八幡と雪乃の恋物語   作:れーるがん

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あなたの名前を

 比企谷くん、と呼ばれるのが好きだ。

 うまく言語化できる訳ではないのだけど、彼女に名前を呼ばれるだけで、多幸感に包まれる。そう言えば、惚気になってしまうのだろうか。

 けれど、八幡と呼ばれるのは、ちょっと違う気がする。きっと、出会った頃から一年近く呼ばれたその名で呼ばれることこそに、俺は価値を見出しているのだろう。

 彼女の喉が奏でるその音色にこそ、きっと意味がある。けれどもちろん、そんなことを面と向かって彼女に言ったことがある訳ではなくて。

 

「比企谷くん」

 

 ほら、今日も自然と、雪ノ下は俺の名を呼んでくれる。

 なにか思いついたような、思い出したような、そんな調子で。

 

「ん、なんだ?」

 

 読んでいた文庫本から顔を上げ、長机の対面へと顔を向ける。この距離感も、入部当時からずっと変わらない日常のひとつ。近すぎず、遠すぎず。

 けれど実際の距離よりも近く感じるのは、俺だけだろうか。

 対面に座る雪ノ下は、未だ文庫本に目を落としたままだ。お話しするときは相手の目を見て話しなさいって母ちゃんに教わらなかったのかよ。教わってなさそうだなぁ。

 

「ひとつ思ったのだけれど」

 

 と、ここで漸く顔を上げる雪ノ下。その、空を写したような澄んだ瞳と視線がぶつかる。彼女は至って真剣な表情と眼差しで、続く言葉を紡いだ。

 

「私達、そろそろ名前で呼び合うべきなのかしら?」

「は?」

 

 思わず、手元の文庫本を落としてしまいそうになった。この子、真剣な顔してなに言ってんの?

 

「あなたと男女交際を始めて今日で丁度三ヶ月が経つわ。一般的な高校生の、あなたが言うところのリア充、とやらは、もう既に名前で呼び合うほどの仲になっていると思うのよ」

「お、おう……」

 

 待ってやばい何言ってんのか全然分からん。変なものでも食べたのかしら?

 て言うか。

 

「なに、数えてたの? 付き合ってから何日目か」

「……今は関係ないことだわ」

「数えてたのか……」

 

 そんな赤い顔してソッポ向かれても、白状してるのと同じですよお嬢さん。俺の顔がどんな色かはさて置くけど。

 しかし、こいつがいきなりこんな事を言い出すと言うことは、まず間違いなく第三者の介入が予想されるだろう。例えば陽乃さんとか、例えば由比ヶ浜とか、例えば一色と小町の年下コンビとか。

 まあ、そのあたりはどうでも良い。仮にそうなのだとしても、それは既に過去の話だ。問題は、今こうして発言してしまった彼女に対し、俺がどのような反応を取るのか。

 残念ながら、俺の脳内には某ラノベのように選択肢が現れたりしないので、自分で考えなければならない。いや、まああんな感じの選択肢が出て来られるのも嫌だけど。

 

「それで、どうかしら?」

「どうかしらって言われてもな……」

 

 そもそも、いきなりすぎるのだ。彼女のことを名前で呼ぶのは、まあ吝かではない。だけど、心の準備というのが僕にもありましてね。

 

「んじゃ、取り敢えずそっちから呼んでみてくれよ」

「え?」

「いや、え? じゃなくて。呼び合うって言うからには、雪ノ下も俺のこと名前で呼ばなきゃおかしいだろ」

「そ、それもそうね……」

 

 はっはーん。この子、もしかして俺に雪乃って呼ばれることしか考えてなかったな? さすがはポンコツゆきのん。もうちょい考えを巡らせましょうよ。

 逡巡するような一瞬の間の後に、咳払いが一つ。顔を俯かせ、視線だけをこちらにやって、なんともいじらしさを感じさせながらも、雪ノ下は蚊の鳴くような声を発した。

 

「は……はち、まん……」

 

 言い終わった頃には、雪ノ下の頬は真っ赤に染まっていて。視線も完全に下を向いてしまい、その表情は窺えない。ただ、赤くなってしまった頬が辛うじて見えるだけだ。

 けれど、そんなものを見てしまえば、思考回路はショート寸前で。名前で呼ばれただけだ。例えば、戸塚や材木座になんて、いつも呼ばれている。両親にだって毎日のように呼ばれているのだ。だと言うのに、こんなにも胸がいっぱいになってしまうのは、どうしてなのだろう。

 

「その、何か言って貰わないと、困るのだけれど……」

「お、おう……」

 

 なにか、と言われても。なにを言えばいいのか。感想でも言えばいいのか? もしくはもう一回呼んでもらうか?

 最早使い物にならなくなった俺の頭は、そのうち考えることを放棄してしまい。思ったことをそのまま、口に出してしまった。

 

「その、あれだ……。思ったより、悪くない……」

「そ、そう……」

 

 訪れる沈黙。雪ノ下はすっかり茹で上がってしまい、顔を上げる気配がない。かく言う俺も、彼女に負けず劣らず、頬を朱に染めてしまっているだろう。

 比企谷くんと雪ノ下。

 そう呼んで、呼ばれて。いつしかそれが心地よくなっていた。いつかそれに変化が訪れるとは思っていたけれど。

 今日、唐突にやって来たその変化は、自分で思っていたより悪くはなくて。

 深呼吸を一つして、高鳴る鼓動を抑えつけようとする。けれどそれは全く意味をなさなくて、それに構わず口を開いた。

 

「……雪乃」

「……っ」

 

 心臓の音がうるさすぎて、それに掻き消されてしまったのではと錯覚するくらい、小さな声。けれど、目を見開いて顔を上げた彼女の様子からして、俺のなけなしの勇気は無駄にならなかったらしい。

 顔が爆発してしまうのではないかと思うくらい、熱を持っている。今すぐ逃げ出したい衝動に襲われるが、そう言うわけにはいかない。

 どれだけ恥ずかしかろうが、照れ臭かろうが、対面に座る雪ノ下から目を逸らさない。

 彼女の濡れた瞳と視線が絡まる。逸らそうと思っても、それが出来ないほどに絡め取られて。やがて彼女の目が細められ、その顔は笑みを形作る。

 心底から嬉しそうな。幸せを噛みしめるような。綺麗な笑顔だ。

 

「名前を呼ばれただけなのに、こんなにも幸せなものなのね」

 

 その笑顔に、見惚れてしまう。

 もう何度と見てきた彼女の笑顔。そのどれよりも美しく見える微笑みに、心を奪われてしまう。

 

「ねえ。もう一度、呼んでくれるかしら」

 

 あれだけ暴れていた心臓は、不思議と静かに鼓動を打っている。どころか頬も緩んでしまう始末。

 だから、この胸に溢れんばかりの愛しさを全て込めて、俺はまた呼ぶのだ。

 

「雪乃」

「……なに、八幡」

 

 未だ慣れない呼び方。呼ばれ方。そこに妙な擽ったさはあるものの、悪くはない。どころか、好ましいまである。

 

「これは、慣れるまで少し掛かりそうね」

「まあ、いいんじゃねぇの。慣れるまで何度でも呼べばいいだろ」

「ふふっ、それもそうね」

 

 出会ってから今日つい先ほどまで、ずっと苗字で呼び合っていたのだ。いきなり名前で呼び合っても、少しのぎこちなさがあるのは致し方ない。

 気がつけば、先ほどまでの妙ないじらしい雰囲気はどこへやら。俺も彼女も弛緩しきっていて。だからだろうか、つい、余計なことまで口走ったのは。

 

「実を言うとな、お前に比企谷くんって呼ばれるの、そこそこ気に入ってたんだ」

「……?」

 

 いきなりだったからか、雪乃はキョトンと小首を傾げている。そうしていると、いつもより幼く見えてしまう。それがなんだかおかしくて、笑みを携えながらも、続く言葉を紡いだ。

 

「ほら、出会ってから今の今まで、ずっとそう呼んでくれてただろ? うまく言えないんだが、なんと言うか、お前が俺を比企谷くんって呼んでくれることに、一種の心地よさを感じてたんだと思う」

「そう……」

 

 なにも具体的なことは伝わらない、曖昧は言葉の羅列。それでも、雪乃には俺の言わんとしてることが伝わったのか。どこか可笑しそうに、彼女は微笑む。

 

「それなら、私と同じね。あなたが私を呼んでくれる。それはもう、私にとって日常の一つになっていたから」

 

 この部室に足を運んで、彼女の淹れてくれた紅茶を、三人で、時折四人で味わって。そうして、彼女が俺を呼び、俺が彼女を呼ぶ。

 なにも、雪乃から呼ばれることに限った話ではないのだろう。雪乃の言葉で、合点がいった。

 比企谷くん。ヒッキー。先輩。

 この部室でそう呼ばれることが、最早当たり前すぎて、日常の一つに溶け込んでいて。

 だから、心地よかったのだ。いつもと変わらぬ日常が流れていく。それはともすれば、ぬるま湯に浸かっているかのようなものだけれど。

 それでも、こうして変化は訪れた。

 ただの呼び方一つ。されど、俺たちにとっては大きな変化。

 きっといつか、彼女に名前で呼ばれることすら、日常の風景へと溶けていくのだろう。今のこのぎこちなさはどこかへ消えてしまって、八幡と呼ぶ彼女の鈴のような音色に、心地よさを感じるのだろう。

 それでも。

 

「それでも、私はあなたの名前を呼びたい。あなたに名前を呼ばれたい。だって、こんなにも幸せなことだなんて、思ってもいなかったもの」

 

 いつもの日常が過ぎていくのも、それは幸せなのかもしれない。

 けれどこうして、なにかを変えて行くことで、別の幸せを手に入れることが出来る。

 彼女が、俺の目の前で微笑んでくれている。それこそが、俺にとっての幸せに他ならないのだけれど。

 

「だからこれからも、あなたの名前を呼んでいいかしら?」

「いちいち許可なんていらんだろ。どうせ、俺もお前の名前を呼び続けるんだし」

 

 俺らしい捻くれた回答に、雪乃はただ微笑みを返すのみ。

 恥ずかしさが今更遅れてやって来て、読みかけだった文庫本に視線をおとす。

 果たして、ぎこちなさが取れるのはいつになることやら。そのいつかを想像してみて、やはり俺の頬は、緩んでしまうのだった。

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