ハロウィンである。
元来このイベントは、古代ケルト人が起源とされており、秋の収穫を祝い、悪霊を追い出す儀式だったらしい。れっきとした、宗教的な意味を帯びた儀式だったのだ。
それが今ではどうだ。学校では頭が年中ハッピーな輩が女子にお菓子をもらう口実、はたまたイタズラを仕掛ける口実としてドラミングに利用し、東京の渋谷では、これまた同じく頭が年中ハッピーな輩がゴミを撒き散らし挙句トラックを横転させる、誰がどこからどう見ても有害なイベントに成り下がってしまっている。
古代ケルトまで遡らずとも、十数年前までは子供達が大人からお菓子を合法的に強奪するための微笑ましいイベントだったはずだ。それが今ではこの体たらく。全国のパリピどもは古代ケルト人に怒られて仕舞っちゃうおじさんに燃やされてしまえ。バスター宝具だから火力そこそこ出るぞ。
しかし、そんなハロウィンでも侮れないところがひとつある。
それを説明する以前に前提として知っていてもらいたいのは、『雪ノ下雪乃はおかし作りに於いても完璧である』という点だ。
奉仕部記念すべき初依頼や、昨年度のバレンタインイベントでもその辣腕を振るっていた。つまり、そんな雪ノ下のお菓子を、合法的にいただく事が出来るかもしれない。それが出来なくても、雪ノ下にイタズラと称して日頃の毒舌に対する憂さ晴らしをしようとして返り討ちに合うかもしれない。いや、返り討ちにあったらダメだろ。
とまあ、その一点だけを見れば、俺にとっても非常に魅力的なイベントである。返り討ちにさえ合わなければ。
と言うわけで、俺は今日この日に備えて入念な準備をしてきた。といっても、前日一睡もせず徹夜で学校に来ただけではあるけれど。お陰様で先日無料でダウンロード可能になった神殺しのゲームがめちゃくちゃ進んだ。
さてその結果どうなったのかと言えば、常日頃よりも三倍は死んでいるであろう俺の目、即ちスーパーゾンビヒッキーの誕生である。昼間に渡された由比ヶ浜のお菓子で朝よりもげっそりしてるから、ゾンビ度が上がってるかもしれない。デンジャラスゾンビよりもデンジャラスなゾンビだ。今日ばかりは由比ヶ浜様々だ。嘘、全然様々じゃない。お前ちょっとはマシになったと思ったら余計酷くなりやがって。上手くなって来たり慣れて来た頃が一番油断しやすくて一番危険だってお母さんいつも言ってるでしょ。ガハマママが言ってるかは知らんけど。
そしてやって来た放課後。心なしかいつもより重い足取りでやって来た部室。この向こうに、雪ノ下はいる。ついに決戦の時だ。
まさかあの雪ノ下雪乃がハロウィンなんてイベントに浮かれて特別なお菓子を作って来てるとは思えないが、御茶請けのひとつくらいは用意しているだろう。もうそれでもいいから美味しいものが欲しい。お願いします僕の胃は限界なんです。
「うーす……」
「こんにち……比企谷くん?」
扉を開けていつも通りの適当な挨拶を投げると、しかしいつも通りのしっかりとした挨拶が返ってくることはなかった。それは途中で遮られ、代わりに心配の色を滲ませた声音で俺の名前を呼んでくる。
「あなた、どうしたのその目? いつもより死んでるわよ? ゾンビの仮装にしては冗談が過ぎると思うのだけれど」
想定外の事態が発生いたしました。なんでこいつ、こんな心配してくれてるのん? いや、そりゃこんな目が死んだどころか壊死してるような奴を見たら大丈夫かと心配になるのは情緒のある人間ならば当然だろうし、その相手が恋人ともなればそりゃ心配されて然るべきだとは思うけども。
やだ、ちょっと嬉しいじゃないの。
「いや、大丈夫だ雪ノ下。問題ない。ちょっと徹夜明けで由比ヶ浜のお菓子を食べただけだから。大丈夫だ」
「大丈夫に見えないから心配しているのよ」
スッと音もなく立ち上がった雪ノ下が、未だ扉の前に立ったままの俺に向かって歩いてくる。その顔は真剣で、俺の体調を本気で案じてくれているのが嫌でも伝わってくる。
ふつふつと込み上げてくる罪悪感と戦っていると、そのまま肉薄して来た雪ノ下が、俺の後頭部に手を回す。あまりにも突然の出来事すぎて理解が追いつかない。
待って待ってマジでなにどうしちゃったの雪ノ下さん⁉︎
「んっ、熱はないみたいね」
「……っ」
抱きしめられるのかと思いきや、後頭部に回した手でグイッと俺を引き寄せ、おでことおでこをごっつんこ。どうやら、熱があるかどうか確認したかったらしい。それにしてもスキンシップが過ぎませんこと?
それが確認できて満足したのか、雪ノ下の体が離れていく。それに幾許かの名残惜しさを感じながら、雪ノ下に促されるままいつもの定位置に腰を下ろした。
「本当は直ぐに帰って寝て欲しいのだけれど」
「奇遇だな。俺も今日は早く帰って寝たい」
なんなら今日に限らず割と毎日早く帰って寝たいとか思ってる。まあ、最近はここに来るのが楽しみな感じあるけど。ほら、可愛い可愛い彼女さんが待ってるわけだし。
「今日は、その、ハロウィンでしょ?」
「まあ、そうだな」
そのハロウィンのせいで俺はこんな目に成り下がっているわけだが。自業自得とか言わないの。
自分の席に戻った雪ノ下は、なぜか顔を少し赤くしてソワソワしている。その理由が分からず怪訝な視線を投げていれば、意を決したようにこちらをキッと睨んで来た。
なに、怖いんだけど。
「そう、今日はハロウィンなのよ。だから、まだまだ心がお子様な比企谷くんに、これを作ってあげたのだけれど……」
床に置いていたカバンの中から取り出したのは、猫のワンポイントが可愛らしいセロハンの包み。透明なそれの中身を見てみると。
「クッキー?」
こちらに差し出されたわけでもないので遠目からしか見れないが、あの中に入っている物体は間違いなくクッキーだろう。雪ノ下は未だに赤い顔のまま、てこてことこちらに歩いて来て、その包みを俺に差し出して来る。
「……どうぞ」
「お、おう……」
おかしい。クッキーを渡されただけなのに、なんだこの、なんか変な雰囲気は。ていうかこいつも、なんでクッキー渡すだけでこんな顔赤くしてんだよ。可愛いが過ぎる。
「その、体調が優れないようであれば、帰ってから食べてもらっても構わないから……」
「いや、今食う」
本来、今日はこれが目的で徹夜して由比ヶ浜のお菓子も甘んじて受け入れたのだ。休み時間にあいつのお菓子を食べた時のあの嬉しそうな顔を思い出すと罪悪感半端ないが、それも雪ノ下のクッキーへ辿り着くまでの布石だったということだろう。
早速セロハンの包みを開けて中のクッキーを取り出せば、雪ノ下が赤面していた理由が理解できてしまった。
「お前、これは……」
「ち、違うのよ。それは、その、作ってるうちになんだかおかしなテンションになってしまったとか、そう言うわけではなくて、あの、あなたのことを考えながら作っていると、不思議と自然にその形になっていたと言うか……」
「お、おう……。分かったから落ち着け、お前今とんでもないこと言ってるぞ」
雪ノ下さん、更に顔真っ赤。熟れたトマトかよってくらい真っ赤。こんなトマトなら喜んで食べれるわ。
雪ノ下の作ってきたクッキー。それは、包みの中に入っていたその全てが、ハートの形をしていた。色合いから察するに、かぼちゃのクッキーなのだろう。
いや、味などこの際どうでもいい。ハートである。あの雪ノ下雪乃が、ハートのクッキーを作ってきたのである。
作った本人は混乱しているし、地味に俺も相当混乱しているけれど。
それ以上に、嬉しさが勝った。彼女の言葉を信じるのなら、このクッキーは俺を想って作ってくれたと言うことで。その結果が、らしくないこんな形のクッキーで。
いや、雪ノ下は嘘をつかないのだから、今言ったことは全て本当なのだろう。
だったら、これ以上の喜びはない。
「雪ノ下。紅茶、淹れてくれるか?」
「え?」
「だから、紅茶だよ。さすがに飲み物なしでクッキーは口の中がキツイだろ」
「そ、そうね。少し待っていて頂戴」
手に摘んだままのクッキーを、もう一度眺める。その形自体はたしかに雪ノ下らしくないかもしれないが、形が微塵も崩れていない完璧さは、雪ノ下らしい。
このらしさと言うのも、俺の勝手な思い込み、勝手な幻想かもしれないけれど。大切なのは、今ここにこれが形としてあることだ。
なんだよ、ハロウィンって思ったより最高じゃねぇか。これにはさすがの古代ケルト人もにっこり。
「はい、紅茶。どうぞ」
「ん、さんきゅ」
紅茶も来たことだし、少し勿体無い気もするがこのクッキーを頂こうとして。俺の前から中々離れない雪ノ下に気づいた。
相変わらずどこかソワソワした様子で、俺の方を見たり、視線を逸らしたり。そんなに俺の感想が気になるのかしらん?
「心配しなくても、お前が作ったんだから美味しくないことはないと思うぞ」
「そういうのは、食べてから言ってくれるかしら。……いえ、そうではなくて」
「じゃあなに」
「その、私はあなたにお菓子を渡したわけじゃない?」
「そうだな」
「だから……」
おそらくは今日一の頬の紅潮を記録しているその顔は、普段よりも幾分か幼くて可愛く見えてしまう。
そんな雪ノ下に見惚れていると、雪ノ下の小さな唇が開かれた。
「トリックオアトリート、比企谷くん。お菓子をくれなきゃ、イタズラしちゃうわ、よ?」
…………俺、お菓子なんて持ってきてないんですけど?