表情と言うのは、感情を表す上では欠かせないものだろう。泣いたり、怒ったり、笑ったり、人間と言うのは、そう言った表情の変化で、相手に自分の感情を伝える。ともすれば、それは言葉よりも雄弁に。
かく言う俺は、そう感情表現が豊かではない。つまりは、あまり表情が動かない。多少の動きはあるんだろうが、心の底から馬鹿みたいに笑ったり、怒ったり、泣いたりと言った経験が、片手で数える程度しかないのだ。
お団子頭の友人からすれば、俺は静かに怒るタイプだ、なんて言われるけれど。
彼女の姉からすれば、感情よりも先に理性と自意識が己を後ろから見ている、なんて語られたりしたけれど。
それを否定出来ないのもまた事実。
そしてそんな俺と同じく、感情表現がド下手クソなやつが、このワンルームのアパートにもう一人。
彼女はお気に入りの猫のクッションの上に座り、今日も今日とて読書に勤しんでいた。果たして読んでいるのはどのような本なのか。高尚な哲学書か。はたまた甘酸っぱい青春ものか。もしくは難解なミステリーか。
ニコリともせず、一心不乱に活字を追うその姿からでは、その本の中身は窺い知れない。
まあ、本を読むだけではそうそう表情に変化など訪れないだろう。これが俺なら、フヒッ、とか気持ち悪い笑い声あげてそれを咎められるどころか、ここぞとばかりに罵詈雑言の限りを尽くされるのだろうけど。いや、最近はマシか。俺の笑い方も、彼女の毒舌も。
西日を受けながらページを捲る彼女に見惚れていると、不意にその動きが止まった。丁度いいところまで読み進めたのだろうか、栞を挟んで、部屋の中央に置かれた丸机の上に本を置く。
グッと背中を伸ばすその様は、彼女の好きな猫のようだ。そうしていると、然程大きいわけではない胸部が強調されてしまい、自然と目のやり場に困ってしまう。
「少し、休憩しようかしら」
「随分長いこと読んでたな」
「ええ。久しぶりに当たりを引いたわ」
そう言いながら立ち上がる彼女、雪ノ下雪乃は、声色こそ弾んでいるものの、その顔は眉ひとつ動かしていない。こういう時くらい、素直に笑顔を見せてくれてもいいと思うのだが。
雪ノ下と出会い、色んなあれやこれやを経て恋仲になって、同棲を始めて。今日まで長いような短いような、多くの時間を彼女と過ごしてきたわけなのだが。そんな中で分かったことがひとつ。
どうやら俺は、雪ノ下雪乃の笑顔にめっぽう弱いらしい。
例えば、彼女が俺を詰る時。
例えば、由比ヶ浜と三人で遊ぶ時。
例えば、猫と戯れている時。
感情表現がド下手クソな彼女の浮かべる、色んな笑顔が、俺の脳裏にこびりついている。
惚れた弱みと言われれば、実にその通りではあるのだけど。
「紅茶、あなたも飲む?」
「ん、頼むわ」
キッチンで紅茶の準備をしている雪ノ下に、声を返す。いつからだろうか。あの甘ったるいコーヒーよりも、彼女の淹れる紅茶の方が好きになってしまったのは。
慣れた手つきで紅茶を淹れた雪ノ下が、こちらに戻ってきて、丸机の上にいつもの湯呑みを置く。
俺も開いていたラノベを閉じ、湯呑みを手に取ってふーふーと息を吹きかける。
あの頃と似たような、静かな時間。今は互いに読書を中断しているから、聞こえてくるのは彼女がカップを動かす音と、俺が息を吹きかける音くらい。
そんな静寂を破ったのは、雪ノ下の方だった。
「さっきは随分と熱心に、私を視姦していたようだけれど」
「……言い方。それだと俺が犯罪者みたいだから気をつけてね?」
「あら、なにか間違っていたかしら?」
「なにもかもが間違ってるんだよなぁ……」
クスクスと微笑みを漏らすその声が、背中をむず痒くさせる。先ほどの視線がバレていた恥ずかしさと、それを許容してくれることに対する照れ臭さ。
顔を正面から逸らしたところで、彼女の綺麗な瞳は逃してくれない。
「でも、私に見惚れていたのは間違ってないでしょう?」
「……まあ、うん、そうですけどね」
「ふふっ、素直なのはいいことよ」
チラリと横目で窺えば、心底楽しそうに微笑む雪ノ下が。なんだかからかわれているみたいで若干悔しいけれど、その笑顔を見られるだけで、そんなちっぽけな悔しさなんてどうでもよくなる。
さて、話を少し戻そう。
俺は感情表現が下手くそだ。その自覚はある。心底から笑ったり、怒ったりなんて経験は本当に少ない。
けれど雪ノ下は、最近よく笑うようになった。それはお団子頭の彼女だったり、あざとい後輩だったりが、雪ノ下の心に積もった雪を溶かしてくれたからなのだろうけど。
そんな雪ノ下に対して、俺はあまり、自分の感情と言うものを示してやることが出来ていないのではなかろうか。
時折不安になるのは、どうしようもない俺の癖。どうでもいいような事を、深く考えすぎてしまう。
「比企谷くん」
「ん?」
降ってきた声に、思考の海から浮上する。雪ノ下は既に笑みを引っ込めていて、上品な所作で紅茶のカップを口に運んでいた。そうしていると、育ちの良さが垣間見えて、ただ紅茶を飲むだけでも絵になる。絵画の中から出てきたと言われても、不思議に思わないだろう。
「隣、失礼するわね」
「えっ」
再び立ち上がった雪ノ下が、猫のクッションを持って俺の隣に移動してきた。そしてそのまま、そこに腰を下ろす。腕と腕はぴったりくっついていて、それどころか体重までこちらに掛けてくる始末。
突然どうしたのかと問おうとすれば、本当に幸せそうな笑顔とぶつかって。
頬が熱を持つのを自覚する。同棲を始めてからそれなりに時は経つと言うのに、こういった身体的接触は未だに慣れない。
「いきなりどうしたんだよ……」
「なにか変かしら?」
「変っていうか……。あんまないだろ、そうやってくっついてくんの……」
「今はそういう気分なのよ」
「さいですか……」
終始笑顔で言われてしまえば、俺は抵抗なんて出来なくて。
右肩にかかる重みと、微かな体温。なんだかんだ言いつつ、それを感じられることが、この上なく嬉しい。柄にもなく、幸せなんだと思える。
「変なことで不安になるのは、あなたの悪い癖ね」
微笑み混じりの声で、雪ノ下が言う。突然心の中を言い当てられたから、俺としては困惑しかない。なにも言葉にしていなかったはずなのに、どうして。
それすらも雪ノ下にはお見通しなのか、彼女は俺と視線を絡ませて、まるで自慢するかのように語るのだ。
「好きな人の考えてることくらい、私には分かるわよ」
胸が高鳴る。隣の雪ノ下に聞こえてしまっているのではないかと錯覚するくらいに。
まるであの頃に戻ってしまったようだ。彼女の一挙一動に心を揺らしていた、青臭い春に。あれからもう、幾年も時を重ねたと言うのに。
「安心しなさい。ちゃんと伝わってるから。まあ、欲を言うのなら、もう少しあなたの笑顔を見たいところだけれど」
恋人にそこまで言われてしまえば、不安に思っていたのすらバカバカしくて。不思議と頬が緩んでしまう。
「あら、漸く笑ってくれたわね」
「まあ、そんだけ言われたらな。嫌でも笑いたくなるだろ」
「なら良かったわ。私、あなたの笑顔は好きだもの」
歌うように言葉を紡ぐ雪ノ下は、少し頬が赤くなっている。さすがの彼女も、好きだなんて言葉を使うのは、照れ臭いのだろう。
けれどその顔から笑顔は絶えなくて。そんな表情を見ていると、強く思ってしまう。
俺も、お前の笑ってる顔が好きなんだと。
それを言葉に出せればいいのだけれど、それが出来ない俺だから。
その代わりに紡ぐ言葉、余計に俺らしくなくて。
「あれだ。今俺、めっちゃ幸せだわ」
「ふふっ、柄にもないことを言うのね」
「たまには、な」
笑顔ひとつで、幸せが胸に染み渡って、こんなにも愛しさで満ち溢れる。
ならば明日からは、もう少し笑顔を心がけてみよう。