「あなた、料理は出来るのよね?」
「は?」
いつからか当たり前になってしまった、雪ノ下と歩く帰り道。いつもは基本的に会話も少なく、ただ静かに二人手を繋いで歩いているだけの、そんな時。
珍しく口を開いた雪ノ下が、唐突になんの脈絡もない話を振ってきた、
「そりゃまあ多少なら出来るけど」
「専業主夫の必須スキルだから?」
「今更んなこと言わん」
質問の意図も分からないままに答えれば、隣の彼女がクスクスと笑い始める。鈴を鳴らしたような透き通る音。いつまでも聞いていられるような。心地のいい音色だ。その上笑顔がめちゃくちゃ可愛い。俺の彼女やっぱ最強だわ。
なんて内心で惚気るのも乙なものではあるのだけれど、結局どうしてそんな質問をしたのかを聞いていない。
「で、なんでいきなりそんな話を出してきたんだ? まさかこの期に及んで俺を専業主夫にするつもりじゃないだろうな。やめろよ、せっかく諦める決心がついたんだからな」
「そんなわけないでしょう。あなたに家のことを全て任せるだなんて、あまりにも怖くて想像するだけでも虫唾が走るもの」
「言葉のチョイスが一々攻撃的なんだよなぁ……」
虫唾が走るって……。別にそこまで家事スキル酷いわけじゃないんだけど……。ゆきのんは八幡のこと舐めて見過ぎじゃない?
「それで、一番得意な料理はなにかしら?」
「玉子焼きだな」
「……」
「おい、なんだその目は」
今にもシラーっというオノマトペが空中に現れそうなほどに白い目を向けられた。なんでだよ。いいじゃん玉子焼き。美味しいし。作るの簡単だし。お弁当の必需食品だぞ。
「まあいいわ。ところで比企谷くん。今日この後、うちに寄っていかないかしら?」
「お前さっきから本当脈絡ないな。別にいいぞ。また飯食わしてくれるんだろ?」
「そのことなのだけれど」
なに、食わせてくれないの? 今まで放課後に雪ノ下の家へお邪魔して夕飯をご馳走になったことは何度もある。いつも絶品な料理を振舞ってくれるから、せめて食費くらいはといくらか金も払っているくらいだ。
しかしこの様子ではどうやら今日は違うっぽい。地味にショック。だがどうやら、別にそういうわけでもないようで。
こちらを見上げる雪ノ下は、どこか好奇心に満ちた目をしていて。
「今日はあなたの料理を食べてみたいのよ」
というわけで。やって参りました雪ノ下の家。ここに来る途中で買い物を済ませ、冷静に考えて制服で夕飯の買い出しってなんか変な感じだなーと恥ずかしくなったりしながらも、協議の結果俺が一品作って他はいつも通り雪ノ下に任せることになった。当然の帰結である。俺に雪ノ下を満足させられるほどの料理スキルはないし。
荷物を置いて雪ノ下からエプロンを借り、いざキッチンへゴー。
「さて。では始めましょうか」
「おう。つっても、俺は卵焼くだけだけど」
「せっかくだから、あなたにもこちらを手伝ってもらうことにするわ。そうしたら少しは小学六年生並みらしい料理スキルもマシにはなるでしょう」
「へいへい。かしこまりましたよ」
今日のメニューは俺の玉子焼きに合わせて和食寄りだ。鮭の塩焼き、小松菜のおひたし、冷奴、そして玉子焼き。夕飯っていうかどっちかって言うと朝に出てきそうなメニューである。
テキパキと調理器具の準備をする雪ノ下。キッチン内を見渡してみれば見たこともないような調理器具もあって、若干気後れしてしまう。多分おかし作りとかに使うやつなんだろう。知らんけど。
とは言え、メニューからも分かる通り調理自体はとても簡単なものばかりだ。俺が手伝うようなもんでもない。
「さて、比企谷くん。早速鮭の下味の付け方についてだけど」
「あ、もしかして俺がやらされる感じ?」
「さすがに私がやるわ。あなたには口頭で説明するだけ」
手伝いというか、お料理教室みたいになってしまった。
おもむろに料理酒を取り出した雪ノ下は、ボウルの中に移した鮭に塩とともにかけていく。
「まず、10分ほど料理酒と塩につけて放置しておくわ」
「へー。……これだけ?」
「これだけよ。とても簡単でしょう?」
いや、まあ、鮭の塩焼きの味付けなんてこの程度なのだろう。簡単に出来てしまうのが和食のいいところだ。和食が簡単に出来るのかは知らないけど。
その間にコンロが空くので、先に俺が玉子焼きを作ることになった。まあ、こっちも簡単だ。誰もが知っている手順を踏んで卵を溶き、フライパンに流して適当に焼く。
玉子焼きこそ味付けがそれぞれの家で変わってくるかもしれないが、比企谷家風玉子焼きは醤油がちょっと多目だ。甘いものが好きな俺ではあるけれど、玉子焼きだけは別。田舎のばあちゃんが作るような甘い玉子焼きよりも醤油多目の玉子焼きの方が好きなのである。これが我が家の味、というやつだからだろうか。
隣で俺の調理する姿を見守っていた雪ノ下は醤油の量をハラハラした様子で見ていたが、口を挟んでくることもなく早速玉子焼きが完成してしまった。
その後塩と料理酒に浸けていた鮭も焼き、作り置きしていた小松菜と冷奴も皿に盛り付けて今日のメニューは全て完成。
とても短く簡単な料理ではあったけれど。それでも、こうして並んでキッチンに立つというのはこれまでにない体験で。
例えばいつか、こんな風景が当たり前になる未来が来るのだろうか。
「比企谷くん?」
「ん、ああ悪い。これ持ってくな」
ふと浮かんだ思考をかき消し、料理を盛り付けた皿をテーブルへと運ぶ。雪ノ下は怪訝そうな顔でこちらを見ていたけれど、まさかこんなことを口に出して直接言うわけにもいくまい。そんなことをしてしまえば、夕飯のメニューに茹で蛸が二つ増えるだけだ。
テーブルの上に料理と白飯、箸を全て並べ終え、席について二人揃っていただきます。
「それじゃあ、まずはあなたの玉子焼きから頂こうかしら」
「あんま期待すんなよ」
一口サイズに切り取った玉子焼きを箸で口元に運ぶ雪ノ下。その様子をなぜか恥ずかしくなりながらも見守る。
誰かのために料理を作るなんて、いつ以来だろう。小町がまだ小さい頃は俺が飯を作っていたから、それ以来かもしれない。果たして雪ノ下は満足してくれるのだろうかと不安になる。いつもとても美味しい料理を作ってくれる雪ノ下のお眼鏡に叶うかどうか。今更ながら調理中にミスはなかった。頭の中にあるレシピを掘り起こして作ったつもりだったけれど、それも随分と古い記憶だったから正しいかどうかも分からない。
やがて玉子焼きを咀嚼して嚥下した雪ノ下の口元には、穏やかな笑みが浮かべられた。
「少し味が濃い気もするけれど、そんなのは個人の好みの範疇ね。とても美味しいわ」
「そうか……」
知らず強張っていた体が弛緩する。随分と緊張していたらしい。そんな俺の様を見て、雪ノ下はまたクスクスと笑みを漏らす。
「ふふっ、そんなに緊張することないじゃない」
「いや、するだろ普通。人に自分の作ったもん食わすとか、中々ないんだし」
「そういうものかしら」
「そういうものだ」
雪ノ下は俺や由比ヶ浜相手で慣れているのかもしれないが、こちとら小町くらいにしか食わせたことがない。その上今回は相手が雪ノ下。この世の誰よりも大切で、愛おしい相手だ。緊張するに決まっている。
「この味付け、あなたの好みなの?」
「まあそうだけど、正確には逆だな」
「逆?」
「母ちゃんが作るこの味付けが好みになった、ってことだよ。比企谷家一子相伝の玉子焼きだ」
「小町さんがいるのだから、一子相伝ではないでしょう」
「最近の小町はあんま味の濃いもん作らなくなったんだよ」
お年頃の女子だからか知らんけど、最近はどれも味が薄い気がして八幡的には物足りないのである。
つまりこの味付けをした玉子焼きは今のところ俺しか作らない。よって一子相伝でも間違ってはいない。なんか一子相伝っていうと奥義みたいな感じで材木座が喜びそうだな。
「でも、そう。これがあなたの家の味なのね。どうりで……」
「どうりで?」
「……少し、温かい味がしたの。とても懐かしい、私も昔、味わったことがあるような」
そう言った雪ノ下の目は、どこか遠くを見ているようだ。今ではない、いつかどこかの古い過去を。もう戻れない懐かしい頃の記憶を。
きっと、彼女にもあったのだろう。俺が母ちゃんに作ってもらった玉子焼きのように。雪ノ下も母親に作ってもらった、母の味というものが。
実家との蟠りを完全とは言えないもののある程度解決させた雪ノ下ではあるけれど。どうあっても、その昔に戻ることはできない。それ程までに、彼女と母親を繋ぐ糸はぐちゃぐちゃにも捻れてもつれて、あるいは切れかけていた。
濡れた瞳が俺に向けられる。今にも雫が落ちそうで、けれどそうはしまいと強い光を灯している瞳が。
「ねえ、比企谷くん」
「なんだ?」
「また、作ってくれる?」
「お前が望むなら」
さっきと同じ思考が頭をよぎる。
例えば。例えばいつかの未来に。俺と彼女がともにキッチンへ立つのが当たり前になったら。その時は、いくらでも作ってやろう。玉子焼きだけじゃない。こいつを喜ばせるためなら、母ちゃんなり小町なりにいくらでも聞いてやる。我が家の味付け。どこか懐かしくて温かみを感じは味を。
「ありがとう。こういうことを言うのは柄じゃないと思うけれど。それでも私、今とても幸せよ」
そう言って笑った雪ノ下はとても美しく、綺麗で。そして、本当に幸せそうだった。
数年後、新しい比企谷家の味が新たな命に振舞われるのだが、それはまた、いつかの未来のお話だ。