夏休みと比べると、春休みというのはとても短い。いや、そもそも比べることすら間違っているのかもしれないけれど、大きすぎるその差はどうしても目についてしまう。
私自身、そこまで休日を欲しているわけではないし、彼や彼女と会えるのだから、学校がある平日の方が好ましい。
長期連休で生活のリズムが崩れてしまう可能性もあるから、尚更。
いくら春休みが短いとは言え、それでも二週間は休みになる。私は元々、進んで外に出るような人間ではないから、その大半を自宅で過ごすことになる。由比ヶ浜さんや一色さんとは遊ぶ約束をしているけど、そこに彼はいない。個別で約束を取り付けているわけでもない。
だからこの二週間、彼と。比企谷くんと会うことはない。卒業式とプロムを経て、変化を見せた私達の関係だけど。それでも、私はあなたに一言、会いたいと告げることすらできなかった。
言い訳がないと、自分の望み一つろくに言えない。
「はぁ……」
ため息を零し、手元のティーカップを口元に運ぶ。次いで視線を向けた先は、テーブルの上に置いてあるスマートフォン。ラインのアプリを起動していて、画面には真っ新なトークルームが。
つい最近交換したばかりの、彼のライン。けれどそこにはなにひとつやり取りが記録されていなくて、またしてもため息が漏れる。
直接会えば軽口と皮肉がいくらでも出てくるのに、スマートフォンを挟んだだけでこの始末。相手の顔が見えない、文字でしか言葉が伝わらないというのも、不便なものだ。
ティーカップを置いて、代わりにスマホを手に取る。
別に、理由なんてものは必要ないはずなのだ。世間一般的な私達の関係性だと、わざわざそんなもの用意せずとも、会いたい時に会って、会えない時でもラインや電話などでお話して。そうやって互いの仲をさらに深めるものなのだろう。
けれど残念なことに、私も彼も世間一般とはあまりにも乖離している。
おふざけのつもりで文字を打ち込んでいき、書き出されたのは『会いたい』の四文字。
「こんなの、送れるはずもないのだけど……」
自嘲気味な笑みを漏らして、文字を消そうとし。
シュポンッ、と。
どこか間抜けな音が鳴った。はて、この音はなんだったか。たしか、ラインでメッセージを送信した時に、スマホから鳴る音だ。そのはずだ。
ならば何故今このタイミングで? それは、私がなにかしらメッセージを送信したからだろう。その時に鳴る音なのだから、そうじゃないとおかしい。
問題は、私自身にそんなことをした自覚がないわけで。
「あっ」
スマホの画面を見て、絶句した。もはや戦慄した。この雪ノ下雪乃が、恐れ慄いた。
なににって、今まさしく、自分のしでかした愚かなミスに。
『会いたい』
その、消すことのできない四文字が、はっきりとトークルームに表示されているのだ。
えっ、まっ、ちょっ……ゑ???
待って、待ってちょうだい、なに、なにがあったの? 私はなにをしたの???
おかしい、たしかに消したはずの文字が、ちゃっかり送信されてしまっている。バグなの? インターネットが壊れたの?
いやそんな、インターネットが壊れるなんてそんなことあるはずない。その程度なら私でも知ってる。仮に壊れたら世紀の大事件よ。ゆっくりお湯に浸かってる早坂も慌てるわよ! 早坂って誰よ!
お、おち、おちけつ、もちつきましょう……。今更取り乱したところで、送信してしまった事実は変わらないのだから。餅ついてどうするのよ。
ええ、素直に認めましょう。これは私が間違えた。バックスペースをタップしようとして、送信をタップしてしまった。
けれど私が悪いわけではない。バックスペースと送信がこんなに近いスマホが悪い。
本当、なに、なんなのこのスマホ? つっかえないわね。もうちょっと持ち主の意思を汲み取ろうって気概はないわけ? あるはずないわねそんなの。あったら世紀の大発明よ。ゆっくりお湯に浸かってる早坂も慌てるわよ。だから早坂って誰よ!
ダメね、全然落ち着けてないわ……。慌てることはないわよ私。この前由比ヶ浜さんに教えてもらったじゃない。送信したメッセージは取り消すことができる、って。
たしか、メッセージを長押しして……。
「ひゃっ……!」
な、鳴った! スマホが! スマホが鳴った!
しかも比企谷くんからの電話! ラインじゃなくてスマホに直接! なんで⁉︎ ラインは既読ついてなかったじゃない!
どうするべき? いえ、選択肢が一つしかないことは分かっているのだけれど。でも、えぇ……これ、出なきゃダメよね、やっぱり……あんな意味不明なラインを送った後だから、出づらいというか、出てどうしたらいいのか……。
でも、出るしかないわよね。迷ってる暇なんてない。ラインに既読はついていなかったから、もしかしたら別件かもしれない。ええ、そうよ。きっとそうだわ。別件に違いない。……別件よね? 今のラインは関係ないわよね?
心の中で何度もそう唱えながら、ついに私は、通話ボタンをタップした。
「もしもし、雪ノ下で──」
『なにかあったのか?』
開口一番、食い気味に。私が名乗り終わるよりも早く、心配げな優しい声が届いた。
優しいけれど、どこか慌ててるような、見えない何かに急かされているような。
予想外の言葉と声音に、思わず二の句を継げなくなる。
『雪ノ下?』
「……いえ、ごめんなさい。なんでもないわ。こんにちは比企谷くん」
『おう。それで、いきなりどうしたんだよ。あんなライン急に送ってくるなんて』
「いえ、その……」
遅れて、嬉しさが込み上げてくる。比企谷くんの懸念は彼お得意の勘違いだし、その心配は全くの杞憂なのだけれど。
それでも、あのメッセージを見て、私を心配してくれて。私のことを、そんなにも考えてくれているんだと思ってしまえば、胸の中が勝手に満たされてしまう。
数日ぶりに聞いた彼の声も、その一因だろうか。比企谷くんの声は、なぜかいつも私の心を落ち着かせてくれる。不思議だ。
だから、特に迷うこともなく、本当のことを話せた。
「あなたが心配するようなことは、なにも起きていないわ」
『本当か……?』
「ええ。忘れたの? 私、嘘は吐かないのよ」
『そうか……ならよかった……』
はぁ、と重めのため息が、電話越しに聞こえてきた。なんだか、本当に耳側で彼に息を吹きかけられてるみたいで、背中のあたりがゾワゾワする。
そこまで安堵してくれるのが嬉しい。重たい女だと思われるだろうか。そうだとしても構わない。だって、彼の中ではそれ程までに、私の存在が大きくなっている証拠なのだから。きっと、由比ヶ浜さんや一色さんよりも。小町さんは、どうかしら。シスコンな彼のことだから、小町さんの方が上だと言うかもしれない。
とても小さくて、子供みたいな独占欲。
でも、それを受け止めてくれるあなただから、私は。
「だから、ね。比企谷くん。私は今すぐ、あなたに会いたい」
『……っ』
電話の向こうで、息を飲む気配があった。少なからず驚いているんだろう。私も、こんな言葉が簡単に出てきた私自身に驚いている。
「私は嘘を吐かないわ。だから、あなたに会いたいと送ったそのメッセージも、嘘なんかじゃない」
『……珍しいな。なんつーか、お前がそんなこと言うなんて』
「たまにはいいでしょう? その、私達はもう、恋人同士、なのだから」
あなたの恋人になれた実感が、未だに湧いてこない。胸の内にあるこの喜びが、全て泡沫の幻がごとく消えてしまわないか、不安になるときもある。
けれどきっと、それはこれから積み重ねる時間の中で、自然と消えていくものだ。
歩く道も目指す場所も違うのかもしれない。
それでも私は、あなたと同じ景色を見たいから。そう願ったのだから。
『……すぐ行くから、待ってろ』
それだけ告げられ、通話が切れた。耳に届くのはツーツーという電子音のみ。
これからここに、比企谷くんが来る。家の中だけどちょっとオシャレしたいし、おもてなしの準備もしないといけない。
でも、その前に。
「あなたのそういうところ、好きよ」
届かないと分かっていても、言葉にせずにはいられなかった。
本当に、心の底から、とっても好きだから。
彼が来たら、面と向かって直接言えるように頑張ろう。
だから、あなたからも聞かせてね? 不器用で捻くれていてもいいから。あなたの言葉を。