買い物していると、街でばったり友人と出くわす。そんな経験がないだろうか。因みに俺はない。そもそも友人がいない。
まあ、友人じゃなくてもいい。知人だろうが、妹だろうが、親だろうが、所属している部活の部長の姉だろうが、まあ、そう言った類の誰かしらと、たまたま出先で遭遇することは、一度くらい経験があるはずだ。これ、最後のは殆ど個人特定してんな。
そしてその遭遇したタイミングが、もしくは相手が、最悪な場合は、どうすれば良いのだろう。
例えば、陽乃さんと出会ってしまえばそれがどんな状況どんなタイミングでも最悪だと思ってしまうし、戸塚と出会ってしまえばどんな状況どんなタイミングでも最高だと思えるだろう。
さて。ここで現在、俺が置かれている状況を確認してみよう。
場所は千葉のモール内にあるペットショップ。カマクラの猫砂を買いに、自転車で遠路はるばるここまでやって来た休日の昼下がり。
ゲージの前にしゃがみ込む俺と、そんな俺を見下ろしてスマホを構えている、たまたま遭遇してしまった雪ノ下雪乃。
なんか、いつもと逆じゃない?
「違うんだ」
「違うのよ」
言い訳を口にしようと発した言葉は、なぜか向こうと同じものだった。はて、俺はなにか間違ったことを口にしただろうか。いや、そんな筈はない。寸分違わず見事に正確な言い訳をすることに定評のある俺だ。その第一声を間違えるわけがない。そんな一定の評価欲しくなかった。
交錯する二つの視線。言葉は交わさず、ただその視線のみで、先に言えとお互い譲り合う。
そして先に折れたのは、意外にも雪ノ下の方だった。はぁ、とため息を一つ吐き、少し肩を落としたように見える。そんな力ない姿の雪ノ下を見るのは、いつ以来だろうか。
「違うのよ……」
再び発せられた同じ言葉は、しかし先程のような頑なさを感じない。
雪ノ下がスマホを操作したかと思うと、その画面をこちらに突きつけて来る。画面は動画を再生していて、そこに映されているのはこのペットショップ。そしてゲージの前にしゃがみ、猫と熱い視線を交わしてる俺の姿。
それから数秒経って、『にゃー』と低い声が。他の誰でもない、この俺の声だ。
「なにも違わないんだよなぁ……」
「そ、そうではなくて……。あなたにしては珍しく無防備だったから、つい勝手にと言うか、気づけば録画してたと言うか……」
「お前それ、言い訳として成立してないぞ……」
自然、俺の頬は紅潮してしまい、嘘のつけない雪ノ下さんも自爆してしまったようで。ペットショップに熟れたトマトがお二つ出来上がり。
こんなところでなにやってんだ、と。心の中の冷静な自分が問いかけて来るも、その問いになにかしらの行動を返せるわけでもない。
ここはモールのペットショップで。他に人もいて。それなのに、どうしてこんないじらしい思いをさせられなきゃならんのか。
「そ、それで?」
妙な沈黙を破ったのは、雪ノ下だった。顔を斜め下に向けながらも、未だしゃがんだままの俺に視線だけをくれる。
「それであなたは、どうしてこんなところで気持ちの悪い鳴き声を挙げているのかしら。ここは公共の場なのよ? もう少し周りの人のことも考えて頂戴」
「公共の場で鳴いてることに関しちゃ、お前は人のこと言えないだろ」
ムッと眉を顰めた雪ノ下が、こちらに歩いて来る。俺はその場で膝を折っているから、自然彼女を見上げる形になってしまい。スカートから伸びる、黒いタイツに包まれた足に目が行きそうになる。そこから必死に目を逸らし、まさか蹴るなり踏むなりされるのかしらとビビっていると、勿論そんなことはなく。
何故か俺の隣にしゃがみ、ゲージの中のマンチカンに微笑みかけた。いつもは大人っぽいくせに、こう言うときは年相応か、もしくはそれより幼く見えてしまう。
そしてその微笑みをそのままに、彼女はポツリと呟いた。
「別に、誰の前でもそうするわけじゃないわ」
その笑みが向けられる先は俺ではないと言うのに。そう言った彼女の横顔を見て、心臓が高く鳴る。
違う。別に、その微笑みに見惚れただけじゃない。だって雪ノ下は、少なくとも俺の前では、その姿を見せていいと言っているのだ。
ほんの少しでも、俺に気を許してくれている。長いようで短いような付き合いの中で、確実に俺と彼女の距離は近づいている。
それが、雪ノ下自身の口から発せられた。
顔が赤くなるのを自覚する。まさか、こんな何気ない会話で赤面するなんて。そろそろ耐性ついたと思ってたんだが、どうやら雪ノ下は防御貫通スキルでも持ってるらしい。
にゃー、とか細い声が隣から聞こえる。聞き慣れた声が、未だ聞き慣れない鳴き声を発している。
雪ノ下がにゃーと鳴くたび、ゲージの中のマンチカンも呼応してになーと鳴く。
その光景があまりに微笑ましくて、自然と頬が緩んだ。
が、しかし。次の瞬間には雪ノ下の顔から笑みが消え、俺の方に振り返る。
「それで、まだ質問に答えてもらっていないのだけれど」
「え、あ、ああ……」
思っていたよりも互いの距離が近くて、言葉にもならないうめき声じみたものしか出てこない。しかしどうやら雪ノ下にこの近さは自覚ないらしく、急に挙動不審になった俺を怪訝そうな目で見る。
俺は大体いつも挙動不審なんだから今更そんな目しないでくださいよ。
「あー、俺はあれだ。カマクラの猫砂買いにな」
「そう……」
あ、あれ、なんか雪ノ下さん、素っ気ない? さっきまでの笑顔まじでどこにいったんだこれ。あれか、俺と会話したら猫と共鳴して高まったテンションが急激にダウンしたのか。
なにそれ泣きそう。
そう思ったのも束の間。よく見ればこいつ、なんかソワソワしてやがる。
お手洗いかしら、なんて思いはしても口に出せばどんな罵倒が返ってくるか分からないので、他の心当たりを探してみれば。
まあ、答えにはすぐ行き着いてしまうわけで。
「雪ノ下」
「なにかしら」
「ちょっとここで待ってろ」
「え?」
聞こえてきた困惑の声も無視して、立ち上がり店内を見渡す。そう離れていないところに店員さんを見つけることが出来たので、なけなしの勇気を振り絞り、近づいて声をかけた。
「あのー、猫触らせてもらいたいんですけど、いいっすか?」
「はい! どちらの子でしょうか!」
「えっと、あそこのマンチカンを……」
「かしこまりました!」
随分元気のいい店員さんを連れ、雪ノ下の元へ戻る。
なにも説明せずだったので、雪ノ下は顔に困惑の色を浮かべたままだ。それに店員さんが気づくこともなく、ゲージから出されたマンチカンがこちらに差し出される。
「えっと、比企谷くん?」
「いいから、抱かせてもらえよ。触りたかったんだろ?」
「そ、そうだけど……」
恐る恐ると言った様子で、雪ノ下がマンチカンを受け取り、その腕に抱いた。にゃー、と鳴いたマンチカンにペロリと指を舐められ、雪ノ下が擽ったそうに微笑む。
全く、なにをそんなに遠慮していたのか。
それを見守っていた店員さんは、ごゆっくり〜と意味深な笑みを浮かべながら離れていく。あの、こういう場合って店員離れていいものなんですか? しかもそのにやけた顔。女性店員じゃなかったら殴ってるところだった。なにを邪推しているのやら。
はぁ、とため息を吐いたその時。マンチカンの入っていたゲージに、POPがつけられているのを見つけた。ずっとここにいたが、全く気づかなかったものだ。猫に夢中だったからね。仕方ないね。
なにやらマンチカンについてのうんちくでも載ってるのかと、そのPOPに書かれた文字を眺めてみると。
『本日はいい夫婦の日! 仲のいいあなた方ご夫婦に、新しい家族はいかがですか?』
……ははーん、雪ノ下が困惑してた理由はこれだな? 猫に触りたいとお願いしたら、俺たちの関係を勘違いされるとでも思っちゃったんだな?
いや、んなわけないだろ。俺も雪ノ下も、どこからどう見ても普通に高校生だぞ。雪ノ下はまあ、大人びて見えるから分からないでもないが、俺なんて目が腐ってることを除けば見てくれは普通の高校生だ。目が腐ってる時点で普通じゃないけど。
だが、先ほどのあの店員の反応を見るに、どうもまさしくその通りな勘違いをされている、と見て間違いないだろう。
マジかー。雪ノ下と夫婦ってお前……。マジかー……。
「にゃー」
「なー」
チラリと、猫語を駆使してマンチカンと共鳴している雪ノ下を見る。その顔にはさっきまでのように、綺麗な微笑みを浮かべていて。
想像してしまった。
彼女と同じ家に住み、こうして二人で、新しく迎えた家族を可愛がる光景を。
もしかしたらそれはペットじゃなくて、この世に生を受けたばかりの新たな命かもしれない。つまり、俺と雪ノ下の──
「比企谷くん?」
「……っ」
呼ばれ、意識が現実に浮上する。ハッとなって視線を向けた先、そこには当たり前のように雪ノ下がいて。
つい今しがたの想像がフラッシュバックしてしまい、顔全体が燃えるように熱くなる。彼女の目を見ていられなくて顔を逸らした先には、マンチカンが入っていたゲージが。
コテンと小首を傾げた雪ノ下は、俺の視線を追い、次いで俺の赤くなった顔を見て。
「あっ」
察しのいい雪ノ下は、全部気づいてしまった。俺が赤面した理由も。雪ノ下が猫を受け取るのに渋っていた理由を、俺が察してしまっていたことも。そしてあの店員から、確実に誤解されていることも。
だから、雪ノ下の顔が俺と全く同じ状態になるのに、そう時間は掛からなくて。
再び訪れた沈黙の中、雪ノ下が抱いているマンチカンの鳴き声が、妙に大きく聞こえた。
「違うのよ……」
「違うんだ……」
圧倒的デジャヴ。
ちょっとー? さっきもこんな展開なかったかしらー? しかも吐いた言葉まで同じとなると、もしかして俺はタイムリープしてるのかと疑いたくなる。なに、一秒ごとに世界線を超えてるの? 孤独の観測者なの?
またさっきと同じで言い訳を譲り合う、なんて馬鹿なことにならないよう、俺から口を開いた。雪ノ下は俯いてしまって、全く話し出す気配がないから。
「その、俺はあれだ。将来誰かと結婚して専業主夫になった時、猫がいればいいなー的なことを考えてただけでだな……」
嘘は言っていない。しかし、それが答えになっているわけでもない。俺が今宣ったことなんて、雪ノ下も既にわかっていて。俺が答えるのは、その誰かが誰なのか、だ。
けれど、そんなもの言えるはずもない。
「私も、似たようなものよ……。いつか、誰かと夫婦になった時、猫を飼いたいと思っただけで……」
俯いたまま声を発した雪ノ下に、腕の中のマンチカンが心配するようににゃーと鳴く。
彼女の言う誰かを、俺も問うべきなのだろうか。でもそんな度胸が俺にあるわけもなく。言葉は重い鉛のように、胸の中へ沈んでいく。それが再び浮上することもなく。けれど猫に微笑みかけた雪ノ下が、それそのままにこちらを向いて。
朱に染まった頬はそのままだ。いつものような、凛とした涼しい雰囲気も戻ってきていない。
でもそんな表情の雪ノ下は、いつもの彼女の何倍も、魅力的に見えてしまう。
「ねえ、比企谷くんは、どんな猫を飼いたい?」
「……なんだよ、その質問」
「いえ、少し参考になれば、と思って」
「俺の好みなんか知っても、お前の参考になるとは思えないけどな」
「あら、それは分からないわよ? いつか、そんな日が訪れるかもしれないじゃない」
「……」
「ふふっ」
なにも言えずに、ただ恥ずかしさから右手で顔を覆う俺に満足したのか、雪ノ下はにゃー、とまた猫との共鳴を始める。
いいのだろうか。望んでも。
この、目の前で猫を抱いている、とびきり可愛い女の子とのいつかを、願っても。
もしも、本当にそんな日が訪れたなら。
そうだな、今日にあやかって、新しく迎える家族は、マンチカンにしよう。