「嫌になるわね」
「全くだ」
部室の外をチラリと見て、雪ノ下が心底鬱陶しそうに呟く。部室には俺と彼女の二人しかいないからつい言葉を返してしまったが、もしかしたら俺に向けて言ったわけではなく、たんなる独り言だったのかもしれない。
「本当に、嫌になるわ」
開いている文庫本のページをそっと指で撫で、はぁ、とため息を零した。今日みたいな天気で湿気の多い日は、読書家にとっては天敵のようなものだ。雪ノ下にとっての犬みたいなもん。
さて、そんな今日のお天気はと言うと、見事なまでの雨。鈍色の空が広がり、そこから降り続く大量の水滴。自転車で登校できなければ、昼休みにベストプレイスを使うことすら叶わない。あまり好ましくない天気だ。
「どうにかならないものかしら」
「どうにか出来るとしたら、そりゃ神様だけだろうよ」
幸いなのは、しっかりと傘を持ってきていることだろうか。午前中は降っていなかったものの、天気予報をしっかり確認していた出来る妹、小町の言葉に従い、今日の俺は自転車通学を諦めて、来たる降水に備え電車で登校して来たのだ。流石は小町。俺の妹。
これでどっかの誰かさんと相合傘なんて青春イベントが発生するフラグもへし折る事が出来た。どっかの誰かさんがどこの誰なのかは言及しないけれど。
と言っても、俺と彼女では下校のタイミングに差がある。彼女は部室の鍵を職員室に返しに行くが、俺は部活が終われば直帰。元帰宅部として、兄として、妹の待つ家へとすぐさま帰らなければいけないのだから。
「で、お前その髪、どうしたの?」
「......お昼休みの時、由比ヶ浜さんにしてもらったのよ」
「ほーん」
今日の雪ノ下は、長い髪を親友と同じくお団子に纏めていた。そう、由比ヶ浜のパチモンヘアーである。丁度一年前を想起させる髪型は、どうやらその親友自身の手によってなされたものらしい。
「それで午後の授業に出たのか?」
「そうだけど、それがなにか?」
「いや、J組の混乱っぷりを想像しちまっただけだ」
「別に、そんなことはなかったと思うけれど」
それはお前が気づいてないだけだと思うぞ。雪ノ下をどこか女神のように信奉していると言っても過言ではないJ組の面々のことだ。仮に表向きはいつも通りだったとしても、全員心の中では凄いことになっていたはず。いつもの清楚な黒髪ロングが、こんなパチモンに成り下がってしまっているのだから。
「ま、似合ってるからいいとは思うけどな」
「そう......」
言ってから、チラリと彼女の方を伺う。その頬は赤く染まってるようにも見えて。
不意に、剥き出しとなったうなじに視線が吸い寄せられてしまった。別にそんなことはないと言うのに、なんだか見てはいけないものを見てしまった気になって、視線を手元の文庫本に戻す。
「雨、止まないな」
「そうね」
自身の顔の熱さを悟られぬように、紛らわすように口にした言葉は、深い意味を持つこともなくザーザーと鳴り続ける雨の音へと消えて行く。
気分転換のためにマッカンを買いに行こうかと思うも、雨のせいで部室から出る気にならない。雨に対する気怠さとマッカンへの愛を比較すれば、それは勿論マッカンに傾くのだけど、俺の心の奥底が全力で雨へ抵抗しているのだ。流石は俺。こんな時でもヒッキーの名に恥じない行いを心掛けるとは。いやヒッキー全く関係ないな。
「紅茶、飲む?」
そんな折、対面の雪ノ下から声を掛けられた。
「んじゃ、頼む」
今日はお菓子係の由比ヶ浜がいないため、お茶請けなんてものはないが、貰えるというなら貰っておこう。こいつの紅茶は美味いし。
文庫本に栞を挟み、立ち上がって電気ケトルの方へと向かう。その際、また彼女のうなじに視線が向いてしまう。雪ノ下自身は無自覚の無防備だから手に負えない。
自分が今、どれだけ危険な状態か分かっていないらしい。危険は言い過ぎか。どちらにしても、健全な男子高校生の俺としては、非常に目に毒なのに変わりはない。ただ、俺から似合っていると言った手前、元の髪型に戻せと言うのも変な話だ。
そんな俺の思春期的思考を露ほども知らず、雪ノ下は粛々と湯呑みにお湯を注いでいる。やがて無事に淹れ終えた雪ノ下がこちらに振り返ると、何故か顔を顰められた。え、なに、俺の顔になんかついてる?
「随分と気持ちの悪い、カエルみたいな顔をしていたけれど、雨の日になるとやはりそんな顔になってしまうのかしら?」
とんでもない暴言が飛んで来た。泣きそう。
「そう言うこと言うのやめろよ。不幸にも黒塗りのトラウマに追突してしまいそうになるだろうが」
「あら、それはごめんなさい。どうぞ」
「サンキュ」
これまた楽しそうな笑顔をして、長机の上に紅茶を置いてくれる。嗜虐的な笑みだとは分かっていても、俺の目には酷く魅力的に映ってしまうのだから、ぼっち王比企谷八幡も随分と堕ちたものだ。自意識の化け物はどこへ行ったのやら。
読書の手を一旦止めて、湯呑みに手を伸ばす。雨の影響なのか、若干気温も下がり冷えていたので、湯呑みの温度が丁度暖かい。
「ふぅ......。相変わらず美味いな」
「ありがとう」
猫舌故にチビチビと飲むことしか出来ないが、それでも思わず漏れてしまう本音。そして笑顔で返されるお礼。なんだか今のやり取りがむず痒くて、誰も来ないと分かっていながらも扉の方に目を向けてしまう。
「雨、やまないわね」
「そうだな」
まるで先程のやり取りを繰り返しているようだが、心なしか雪ノ下の声は嬉しそうだ。こいつは意外にも雨が好きだったりするんだろうか。いや、本への影響を鑑みるに、そんなことはなさそうだが。
読書を再開していた雪ノ下が、唐突にその手を止めた。ポケットから取り出したのは、珍しいことにスマホ。そこに表示されているであろう画面を見て、また優しそうな微笑みを漏らす。
「ふふっ」
「どうかしたか?」
「いえ、由比ヶ浜さんが奉仕部のグループラインにサブレの写真を載せて来たから」
「そ、そうか......」
あの、そのグループに僕入ってないの分かって言ってます? その存在を知って二ヶ月くらい経つけど、いつ招待が来るのかなーワクワクって待ってるんですよ? その割には部員でもなんでもない飲料水が何食わぬ顔で鎮座してるのはなんでなのん?
「画像越しなら犬も大丈夫なんだな」
「べ、別に、画像越しじゃなくても大丈夫よ」
えぇ〜ホントにござるかぁ〜。
「なによその目は」
「いやなんでも」
まあ、サブレにはある程度耐性がついているという事だろうか。由比ヶ浜の家に泊まることも、ここ最近は増えてるらしいし。サブレに限った話で言うと、まだマシ的な。
「どうせ疑っているのでしょう」
「そんなこと一言も言ってないだろうが」
「良いでしょう、今年のわんニャンショーは楽しみにしてなさい。私は別に犬が嫌いでも苦手でもないと言うことを教えてあげるわ」
「この負けず嫌いさんめ......」
て言うか、一緒に行くの? 去年は会場で偶々出会っただけだったけど、今年は最初から一緒に行くの決まってるの? つまり今のはデートのお誘いと言うことでいいのでは?
いや、待て落ち着け俺。別に直接一緒に行こうと誘われたわけではない。確かに俺は今年も小町と行く予定ではあるし、存分に猫とにゃんにゃんできる機会を雪ノ下が逃すとも思えない。だから会場で出くわす可能性は極めて高いんだ。雪ノ下もそのことを考えて言ったに過ぎないだろう。多分。恐らく。知らんけど。
いやでも、一応確認しておこうかな......。
「その言い方だと、一緒に行かなきゃいけないみたいに聞こえるんですけど」
「あら、その通りよ。どうせあなた達兄妹も行く予定ではあるのでしょう?」
「そうだけど......」
マジでござった。いや、いいんだけどさ。個人的な感情を優先させてもらうなら万々歳なんだけどさ。
「ならいいじゃない。私みたいな美少女と出歩けるのだから、感謝の一つでもして欲しいものね」
いつもの尊大な口調と勝気な笑みとは裏腹に、頬が赤みを帯びたように見えるのは気のせいじゃないのだろう。ため息を吐きつつも、俺の頬も同じ色になっているであろうことは自覚している。
と言っても、わんニャンショーなんてまだ先の話だ。当日までに、なんとか彼女の連絡先くらいは知りたいものだが。
「雨、やまないな」
「そうね」
三度繰り返されるやり取り。今度は、俺の声もどこか跳ねたものとなっていて。
気がつけば、湿気による紙への影響なんてどうでも良くなっている。雨の日故の心の鬱憤も、どこかへ吹き飛んでしまっていた。
なにも起きなかったね!