夏。この季節を好んでいる人は、果たしてこの世にどれだけいるのだろう。学生たちは夏休みがあるから、比較的好きなのかもしれない。けれど社会に出て働いている人たちにとってはそんなもの関係ないから、この暑さが嫌いだと言う人もいるだろう。
かく言う私も、夏はあまり得意ではない。ただ外を歩いているだけで体力の削られる猛暑。体力のない私にはただただ苦痛だ。学校に来るだけでも相当つらいから、夏休みがあって本当に救われている。おまけに耳に響くセミの鳴き声や、この季節になるといきなり増える蚊なんかも、私が夏を苦手とする要因の一つだ。蚊に噛まれた跡が赤くなっていたのを由比ヶ浜さんに見られた時、とんでもない誤解を招いたのは記憶に新しい。
そんな、だって、ありえないでしょう。蚊じゃなくて彼に噛まれた跡だなんて……そもそもまだそう言う仲ですらないのに……。
さて。今現在は八月の中旬。夏休み。本来なら冷房の効いた自室で受験勉強か読書に勤しんでいるはずなのだけれど、私は炎天下の中重い腰を上げて学校へと来ていた。ずっと家にいたかった。これでは彼のことを笑えないわね。
そう大した用事ではない。進路のことで平塚先生に呼ばれていたからだ。生徒指導ではあれど進路指導ではない私たちの恩師は、存在しないはずだったこの一年を私たちのために使ってくれている。あまり贔屓が過ぎるのもどうかと思うが、どうせ今年で最後なのだから周りからどう見られようが関係ない、とは本人の談。
その平塚先生との話も終わり、ついでだからと先生から鍵を借りて部室へと足を運んだ。
「埃が溜まってるわね……」
約一ヶ月ぶりに開いた部室は、やはりというかなんというか。長机、電気ケトル、カップや湯呑みなどの紅茶セットに被せた薄い布などには遠目から見ても分かるほど埃が乗っていて、室内の空気もどこかどんより重いもの。一ヶ月誰も使っていなかっただけでこうなるのは、去年から分かっていたけれど。
その影響なのだろうか。誰もいない部室は、なぜかモノクロに見えて。部室が汚いことよりも、空気が悪いことよりも。ただ、色褪せたこの光景だけが、私の胸をキュッと苦しくする。
そんな思考をかき消すように頭を振って扉をくぐる。取り敢えず部室の窓を開いて換気。長机にそっと指を這わせると、指のお腹にはべったりと埃が。差し込む陽の光を浴びて少し煌めいているのがなんとも度し難い。
とにかく掃除しなければ。一人だと少し体力に不安が残るけれど、一度見てしまった以上は放置できない。夏休みが明けてから大掃除というのも大変だし、私一人で今のうちに終わらせられるならその方が効率的だ。
掃除道具を取り出すために顔を上げて動き出そうとするも、しかし。足は動かず、視線は扉の方に固定されてしまった。
そこに、あなたがいたから。
色褪せてモノクロだった景色が、途端に色付いたから。
この夏休み中に一度も会わなかったわけではない。彼の誕生日は小町さんに招かれて彼の家で行ったし、由比ヶ浜さんの企画で一色さんや戸塚くんも誘って遊びに出かけたりもした。そこにはもちろん、彼の姿があって。
でも、だからこそ、二学期が始まるまでこれ以上会うことはないと思っていたから。ましてや今日この場所でなんて。
「比企谷くん……」
「なにしてんだ、お前?」
三年になって少しだけ伸びた身長。変わらない腐った目つきと猫背。頭頂部に一房だけ飛び出ている髪は、心なしかいつもよりも元気がないように見える。
突然現れた彼は、比企谷くんは、私の姿を見て少し驚いているようだった。出不精な彼がここにいるということは、なにか用事でもあったのだろう。私と同じで、平塚先生に呼び出されていたのかもしれない。なら何故、今日この場に、部室にまで足を運んだのか。
「……今から掃除をするのよ。私も今ここに来たばかりなのだけれど、思っていたよりも汚れていたから」
驚いたのは私も同じ。いえ、多分彼よりも大きかったと思う。
この夏休みは何度か会った。一緒に遊んだし、彼の誕生日も祝うことが出来た。でも、もっと。もっともっと一緒にいたくて。色んなところに彼と出掛けたくて。それでも意気地なしな私は、外の暑さや受験勉強を言い訳にして行動を起こさなかった。
そんな折に、いきなり彼が目の前に現れたのだ。驚きもするし、胸の内に湧き上がるこの感情だって当然のものだろう。
会えて、嬉しい。だなんて。
そんな幼い少女のような言葉、間違っても直接言えるわけがないけれど。
「夏休みにわざわざ律儀なことだな。なに、やることないの?」
「掃除のために来たわけじゃないわ。私はあなたと違ってやることも多いし」
「おい、俺だってそれなりにやることあるんだぞ。小町とゲームしたり、小町とデートしたり、小町のご機嫌取るためにゴマ擦ったり」
「あまり聞きたくなかった情報ね……。平塚先生に呼ばれていたから、そのついでに部室の様子を見ておこうと思っただけよ」
「お前も平塚先生に呼ばれてたのか」
「ということは、あなたも?」
「まあな」
久し振りに言葉を交わす。夏休みでなければ毎日聞いていた彼の声。毎日刻んでいた心地のいいテンポ。それだけで満たされてしまう私は、単純な女なのだろう。
部室に入ってきた比企谷くんはいつもの定位置に向かおうとして、長机を見て眉をひそめた。彼が思っていたよりも汚れていたからだろう。
「暑いから出来ればクーラーつけて欲しいんだが」
「今は換気中だからダメよ」
「ですよね。はぁ……んじゃ、さっさと掃除終わらすか」
「手伝ってくれるの?」
予想外の言葉に、思わず首を傾げて問うてしまった。それを聞いた比企谷くんも同じく、キョトンとした表情をしている。なにを当然のことを、と言いたげな顔だ。
「そりゃ手伝うだろ。汚れてるの見ちまったもんは放置できんし、お前一人にやらすのも、なんだ、あれだ。体力尽きて倒れそうで心配だしな」
「……そんなことないわよ」
目を逸らしてしまった。図星だ。まさしく同じことを考えていたのだから。私の体力のなさは彼に露呈してしまっているから、こんなところで強がっても意味はないのに。私の悪癖、のようなものだ。今更彼に強がったところで、意味はないというのに。
いや、だからこそなのだろうか。散々弱いところを見せた。雪ノ下雪乃という人間の核心にまで、彼も彼女も触れてきた。私自身、それを拒まなかった。でも、だからこそ、これ以上彼に弱いところを見せたくなくて。
まあ、たかが部室の掃除程度でなにを大袈裟な、とは思うけれど。
「そういうことなら、こき使ってあげる。馬車馬の如く働きなさい」
「それで俺がやる気出すとでも思ってんのか」
「どのような言い方をしたところで、あなたがやる気を出すわけがないでしょう」
「よく分かってらっしゃる」
教室後方の掃除用具入れから道具一式を取り出し、その中のバケツと雑巾を手渡す。なにを言わずとも意図を察してくれたのか、比企谷くんはそれらを持って部室を出て行った。
それを見送り、私も掃除を始める準備。長い髪をカバンから取り出したピンクのシュシュで一つに纏める。
いつ考えても、私がピンク、というのが少し解せない。それで由比ヶ浜さんが青だったりするのだから、普通逆ではないかしら。
でも、それが彼から見た私たちの印象なのだろう。それはあくまでも彼の主観であり、そこに他者の共感は求めない。彼本人のみが知っていればいいだけだから。その考えは理解できる。
でも。それでも知りたいと思うのは、いけないこと? 彼の考えていることも、抱いている想いも、その全てを知りたいと思うのは。
もっと知りたい。知ってほしい。ともすればあまりにも傲慢で強欲なその願いの源泉は、この胸の内に秘めた一つの感情。
開放された窓の外を見る。夏休みにも関わらず運動部は練習に精を出し、どこからか吹奏楽部の演奏も聞こえていた。こんなに暑い日でも、彼ら彼女らの青春を止めることはできない。
右手を翳しながら、どこまでも広がる青空を見上げた。清々しいほどに晴れ渡った空すらも暑さを感じさせる要因にしかならない。そんな空に浮かび地面を照りつける太陽が、どこか忌々しく感じる。
いつまでも空を睨んでいても仕方ない。さっさと掃除を始めよう。彼もすぐ戻ってくるでしょうし、そうね、戻ってきたら床の雑巾がけでもお願いしようかしら。そのために、先にちゃんと箒で掃いておかないと。
なんて考えていたら、足音が聞こえてきた。ちょっと気怠げな、重たい足取りを思わせる音。どうやらちゃんと水を汲んできたみたいね。
「水汲んできたぞ」
「おかえりなさい、早かったわね」
「……」
「どうしたの?」
なにやら言葉に詰まった様子の比企谷くん。小首を傾げて尋ねるも、彼は視線を逸らしバケツを床に置くだけでなにも言ってくれない。
「もしかして、雑巾と自分の類似性でも見出してしまったかしら。ごめんなさい、あなたに雑巾がけを頼もうと思ったのは確かだし、薄汚れたという点では似ているかもしれないけれど、そこまで他意があったわけではないの」
「おい待て。俺のどこが薄汚れてるって言うんだ。こう見えても俺がA型なの知ってるだろ。おまけに割と綺麗好きで、自分の部屋だって綺麗にしてることも」
「間違いなくあなたの性根は薄汚れていると思うのだけれど。それと、あの部屋は綺麗なのではなくて物が少ないだけよ」
「俺の性根は腐っちゃいるが薄汚れてはない。風評被害甚だしいな。てか、部屋に関してはお前も人のこと言えんだろ」
「腐っていることは認めるのね……」
たしかに、薄汚れているというよりは腐っていると言った方が適当かもしれないけれど。
それにしても、なんだかうまく話を逸らされた気がする。いえ、この場合は余計なことを言った私が悪いのかしら。彼に隙を見せたら逃げるに決まってるのは重々分かっていたはずなのに。
久しぶりに会えたから、私も浮かれている、ということか。
そう思うと恥ずかしいような、でも悪い気はしないような。不思議な気持ちだ。
「それ、使ってくれてるんだな……」
「え?」
水に浸した雑巾を絞っている彼が、視線をバケツの水面に向けたままポツリと呟いた。思わず聞き返してしまったのは、その言葉が予想外だったからだ。
彼が指しているのは、髪を纏めているシュシュのことだろう。彼からクリスマスにもらった、私の宝物。ずっとずっと大事に使っている世界でたった一つのシュシュ。
別に見せつけたかったわけではない。彼からの反応を期待していたわけでも。いえ、気づいてくれたら嬉しいとは思っていたけれど、それでもまさか、そのことを口にするだなんて思っていなくて。
「あー、なんだ、俺が渡したやつだからこんなこと言うのもあれだが、あれだ。似合ってる、と思う……」
ああ、あつい。本当に、全身があつくて溶けてしまいそうだ。たしかな熱の籠もったその言葉に、声に、表情に、溶かされてしまいそう。陽の光なんかよりも、よほどあつい。
今の私は、どんな色の顔になってるのだろう。多分、あなたと同じ色。あつさに耐えきれず赤く染まってるんだろう。
「ただのシュシュなのだから、誰がつけても同じだと思うけれど」
「……まあ、だよな」
掃除に取り掛かるフリをして、体ごと彼から背けた。そうでもしないと、このあつさにやられてしまいそうだったから。
そして彼の目も見ないまま、言葉を紡ぐ。このあつさに、ここで会えたことに、彼の言葉に浮かされたままの言葉を。
「……でも、ありがとう。あなたにそう言ってもらえるなら、大切に使っていた甲斐があったわ」
このシュシュも、今はケースの中で眠っているメガネも、形にならない沢山の思い出も、今はまだ明かさない秘めた想いも。あなたに貰ったその全てが、私の宝物。
「そうか……」
「ええ、そうよ」
だから、いつまでも大事に、大切にする。いつかその宝物をあなたに見せたいから。知ってほしいから。
「さあ、分ったならキビキビ動きなさい。長机と窓枠、それから黒板も雑巾で拭いて、それが終わったら床を雑巾がけよ」
「へいへい、分かりましたよ部長殿」
私はこんなにも、あなたのことが好きなんだって。