「いらっしゃいませー。お一人様ですか?」
「いえ、連れが先に」
近寄ってきた店員を片手で制し店内を見渡してみれば、見慣れた猫背の後ろ姿を発見。いつも通りくたびれて見えるその背中は、あの頃と何も変わらなくて。でも、あの頃より少しだけ大きくなった気がする。
紫煙を燻らせているのは恩師の影響か。たしかこの前も、税金が上がったとかで嘆いていた。そこまで言うなら辞めればいいのに。
「比企谷くん」
名前を呼べば、あなたが私を見てくれる。
当たり前のことなのに、それだけでとても嬉しい。これだけは本当に、あの頃からなにも変わらない。
私が来てから吸いかけのタバコを消すのは、いつも通りのこと。あまり気にしなくてもいいのに。あなたのそんな小さな優しさが、私の心に響く。
「ごめんなさい、待たせたわね」
「いや、いい。お陰で一服できたからな」
灰皿に捨てられた吸い殻は、どう見ても半分以上残っている。あまり待たせたわけではなさそうだけど、一服出来たなんて嘘をつく必要もないだろうに。
嘘つきなのも、変わらない。
「すいません、生中一つ」
「二つで」
「生中二つと、あと皮とハツ、塩で二人前。それからモモをタレで二人前。あとは……」
手慣れた様子で店員に注文を告げる彼は、どこからどう見ても社会の荒波に呑まれた一介のサラリーマン。
お互いが大人になって、仕事も始まって。そんな中で、私達の繋がりは消えるものだとばかり思っていたのに。どうしてか今もこうして、花の金曜日に二人で焼き鳥屋に来ている。
私自身も何故かは分からない。正直、私のキャラ的に焼き鳥屋ってかなりイメージと違うはずなのだけれど。
いや、どうしてかとか、何故か分からないとか、いちいちそんなことを言うのすら白々しいか。
ただ、彼との繋がりを断ちたくなかった。
泡沫の幻が如く消えていくはずだったこの恋を、私はついぞ諦めることが出来なかった。
なにをしても、どこへ行っても、諦めることが出来ないのなら。それはきっと、本物だ。
ならば私は、どれだけみっともなくたって、この男との繋がりを消すわけには行かない。まあ、それ以上のことが全く出来ていないのは、現状が物語っているのだけれど。
でも比企谷くんも比企谷くんよ。私みたいな美少女が花の金曜日に毎週食事へ誘っているのだから、少しくらいなにかあってもいいと思うのだけれど。
「んじゃ、今週もお疲れさん」
「ええ、お疲れ様」
運ばれて来た中ジョッキを持ち上げ、カチンとぶつける。
恩師が飲んでいる姿を見ているだけだったあの頃は、ビールは苦いものだと聞き及んでいたけれど。これがどうしてか、中々癖になってしまう。仕事終わりの一杯、控えめに言って最高よね。悔しいけれど、平塚先生の気持ちが分かってしまったわ。
「相変わらずいい飲みっぷりだな」
「そうかしら?」
「年々平塚先生に似てきてるんじゃねぇの?」
「人を生き遅れ呼ばわりしないでくれる?」
「うん、とりあえず謝ってこい」
そもそも私はあの人と違って、ちゃんと相手がいるもの。まあ、問題はその相手が全くそう言う目で私を見てくれていないかもしれない、と言うことなのだけど。
その辺りは追い追い、ということで。なにごとも焦りすぎはよくないのだ。いえ、そろそろ焦った方がいいかなーとは思ってるのよ。思ってはいるのだけど、ほら、ね? 中々勇気が出ないと言うか……。
「ふぅ……」
「本当いい飲みっぷりだな……」
ジョッキを傾けて思考を中断させる。あれ以上は泥沼にはまりかねない。
向かいからは呆れた声が聞こえてくるが、誰のせいだと思っているのか。自覚がないって罪なことよね。
「もう年度末だけど、あなた仕事は大丈夫なの? 上手くやれてる?」
「お陰様でな。上手く行きすぎてもはや将来有望のエリート社畜になってるわ」
「そう。出る杭は打たれる、と言うものね」
「ちょっと? そんな話ひとつもしてませんせど? いや、否定出来ないんだけどさ」
否定出来ないのね……。なんだかんだで比企谷くんは非常に優秀だ。決してバカではない。だから任された仕事はきっちりこなすし、それ故に必要以上に仕事を任されてしまうし、当人の人の良さからそれを断ることもしないのだろう。
繁盛期は超えたからか、こうして金曜日に食事へ誘っても来てくれるが、先月までは何度か断られることもあった。
そして、人間社会というのはどこに行ったって同じようなもので。優秀な人間ほど生きにくくなる。
それは社会人だろうが学生だろうが、なにも変わらない。
せめて今このひと時が、彼にとって心休める時間であればいいのだけれど。
「お前はどうなんだよ」
「今週も恙無く終わったわ。うちの会社は、私よりも優秀な人がたくさんいるから」
「うへぇ、お前より優秀とか、お前の姉ちゃんみたいなのがゴロゴロいるってことか」
「そんな会社なら今すぐ辞めてるわね」
「だろうな」
店員が注文していた料理を運んで来た。ついでに空になったジョッキを下げてもらい、二杯目を注文する。
「お前、ちょっとペース早くないか?」
「そんなことないわ」
「酔い潰れるのだけは勘弁してくれよ」
「安心して頂戴。それだけはないから」
だって、酔い潰れてしまったら。せっかくのあなたと過ごせる時間が、台無しになってしまうもの。
一分一秒でも、今この時を胸に刻みたい。それだけで、また一週間頑張れるから。
「比企谷くん、皮をもう一人前頼みましょう。あとあれ、おさつバターがこの前美味しかったわ」
「へいへい」
すいませーん、と声を張り上げると、店員が二杯目のジョッキも持って来てくれた。それを受け取り、皮の塩焼きと一緒に胃の中へ納める。
やっぱりビールのおつまみには塩味が一番よね。
うまうまと焼き鳥を頬張っていれば、注文を終えた比企谷くんが私の顔を凝視しているのに気がつく。も、もしかして、さすがにはしたなかったかしら?
「なに?」
「いや、今更ながら、雪ノ下に焼き鳥って似合わんよなぁ、と」
「あら。なら次は高級イタリアンにでも行く?」
「勘弁してくれ。そんな金ないし、肩身の狭さで碌に飯の味も分からんくなる」
「でしょうね。私も、このお店の方が気楽でいいもの」
我ながら慣れてしまったものだ。ここでビールを飲んで焼き鳥を食べながら、比企谷くんとお話することに。
あなたは、どう思っているのだろう。私と過ごすこの時間を、特別に思ってくれているだろうか。大切に思ってくれているだろうか。
それとも、そう思っているのは、私一人だけなのだろうか。
もしあなたも、この時間を特別に、大切に思ってくれているなら、それほど嬉しいことはない。
今の私にとって、あなたと過ごすこの時間は、なによりも特別で、大切なものだから。
「そろそろ、なにかあってもいいと思うのだけど、ね」
「なんの話だ?」
「いえ、ただの独り言よ。それより比企谷くん、グラスが空よ? もっと飲みなさい」
「俺を酔わせてどするつもりだ。財布の中はここのお代くらいしか入ってないぞ」
「そうね……送り狼、とか?」
「んぐっ……」
ふふっ、顔が真っ赤になってる。可愛いわね。言ってみただけでそんなことする度胸はないのだけれど。むしろ、比企谷くんに送り狼になってもらわないと困るわ。
まあ、お互いにそんなことが出来るのなら、今のこの関係に落ち着いているはずもないわけで。
ヘタレだとか鈍感だとか内心で詰ってはいるものの、そこはお互い様なのだから。
「お前、もう酔ってるだろ……」
「さて、どうかしらね」
酔ってはいないはずだけど。もしかしたら、少しだけ、浮かれているのかもしれない。
三月になっているとはいえ、さすがに夜はまだ冷える。
寒風はアルコールで火照った身体を冷やしてくれて。けれどそれ以上に、あなたが隣にいるだけで、心はポカポカと暖かいまま。
「さっきの話ではないけれど、たまには焼き鳥以外もいいかもしれないわね」
「高級イタリアンは勘弁な」
「安心しなさい、安っぽい居酒屋をチョイスしてあげるわ」
「それはそれでどうなんだ」
交わす言葉が心地いい。あなたとの会話は、いつも私に笑顔をくれる。
本当は、家に招いて手料理を振る舞ったりしたいのだけれど。やっぱり誘う勇気が私になくて。
もしかしたら、あなたはそう言うつもりじゃないかもしれないから。
周りのお店はとうに閉まっていて、歩いているのは私達だけ。街灯と星の輝き、月の灯りが照らす道を、隣にいるあなたと歩く。ただこうして一緒に歩いているだけで、満足している私がいるけど。
いつまでもこのままじゃいられない。
変わらないものはたしかにある。あなたの目、あなたの後ろ姿、あなたの話し方。そんな表面上のあなたはなにも変わっていないけれど。
その心の内までは分からない。
「なあ、雪ノ下」
「なに?」
ああ、これも同じ。あの頃と変わらない、あなたが私を呼ぶ声。聞く人が聞けば、どこか不機嫌そうにも感じられるその音。
けれど、私の心にはしっかり刻まれている、大切な音。
「お前にそんな気ないのは分かってるんだけどさ」
なんて前置きを挟んで。
視線を向けた先の比企谷くんは、しっかりと私の目を捉えて。
「お前が好きだ。だから、付き合ってくれ」
私の大好きなその音で、不器用ながらもシンプルな言葉を紡ぐ。
思考が停止した。同時に、動かしていた足も。
自然と比企谷くんもその場に立ち止まってしまい、けれどそれでも、私から視線を逸らそうとはしない。
待って。ちょっと待って。え、これもしかして、私告白されたの? え、嘘でしょ? 夢じゃないわよね? 気がついたら家のベッドの上とか、そんなんじゃないわよね?
いえ、そんなことよりも。
なによ、お前にそんな気ないのは分かってるけど、って。そんな気しかないわよ。なんならその為だけに毎週食事に誘ってるまであるのに、なによそれ。
返事をしなきゃ。私もあなたが好きだって。あなたと付き合いたいって。
でも、余計な思考が頭の中でぐるぐる回ったせいなのか、言葉は上手く出てくれない。喉の奥でつっかえて、意味を持たない吐息だけがただ口から漏れるのみ。
それをどう受け取ったのか、比企谷くんはやがて私から顔を逸らして、背を向けてしまう。
「悪い、なかったことにしてくれ。冷えてきたしそろそろ──」
「待って……!」
歩き出そうとした彼の服を摘んで、なんとかその足を止めさせた。
再び振り返ったあなたの顔は赤く染まっていて。場違いにも、可愛いだなんて思ってしまって。
私は、一体どんな顔をしているのだろう。
正直、彼の言葉が嬉しくて、今にも泣きだしてしまいそうだ。鼻の奥がツンとする。直前に摂取したアルコールとは無関係な熱が、顔全体に帯びている。
どんな顔をしていようと関係ない。ブサイクな表情だろうが構わない。
それでも。だとしても。言いたいこと、伝えたいことが、あるから。
「なかったことになんて、させないわ」
明確な形と意味を与えられたその音は、ちゃんと届いてくれたんだろう。一歩後ずさる彼の服から手を離して、決して逃さないように、その手を握る。
私よりも大きくて、骨張った手。その手を、強く。
「私は……私、は……!」
事ここに至って、臆病な私が邪魔をする。言いたいのに。伝えたいのに。最後の一歩が、踏み出せない。
そんな私の手を。あなたの手が、包んでくれた。とても優しく、柔らかく。
ハッとして見上げたあなたは、とても余裕のあるとは言えない、追い詰められたような、必死な表情だけど。
「雪ノ下。もう一度だけ言うぞ」
それでも。そんなあなただから、私は。
「俺は、お前が好きだ。ずっと、あの頃からずっと、お前のことが好きだ。だから、俺と付き合ってくれ」
堪えていたものが溢れ出して、視界が滲む。けれど、勝手に笑顔を形作っていて。
とても綺麗とは言い難い、めちゃくちゃな笑みでも、あなたは受け止めてくれる。
「私も、あなたが好き。比企谷くんのことが、とても好きよ」