そろそろ秋の気配が訪れてもおかしくないであろう九月。天気は雨。ついこの前まで台風やらなんやらでヤバいことになってたのに、今度は秋雨前線やらなんやらでヤバい。なにがヤバいってマジヤバい。
廊下の窓から見上げた空は未だ鈍い色が広がっていて、晴れ間なんてどこにも見えず。本当に今が16時なのか疑うくらいには暗い。実は18時とかじゃないのこれ。つまりそろそろ下校時間じゃない? 帰ってもよくない? よくないですねごめんなさい。
しかしまあ、こうも雨が降り続いているとテンションも下がると言うもので。部室へ向けている足も、心なしかいつもより重たく感じてしまう。マジで帰りたい。なんで警報出てないの? 気象庁仕事して?
帰りたさマックスで仕方なく歩いていると、不意に空が光った。そして遅れてやって来る、腹の底まで響く轟音。雷だ。
こいつはいつも突然鳴るから、心構えなんて出来てるはずもなく。驚いて肩をビクッと震わせてしまう。やだ、今の誰かに見られてなかったかしら? 結構情けなかったぞ今の俺。
だが特別棟に人の影はなく、さらに言うなら俺の情けない姿なんて最早今更ではあるので、見られようが見られまいがどちらでもいいことだ。もしかしたら後ろから由比ヶ浜が付いてきてるかと思ったが、まだ教室でお喋り中らしい。
しかし、結構近くに落ちたな今の。停電になってないと言うことは、どっかの避雷針が仕事したとかそんなのかしら。マジでダブルバトルの時のドサイドン許さねえからな。なみのりで死にさらせ。
そしてやっとの思いで辿り着いた部室。そう言えばあいつは今この中で一人なのか。さっきの雷で泣いてたりしないかな。してたら面白いのに。
「うーす」
バレたら確実に怒られるであろう恋人の可愛らしい姿を想像しながらも、いつものように気の抜けた挨拶をしながら部室の扉を開く。
「こんにちは」
とまあ、あの雪ノ下雪乃が雷程度でビビるわけもなく。これまたいつものように文庫本に落としていた視線を上げて、挨拶を返してくれる。むん、やはり雷じゃ氷の女王はびくともせんか。
定位置の椅子に腰を下ろすと、入れ替わるようにして雪ノ下が立ち上がり、電気ケトルの方に歩いて行く。彼女が紅茶を淹れる後ろ姿を見ながら、俺もカバンから文庫本を取り出した。
部室に響くのは雨が地面を打つ音のみ。湯呑みに注がれるお湯の音も、それに掻き消されている。まあ、読書をするにはいいBGMではある。いつだったか雪ノ下が言ってたように、紙が湿って傷んでしまうのがたまにキズだが。
やがて紅茶を淹れ終えた雪ノ下が、湯呑みを手にこちらへ歩いて来る。そして俺の近くまでやって来て、長机の上に置こうとしたまさしくその瞬間。
空に稲妻が迸り、雷鳴が轟いた。
「きゃっ!」
「うおっ」
なんか厨二っぽく表現したが、つまり雷が落ちた。しかもさっきよりも近くに落ちたっぽい。怖いなーなんて思いながらも、けれど気になるのはそんなことじゃなくて。
つい今しがたの、可愛らしい悲鳴の発生源だ。
「ど、どうぞ……」
「……」
声と、肩が震えている。しかしそれを決して悟られたくはないのか、至って何事もなかったかのように、湯呑みを長机の上に置いた。その指先も、震えていたけど。
「なにかしら……」
「いや……」
つい胡乱な目を向けてしまっていたが、それを咎めるように強情な声が。これ、聞いてもいいんだろうか。いや、聞くしかないだろこんなの。でも負けず嫌いノ下さんだから、絶対認めないだろうしなぁ……。取り敢えず聞くだけ聞いてみるか……。
「……なあ」
「言っておくけれど」
「お、おう?」
「別に、雷が怖いなんてそんなことはないのよ? 自分の意識の外から急に大きな音が鳴ったらビックリするのは、いわゆる反射行動というもので、当然の動きなの。別に雷が怖いとか、だから悲鳴をあげたとか、そう言うわけでは決して──」
と、ここで再びドーンと雷が。
「ひぅっ!」
「……」
えー。なに今の悲鳴。可愛すぎない? 俺の彼女、可愛いがすぎない?
「オーケーわかった。お前が雷苦手ってのは十分分かった」
「そんなこと一言も言ってないのだけれど」
「いや、言われんでも分かるわ。そんなんで変に強がってどうすんだよ」
はぁ、とため息を吐いた俺を恨みがましく見つめながら、雪ノ下は自分の席に戻った。
部室に再び訪れた静寂。聞こえるのは雨の音と、それに呑み込まれてしまいそうな、ページを捲る音のみ。そして忘れた頃に空が光り大きな音が鳴って、その度に向かい座る我が恋人様は肩を震わせている。ここで涙目になったりしない辺り流石だが、時折こちらに向けられる視線を感じる。
怖いならそう言えばいいのに。こう言う関係になっても素直に甘えられないのは、持ち前の負けず嫌い故か、はたまた別の何かか。
由比ヶ浜がさっさと来てくれれば、彼女の恐怖も紛れるのだろうが、あいつ全然こないし。めっちゃ降ってる雨にテンション上がって外出たりしてないよね? 流石の由比ヶ浜さんもそこまで馬鹿じゃないよね?
暫く経っても由比ヶ浜が来る気配はなく、だからと言って後輩が駆け込んでくることもない。どちらか一人でもいればと思いもしたが、こうなったら俺がどうにかしてやるしかないのかね。
「なあ」
呼びかけたところで、また雷が落ちた。
文庫本から上げられた視線ははっきりとこちらに向いており、捨てられた子犬、じゃなくて子猫のような視線を受けてしまって、妙な庇護欲に駆られる。
「なっ、なにかしらっ」
声裏返ってますよ雪ノ下さん。
「あー、なんだ。こっち来るか?」
怖いんだったら、と言う言葉は飲み込んだ。
気恥ずかしさやら照れ臭さやらが押し寄せて来るが、それらを無理矢理押し殺す。俺の感じるそれより、彼女のことを優先させるべきだから。
「さっきから言ってるように、別に雷が怖いわけでは……」
「じゃあ、俺が怖いから、こっち来てくれよ。ヒキガエルの俺はみずタイプだからな。でんきタイプは怖いんだよ」
一瞬なにを言ってるのか分からないとばかりにキョトンとした雪ノ下だったが、安心しろ。俺も自分がなに言ってんのか分かんないから。
けれど直ぐにクスリと微笑んで。ああ、その笑顔が見たかったんだ。今日はずっと怯えるような顔しか見れていなかったから。でも、俺の心の内を見透かされているようで、背中のあたりがむず痒くなる。
「そう言うことなら、仕方ないわね」
「おう」
「雷程度で怖がっているお子様な比企谷くんのためだもの」
あの、今物凄いブーメランがそっち飛んでいきましたけど。
「はぁ……。もうそう言うことでいいから。さっさとこっち来いよ」
「ふふっ」
小さく笑いながらも立ち上がる雪ノ下。俺にしては上出来だと思いつつ、一息つく為に湯呑みを口元へと運ぶと。
またしても、大きな音が鳴った。当然のように猫みたいに跳ねる雪ノ下。
しかしそれは雷によるものではなく。音の発生源、部室の扉に目を向けると、そこに立っていたのは平塚先生だった。
「良かった、二人とも部室にいたか」
「平塚先生、入るときはノックを……」
「なんだ、怖がらせてしまったか? いやあ悪かったな」
最早恒例のお小言と親の仇でも見るような目を向けられても、全く悪びれた様子のない平塚先生。俺だったら怖すぎてちびってる可能性すらある。
折角表情が柔らかくなったのに、先生のせいでまた怯えたような、警戒したような表情に戻ってしまった雪ノ下。猫かよ。猫だわ。
「それで、どうしたんです?」
「ああ、実はだな。先ほど大雨警報が出たから、今日の部活はこれで終わりだと伝えに来たんだが……。どうやら私はお邪魔だったかな?」
やめてそんなニヤニヤしないで。雪ノ下も、そんな顔赤くしてそっぽ向かないで真実味が増しちゃうでしょ。可愛いから許すけど。
「由比ヶ浜には先程廊下で会ったから、既に伝えたよ。昇降口で君たちを待つと言っていたから、早く行ってやりなさい。戸締りは私がしておこう」
「ありがとうございます。比企谷くん、さっさと紅茶を飲みなさい」
「へいへい」
未だ熱を持ったままの紅茶をなんとか飲み干し、湯呑みとカップの後片付けも平塚先生に任せることにした。舌が火傷しそうだった。
「ではすみませんが、あとはお願いします」
「うむ。君たちも、気をつけて帰りたまえ」
カバンを肩にかけて先生に挨拶をして、二人揃って部室を出る。
由比ヶ浜がいてくれるなら、帰りも安心だろう。どうやら俺の役目もここまでのようだ。特になにもしてないけど。あまり待たせても可哀想なので、さっさと昇降口へ向かおうと足を動かすと、右腕に微かな重みを感じた。
振り返ると、制服の裾を雪ノ下の細い指が摘んでいる。
「あの……」
当の雪ノ下本人は、まるで迷い子に目を泳がせていて、頬は真っ赤に染まっていた。
突然の行動に驚きはしたけど、未だ自分の気持ちにすら素直になれないそんな姿が、とても愛らしく思う。
だからだろうか。彼女のその手を、掴もうと思ったのは。
「あっ……」
「……行くぞ。あいつが待ってるらしいし」
とても彼女の顔を見れるような状態じゃない。だって、頬どころか、耳の裏まで赤くなっているであろうことを自覚してしまっているから。
右の掌に熱を感じながらも、意識をなるべくそこへ向けずに歩き出す。廊下の窓には大粒の雨が打ち付けられ、その音をも上回る心臓の音が酷く煩い。
「本当は……」
そんな静かな空間に、鈴のような声が広がる。戸惑うような色を含んではいるけれど。この静寂の中だと、やけに響く。
「本当は、少し怖かったの。ひとりだと我慢出来ていたのだけど、あなたがいると思うと……」
「そうか……」
嬉しかった。だって、今の言葉は。俺に少しでも甘えてくれていると言う、その証左に他ならないのだから。
ダメだな。ああダメだ。気を抜くと、際限なく頬が緩みきってしまいそうだ。雪ノ下は怖い思いをして、それどころではなかったというのに。
「怖かったら、すぐ言ってくれればいいんだよ。もっと頼ってくれていいんだ。その方が、俺も嬉しい」
「ええ……」
それで、こいつの恐怖が少しでも紛れるなら。
それきり互いの間に会話はなく、雨の音だけが耳に届く。でも、もう少ししたら、騒がしくも明るい声がそこに混じるだろう。
それで彼女の恐怖や怯えも、全て解消されるはずだ。