「暑い......」
六月になった。そろそろ梅雨入りしようかと言うこの時期。夏と違ってジメジメした、肌に張り付くような暑さが鬱陶しい。
冷房の効いた電車から降り、改札を抜けてジメッとした空気に身を晒す。脂汗を流しながら我が家へと帰って行くサラリーマンのおじ様がそこかしかに蔓延っていて、人口密度の高さからか実際の気温よりも暑く感じてしまう。首元のネクタイを緩めるが、その程度では気休めにもならない。
スマホを取り出しチャットアプリを起動。駅前に到着した旨を告げると、返事は直ぐに返ってきた。どうやら向こうも到着しているらしい。改札前にいることを伝えれば、何故か奇妙なオブジェ扱いされる始末。
携帯から顔を上げると、こちらに駆け寄ってくる女性を発見した。
「お疲れ様」
「おう、お疲れさん」
わざわざ家から出てきてくれた雪ノ下雪乃は、随分とめかし込んで駅前へとやって来た。いつもより気合が入っているようにも見える。どちらからともなく手を繋ぎ、目的地へと歩き出した。周囲からの視線を頂いてしまうのには、もう慣れた。
「また随分とオシャレして来たな」
「似合うかしら?」
「似合ってないと思ってんの?」
「全然」
「ならそれでいいだろ」
素直に褒めることが出来ないのは生まれ持っての性分というやつ。雪ノ下の方もそれにすっかり慣れてしまっているのか、愉快そうにクスクスと笑っている。
「それより、本当にいいの?」
「なにが」
「今日の夕飯よ」
「自分から言っといて今更なに言ってんだよ」
「私も今日が給料日だったから、半分出すけれど」
「いい。こう言うときくらい奢られとけ」
決して安月給ではないのだし。それに、今日と言う日くらいは俺が払いたい。その理由を彼女に伝えるわけにはいかないけれど。
「ならお言葉に甘えるわ」
「おう、そうしとけ」
街中を歩いていると、こんなにも暑いと言うのにべったりくっ付いて歩くカップルが何組も見受けられる。その内の一組に、俺たちも名を連ねていると言うのだから、人生なにが起こるのか分かったもんじゃない。
さて、六月と言えばなにを想像するだろうか。祝日が一切ないことで俺の中では話題沸騰なのだが、世間一般的にはこうではなかろうか。
『ジューンブライド』
結婚がどうやらこうやらと言うあれ。街の至る所に、と言うほどでもないが、結婚式がどうとかウェディングドレスがどうとか、歩いているとそんな言葉がポツポツと散見される。それは隣の彼女も見つけたようで。
「ジューンブライド、ね」
ポツリとそんなことを呟いた。自然、カバンの中に入れてあるアレを意識してしまう。
「新婚旅行はどこがいいかしら?」
「ちょっと? 色々と話が飛びすぎじゃない?」
「海外に行く人が多いらしいけれど、沖縄や北海道などの国内も良さそうよね」
「......まあ、パスポートやらなんやらとメンドくさそうだしな」
そもそも千葉を愛してやまない俺としては、国内どころか千葉からも出るつもりはないのだが。ほら、千葉から出て京都に行った時とか酷い目に遭ったし。新婚旅行、マザー牧場とか東京ドイツ村とかじゃダメですかね? ダメですよね。
「海外行くとしたらパリだな。一度でいいからパリたけに行ってみたい」
「考える基準がおかしいと思うのだけれど......。でもパリね。なら今のうちからパスポートのことを考えておきましょうか」
手を繋いでいなければまたコメカミに指を当てていただろう。呆れたようにそう言うが、その顔はどうしてか楽しそうだ。
「お前、今日はやけに機嫌がいいな」
「そう?」
気になって聞いてみたが、どうやら本人も無自覚なご様子で。久しぶりの好物である伊勢海老にテンション上がってるとかだろうか。
まあ、前に食べてからもう一ヶ月以上経つしな。それなりの高級品だから、食べたい時に食べれるわけでもない。俺だって久しぶりにラーメン食べたりする時は結構テンション上がるし。
「ふふっ、そうかもしれないわね。今日は少し機嫌がいいわ」
「そんな機嫌のいい雪ノ下さんにご報告なんだが」
「なにかしら?」
可愛らしく小首を傾げている雪ノ下に、ポケットから取り出した携帯の画面を見せてやる。表示されているのはさっきまで使用していたチャットアプリ。それを見た途端、彼女は驚いたように目を見開いた。
うん。そう言う反応になるよね。俺も気づいた時はそんな反応を電車の中でしてしまったし。
「これ、グループチャットなんだけど」
「......やってしまったわね」
上の方に『奉仕部』と表示されたトークルーム。普段から使っているトークルームではあれど、まさか個人チャットとグループチャットを間違えるなんて。見れば一色と由比ヶ浜も、その後に呆れたような反応を示している。
ところで元奉仕部のチャットになんで部員じゃないやつがいるんですかね。まあ別にいいんだけど。
「あいつらんとこで良かったな。これがもし仕事のとことかだったら目も当てられんぞ」
「それもそうね......」
どうやら結婚云々の話からは上手く逸らせたようだ。あのままあの話が続くのは良くない。主に俺の精神衛生上良くないし、この後のことを考えさせられるので余計に良くない。良くないことだらけですね。
「それより、ウェディングドレスと白無垢、あなたはどちらが好み?」
おっとこれ話逸らせてませんね。なに、遠回しにプロポーズされてるの? そう言えば今日はプロポーズの日たら言うものらしいし、その可能性がなきにしもあらず。いやねぇよ。
「だから、さっきから話が飛躍しすぎだって......」
「そうかしら? それより、あなたはどっちがいいと思うの?」
「......ウェディングドレスです」
「そう。ならそちらで決まりね」
なぜか流れで新婚旅行と結婚式について決まってしまった。なんで? 僕まだプロポーズしてないよ? それとももしかして、雪ノ下さん色々と察しちゃってる? やだなにそれ恥ずかしい。
しかし、ウェディングドレス姿の雪ノ下か。高校の時に謎のノリで一度見たことはあったが、あの頃よりもその美貌に更なる磨きがかかった今の彼女が着れば、それはどれだけの美しさを醸し出すのだろうか。想像しようとしてみるも、途中でそれを霧散させる。きっとどれだけ上手く想像出来ても、実際はそれを上回る美しさに違いない。それに、本人が隣にいるのだから、俺が彼女にウエディングドレスを着てくれと言えばいい話だ。
それが出来ないから、今日この日までグダグダとやって来たわけだが。
「あとは式に誰を呼ぶかよね」
「俺もお前も、交友関係狭いからなぁ。知り合い全員呼んでも、そこまでの人数にはならなそうだ」
もうこの話を止めるのは諦めて、一緒になって考えてみる。親友と後輩の二人から始まり、あいつとかあの人とか、最近は会っていないような奴まで。考えてみれば、思ったよりもその人数が多くて、自分でもビックリする。
「......姉さんだけは呼ばない方向でいいかしら?」
「いや呼んでやれよ......。呼ばない方が面倒なことになるぞ」
「それもそうね」
そんな話をしていると、目的地に到着した。何度か来たことのある老舗料理店。初めて来たのは、彼女の両親に連れられて来た時だったか。以降懇意にさせてもらってはいるものの、どこか厳格な雰囲気を纏ったこの店は未だに慣れない。
「そう言えば比企谷くん」
店に入る前に、雪ノ下から呼び止められた。繋いでいた手をスルリと離し、彼女はカバンの中を漁る。
なにか渡すものでもあるのだろうかと首を捻るも、俺としては特に思い当たる節はない。
やがて彼女が取り出したのは、高級そうな四角い箱で。それは本当ならば俺のカバンの中にあるはずのもので。
「忘れ物よ」
「なっ、なんでそれ......!」
急いで自分のカバンの中を見るが、それはやっぱり入っておらず。どうやら間抜けにも、朝家に忘れて来たらしい。
「このまま貰ってあげようかと思ったのだけれど、それでは味気ないじゃない?」
「......」
「ふふっ、では入りましょうか」
受け取ったその箱をカバンの中にしまい、彼女に続いて店へと入った。
どうやらやっぱり、初めから全部知っていてあんな話を振っていたらしい。流石に格好つかなさ過ぎて自分に絶望しそうになる。
「どんな言葉で渡してくれるのか、楽しみにしてるわね」
流し目と共にそんなことを言われてしまって、急いで上手い言い回しを考えたのだった。