すでに日は落ちかけ、藍色の空が部室の外に広がっている。後数時間もすればお月様がてっぺんに登り、幾億もの星が夜空に瞬くのだろう。
部室に注がれる光の色は赤。夕焼けが僅かに残り、黄昏時とも呼ばれるこの時間。室内に響く音は、文庫本のページが捲られる音だけ。いや、それ以外にももう一つ。
「ふふっ」
長机の向こうから時折発せられる、鈴を転がしたように綺麗な声。そんなものが耳障りになるはずもなく、心地の良いBGMとなっている。
今日の雪ノ下雪乃は、どうしてか少し機嫌がいいようだ。部活前に何かいいことでもあったのか。読んでいる本が面白いのか。なんにせよ、彼女の機嫌がいいことでこちらに鋭いナイフのような罵倒が飛んでこないと言うのなら、それで構わない。俺も読書に集中出来るし、win-winだ。
「ふふふっ」
しかし、部室に入って挨拶をして以降何度もそれを聞いていれば、流石に少しは気になるというもので。
向かいに視線を投げてみれば、これまた随分可愛らしい笑顔を直視してしまった。俺を詰る時でも、由比ヶ浜と笑い合う時でもない、また別種の美しい微笑み。なにも悪いことはしていないと言うのに、まるでそれを見てしまった事自体が罪に問われるような。
その笑顔に見惚れてしまっていたのを誤魔化すかのように視線を戻せば、パタン、と本を閉じる音が聞こえた。
いつから誰が決めたわけでもないが、奉仕部における部活終了の合図だ。
「今日は終わりましょうか」
「......おう」
由比ヶ浜がいればそりゃ笑顔にもなるけれど、こうして二人だけの時は殆ど無表情なのに。綺麗な微笑みをそのままに言われてしまって、心臓が高鳴ってしまう。
別にあの笑顔は俺に向けられたものではないと分かっているのに。これは雪ノ下が可愛すぎるのが悪い。俺は悪くない。
なんて、誰に対してか分からない言い訳をしたところで、胸の鼓動が収まるわけでもなく。
「......?」
「......っ」
懲りもせずに雪ノ下の方を向けば、笑顔は引っ込んでいたけれど、コテンと小首を傾げられた。どうしてお前は何気ない一挙一動が可愛すぎるんだ......。
煩い心臓の音と赤くなっているであろう頬の色を悟られないよう、そそくさと帰り支度をする。帰り支度と言っても、本をカバンにしまえばそれで完了するのだが。
しかし雪ノ下の場合は紅茶セットの片付けもあるので、俺のようにすぐ終わるわけではない。
「帰らないの?」
ティーカップやら湯呑みやらを纏めた雪ノ下が問いかけて来た。今からそれらを洗いに行くのだろう。由比ヶ浜がいる時なら、確かに先に帰る日もあるけれど。今日はあのお団子頭はいないのだし。
「それ、洗いに行くんだろ? さっさと帰りたいから早く洗ってこい」
少しぶっきら棒な言い方になってしまっただろうか。帰らない理由を明確に口にしなかったのは卑怯だったろうか。ここで卑屈に考えてしまうのは、俺と言う人間の悪い癖だ。
だけど雪ノ下は少し驚いた顔をした後に、クスリと微笑んでくれて。
「あら、優しいのね」
「そんなんじゃねぇよ」
「それはどうかしら?」
こちらの心の底を見抜かれているようで、背中のあたりがむず痒くなる。もう少しだけでも一緒にいたい、なんて。そんな女々しくて恥ずかしい事、死んでも口にするわけにはいかない。言葉にしたとしても、今の彼女なら笑顔で受け止めてくれるのだろうが。
「直ぐ戻ってくるわ。待ってて」
またどこか上機嫌な様子で笑みを浮かべながら、雪ノ下は部室を出て行く。今のどこに、彼女の機嫌がさらに良くなるようなものがあったのか。それは分からないけれど、まあ、悪いことではない。
なにより、今の笑顔は本を読んでいた時や部活終了を告げた時と違って、俺に向けられたものだった。
たったそれだけのことなのに、とても嬉しく感じてしまう。それは些か単純と言うものだろうか。けれど仕方ない。恋する健全な男子高校生なんて、所詮はそんなもんだ。
本はもうカバンにしまったし、一々取り出すのもめんどくさい。座っているだけと言うのもあれなので、彼女が戻って来るまでに部室の戸締りを終わらせる。
ちょうど全ての窓を閉めたころ、雪ノ下が戻って来た。
「ごめんなさい、お待たせしたわね」
「いや、全然」
「そう?」
「そう」
洗って来たティーカップと湯呑みを元の場所に戻し、その上から埃防止のナプキンをかけたら片付けは終了。カバンを肩に掛けた雪ノ下と共に部室を出た。
以前までは彼女の少し後ろを歩くのが普通だったのに、こうして肩を並べて歩くようになったのは、果たしていつの頃からだったろうか。少なくとも、今の関係になってからであることは間違いない。
「あなた、今日はいつもより機嫌がいいわね」
「そうか?」
言われても、イマイチ自覚はない。今日はいつも通り過ごしていたし、俺と雪ノ下の間でも、これまたいつも通り全く会話は無かったし。寧ろ少しくらい会話があった方が、上機嫌になっている可能性だってある。
「お前の方こそ、今日はなんか上機嫌じゃねぇか」
「そうかしら?」
傍目から見たら分かり易すぎるくらいだったのだが、どうやらこいつも自覚はなかったようで。人差し指を顎に当てて首をひねる。
だがやがて得心がいったように、ああ、と頷いて笑みを見せた。やっぱり、指摘するでもないくらい上機嫌じゃないか。
「ふふっ、確かに、今日の私は少し機嫌がいいわね」
「面白い本でも見つけたか?」
「まあ、確かにそれもあるけれど、そうじゃないわ」
「じゃあなんで」
問えば、こちらを見上げる綺麗な瞳とぶつかった。ずっと見つめていたら、まるで吸い込まれてしまうかと錯覚する、空を写したような瞳。
その目で俺を見つめながら、まるで唄うかのような軽やかさで言うのだ。
「久しぶりに、あなたと二人きりの部活だったから」
ああ、なるほど。それは確かに、俺だって無意識で上機嫌になってしまう。けれどそんな事を言われて恥ずかしいのに違いはなくて。
のぼせ上がった顔を隠したくても、いつの間にか雪ノ下に右手を握られていて。仕方なく彼女から逸らすことで誤魔化した。
「顔、真っ赤よ?」
「知ってる......」
多分、この熱の理由は彼女の言葉が全てではなくて。きっと俺は、同じ理由で二人揃って上機嫌だったことが嬉しいのだろう。でもそれを自覚してしまえばやっぱり恥ずかしいやら照れ臭いやらで、結果顔を赤くしている事実は変わらないのだが。
顔と同じくらいに右手から熱を感じる。それが隣に雪ノ下のいるなによりの証だと思うと、自然と力が入ってしまう。それでも彼女は、嫌な顔一つせず、なおも俺の手を包んでくれるのだ。
「由比ヶ浜に嫉妬されるな」
「あなたが?」
「あたしのゆきのんを取らないでー、って。ほら、あいつ最近は勉強で忙しくて、お前と遊べてないんだろ? 今日も、勉強の息抜きにって三浦たちに連れていかれたらしいし」
「そうだけど、嫉妬されるようなことでもないでしょう」
それがされるんですよ。ガハマさん、割とマジでゆきのんのこと好きだからね。三浦たちと遊びに行くのは結構だし、雪ノ下と一緒にいたいと思うのも結構だが、早くしてくれないと今度は雪ノ下が拗ねてめんどくさいことになる。
あわよくば、今の上機嫌を暫く保って欲しいものだ。
「そう言えば、あなたはどうしてあんな上機嫌だったのかしら?」
「......分かってるくせに聞くのは、性格悪いと思うぞ」
「ふふっ、その言葉で十分だわ」
強いてもう一つ理由を付け足すとしたら、彼女が俺の目の前で、こんなにも笑顔でいてくれるからだろうか。感情表現に乏しいとは言わなくても、雪ノ下はそんな頻繁に笑顔を見せてくれるわけではない。
でも、今日はこんなにも笑ってくれている。恋人が笑顔でいてくれるのは嬉しいに決まってるし、その理由がこうして二人でいることだと言うなら、尚更だ。
でも俺は欲張りだから、彼女の笑顔をもっと見たいと思ってしまって。
「雪ノ下」
「なにかしら、比企谷くん」
「明日、デートでもしようぜ」
「あら、あなたからのお誘いなんて、珍しいこともあるのね」
「ま、たまにはな」
らしくないと自覚しているから、俺までつい笑顔になってしまう。まあ、苦笑いとかの類なんだけど。
二人笑い合って歩いていると、職員室まで辿り着いた。ここで雪ノ下の手が俺の手から離れていき、彼女は鍵を返しに職員室の中へと入って行く。些かの寂しさを右手に感じるものの、数分とせず雪ノ下は帰ってくる。
昇降口まですぐだと言うのにも関わらず、彼女はまた俺の手を握ってくれた。
「明日」
「ん?」
それと同時に、ポツリと言葉が漏れる。今度は雪ノ下の方から、握る手に力を込めてきた。
「楽しみにしてるわね」
「......まあ、それなりには頑張る」
明日もその笑顔を見たいから。
だから、帰ったらデートコースはしっかり練ろう。明日のことは、明日の俺に任せるってことで。
「ふふっ、頑張ってくれるなら、明日もあなたの好きな私の笑顔を見せてあげるわ」
「......」
完全にお見通しじゃねぇかよ。これは俺が上機嫌な理由も全部見破られてるやつだわ。
でもまあ、そう言って笑う彼女はやっぱり可愛かったから、それでも良しとしておこう。