔をしていたから......」

「......っ」

 

  そう言う雪ノ下の方こそ、今にも泣き出しそうで、つらそうな顔をする。

  どうしてお前がそんな顔をするんだ。そんな顔にさせるつもりも、見たかったわけでもないのに。

 

「なんでもない。気のせいだろ」

「本当に? あなた、また何か変なことに巻き込まれたりしていないでしょうね? あなたに何かあったら、私......」

「......」

「......ごめんなさい、なんでもないわ」

「......おう」

 

  その言葉の先を聞いてしまった方が、どうにかなってしまいそうだった。なにを言おうとしていたのかは知らないが、そんな気がしてならない。

  それきり俺も雪ノ下も黙ってしまって、妙に気まずい沈黙が部室に広がる。つい数分前までは、いつもの居心地のいい空間だったのに。居心地が悪いとまではいかないが、これもさっきからなにか言いかけてはなにも言わない雪ノ下が悪い。そもそも、いつもの彼女ならそんな事ないはずなのだし、それも調子が狂う原因の一端でもあるか。

 

「あー、雪ノ下」

「なに、かしら......?」

 

  いや何かしらじゃなくて。先に話しかけてきたのそっちでしょうが。

  覗き込むように伺うような視線を寄越してくる雪ノ下。その姿がなんだか可愛らしく見えてしまって、よく分からない羞恥心やら照れ臭さやらを感じてしまい顔を逸らす。

  が、どうやらそれが宜しくなかったようで。

 

「やっぱり」

「なに、なんだよやっぱりって」

「あなた、なにかあったのでしょう? 私や由比ヶ浜さんに言えないような何かが。無理に聞き出そうとは思わないけれど、あまり無茶なことはしないで」

 

  こいつはなにを勘違いしているのやら。そもそも、俺がそんな風になってしまっている原因だって、元を正せばお前のことなんだぞ。

 

「お前こそ、なにかあったんじゃないのか?」

「私?」

「さっき、最初に俺を呼んだ時だって、なんか言いづらそうにしてたし。もしかして、家のことでなんかあったりしたのかって、心配になっちまったんだよ」

「そう、だったの......」

 

  眼だけを向かいに戻してみると、何故か頬を赤らめて視線を斜め下に逸らしている雪ノ下が。なんで? 今赤面するような要素あった?

  彼女は赤らんだ顔のまま、薄く微笑んでまた俺を見る。

  その顔はいつもの大人びたものでも、皮肉を孕んだものでもなく、とても可愛らしい、年相応の少女のものだった。まるで、欲しかったおもちゃを買ってもらった子供のような、ともすれば実年齢よりも幼く見えるほどの。綺麗で、可憐で、不覚にも見惚れてしまうような。

 

「心配、してくれるのね」

 

  そんな嬉しそうな笑顔で、そんなことを嬉しそうに言うのだ。

  なにをそんなに喜んでいるのか。俺がお前の心配をするのが、そんなにおかしな事なのか。いや、おかしな事なんだろう。俺が、比企谷八幡が。誰かに踏み込むような発言なんて。その誰かが、雪ノ下雪乃だなんて。

 

「......俺が心配しちゃ悪いかよ」

「いえ、そんなことはないわ」

 

  くすくすと耳に届く声が擽ったい。でも、何故だろうか。不思議と悪い気はしないのだ。それがどうしてなのかなんて、今の俺には分からないけれど。

 

「比企谷くん」

 

  俺を呼ぶ、3度目の声。

  斜陽の中でこちらに微笑みかける雪ノ下はどこか神々しくもあって。でも、彼女がそんな手の届かない存在ではない事を、俺は知っている。

 

「心配してくれて、ありがとう」

 

  いつだか、由比ヶ浜が言っていた。雪ノ下は、俺たちに近づこうと頑張ってくれていると。

  今の、ありがとうのたった一言。それが、その頑張りの結果だと言うのなら。それほど尊ぶべきものはないだろう。

  きっと、それは俺たちの中で確かな変化があった証拠なのだから。

  そう思うと、自然と笑みが零れた。

  いじらしくて、もどかしくて。けれど、不器用に一生懸命、俺や由比ヶ浜に近づこうとしてくれる彼女は、やっぱりどこにでもいる、普通よりもかなり可愛いだけの女の子。

 

「なにを笑っているのかしら?」

「いや、なんでもない」

 

  くつくつと笑っていると、訝しげにこちらを見てくる。その眼に宿った温度が気持ち下がった気がしないでもない。落ち着けよ。別にバカにしてるわけでもないんだから。

 

「で? お前はなんで俺を呼んだんだよ」

「......?」

「いや、最初に話しかけてきたのお前でしょ。なに、もう忘れたの?」

「失礼ね。私はあなたのように三歩歩いたら忘れる脳みそは持っていないのよ」

「誰が鳥頭だ。そもそも三歩歩くどころか、さっきから一歩も動いてないだろうが」

「大丈夫よ。あなたが忘れてしまっても、私はあなたの事、忘れるまでは忘れないから」

「それなにも特別なことじゃないよね? 寧ろすぐに忘れるって言ってるようなもんだよね?」

「鳥頭の分際でよく分かったわね」

 

  楽しそうな笑顔を浮かべながら、俺を詰る雪ノ下。けれどそこに嗜虐的なものは含まれていなくて。

  何というか、会話すること自体が当初の目的であったような。

  ああ、だめだ。今日はどうしてか、彼女の笑顔がいつもの10倍は魅力的に見えてしまう。

 

「紅茶、おかわりは?」

「ん? ああ、貰うわ」

 

  立ち上がって俺の湯呑みを回収する。

  もう随分と慣れたやり取りではあるけれど、それだってきっと、俺たちがお互いの距離を少しずつ、本当に少しずつ縮めてきたからこそで。

  そして多分、今日もまた。

  比企谷八幡と雪ノ下雪乃の、目に見えない距離が縮まった。そんな一日。

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