八幡と雪乃の恋物語   作:れーるがん

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八幡の誕生日に投稿したやつだよ


Summer Song

 誕生日。

 千葉にとってのそれは、小学校時代における席順の初期配置であり、俺個人にとってのそれは妹から祝われる大切な日。ここ最近は小町もやる気がなくなってきてる感が否めないが、しかしなんだかんだと毎年プレゼントやケーキを用意してくれているのだから俺の妹マジエンジェル。

 人によって個人差はあると思うが、多かれ少なかれこの日を特別視してるやつはいるだろう。いや、この世に生きとして生ける人間全てがそう思っていても過言ではないかもしれない。間違いなく過言だわこれ。

 例えば、由比ヶ浜結衣。昨年の誕生日には色々と蟠りがありつつ迎えた彼女の誕生日だったが、しかしそれでも、全てとは言わないもののその蟠りが解消した日。ついでに遊戯部連中とアホなことした日。俺と雪ノ下からプレゼントも貰い、その後戸塚やら材木座やら小町やら平塚先生やらを交えてカラオケに行ったのだ。彼女にとって昨年の誕生日は、間違いなく特別な一日になっていただろう。因みに今年も似たようなメンツでパーティした。ガハマさんガチ泣き寸前だったし。

 例えば、一色いろは。こいつの誕生日もすでに過ぎているが、その際にも比較的盛大に祝ってやったものだ。俺たち奉仕部にとって唯一の後輩であるところの生徒会長は、昨年度からあざといくらい誕生日がいつなのかをアピールしていたから。それを逃す我らが部長ではなく、部室にて奉仕部と小町とで祝ってやればとても喜んでいた。これまでのあいつの誕生日がどうだったかは知らないが、本人曰く今までで一番嬉しかったとのことらしい。いろはすガチ泣き寸前だったし。

 例えば、雪ノ下雪乃。彼女は奉仕部内で最も誕生日が遅い。早生まれというやつだ。遅いのに早生まれとはいかに、といつも思うのだが、そんな話は置いといて。彼女にとっての誕生日は、どうなのだろう。今でこそ実家とのあれやこれやを解消し、仲直りというわけではないが折り合いが悪いということもなくなったわけだが。しかしそれでも、昨年度の誕生日、当日とはいかなかったものの部室で祝った際には喜んでくれていた。俺があげたメガネ、大切に使ってくれてるし。

 このように奉仕部女子たちの誕生日はみんなで盛大に祝って来たわけではあるのだけれど。

 さて、それでは。

 比企谷八幡の誕生日はどうなのかというと。

 

「あっっっっっつい……」

 

 本日八月八日。比企谷八幡十八歳の誕生日。つまりは夏休み真っ最中だ。

 にも関わらず俺は学校へと足を運び、額の汗を拭ってプールの底にこびりついた汚れを必死にブラシでごしごしお掃除していた。

 や、なんで?

 

「分かりきった事実を一々口に出して言わないで……余計に暑く感じるでしょう……」

「んなこと言われてもどうしようもねぇだろ……殆ど条件反射だっつの……」

 

 近くには俺と同じく夏休みだというのに学校へと駆り出され掃除をさせられている哀れな被害者が。またの名を雪ノ下雪乃という。

 白い肌にはじわりと汗が滲んでおり、長い髪が首筋にべったり張り付いていた。掃除を開始してからまだ三十分も経っていないのだが、体力のない雪ノ下はすでにしんどそうだ。これ、絶対人選ミスでしょ。

 

「けれどよかったわね比企谷くん。これだけ暑くても腐敗臭がしないということは、あなたがゾンビではないということが立証されたわよ」

「立証するまでもなくゾンビじゃねぇよ」

 

 いつもの軽口を叩けるなら、実は結構余裕あったりするんだろうか。いやでも甘く見てはいけない。熱中症の恐ろしさとこいつの体力のなさを。少し早いが、もうそろそろ休憩を挟んだ方が良さそうだ。

 さて。どうして俺と雪ノ下が夏休みにも関わらず、もっと言えば俺の誕生日にも関わらずこうしてプール掃除なんてことをしているのかと言うと。一言で言ってしまえば奉仕部の仕事だ。

 本来なら生徒会主導のもと運動部が中心となり、一日の作業は無理のない範囲で収めて数日に渡り終わらせるはずのプール掃除。

 そんな案件が奉仕部に転がり込んできたのは、やはりというかなんというか、我らが生徒会長殿の仕業だったりする。

 どうやら生徒会は、今年からこの付近の夏祭りで地域活性化のために屋台を出すらしく、今日がまさしくその日。この今日のプール掃除も本当なら一色たちが担当のはずだったのだが、まさかのダブルブッキングで俺たちに泣きついてきた、ということだ。午後からはサッカー部のやつらが代わってくれるとのことだったが、さすがの平塚先生も頭を下げてお願いしてきた。まあ、俺たち受験生だしね。

 

「もう一人でもいれば結構楽になってたんだけどなぁ……」

「由比ヶ浜さんにそんな余裕があるわけないでしょう。プール掃除ごときに時間を割かれるくらいならその時間で英単語の一つでも覚えてもらわなければ困るわ」

 

 この場に奉仕部の元気印がいないのは、つまりそういうことだった。今頃塾か自宅で雪ノ下お手製問題集に苦しめられていることだろう。可哀想に。南無。

 心の中で合掌しながらも、左手に持ったホースで水を撒き、右の脇で挟んで固定したブラシで汚れを落としていく。なにが嫌って、なんの説明もなく学校に呼ばれたかと思えば一色に泣きつかれたから、俺も雪ノ下も制服で作業しているってことだ。夏休みはまだまだあるのでクリーニングに出す余裕もあるし予備の制服だってあるが、だからと言って積極的に汚したいとは思わない。着替え持ってきてないもん。

 ちらりと視線を巡らせる。真剣な顔で汚れを落としている雪ノ下も、俺と同じように制服姿だ。既にブラウスの襟部分が汗で濡れてしまっていて、常ならば感じない妙な色気を見てしまう。

 咄嗟に視線を逸らしたものの、頬には熱が集まるばかり。

 

「ちょっと、手が止まってるわよ」

「……いや、ちょい早いけど休憩にしようぜ。どうせ昼からサッカー部の連中が馬鹿みたいに頑張るんだろうし、俺らが今頑張ってもあんま意味ないだろ」

「やるからにはちゃんとやらないとダメでしょう」

「分かったから。取り敢えず休憩だ」

「ちょっとどころじゃなく早い気がするけれど。まだ三十分も経ってないわよ?」

「俺が休憩したいんだよ。んでお前一人にやらせてるのもなんかあれだから、一緒に休憩しろ」

 

 意味があるのかないのか分からない押し問答を経た後、渋々ながらも了承した雪ノ下を伴ってプールサイドへ上がる。

 荷物を置いていた日陰に腰を下ろし、あらかじめ買っておいたスポーツドリンクを一気に喉へ流し込んだ。あー生き返るー。隣を見やれば雪ノ下もコクコクと小さく喉を動かして水分補給をしている。

 

「日陰にいても変わんねぇな……」

「こればかりは仕方ないわ。直射日光を浴びるよりはマシよ」

 

 常ならば独り言で終わるその言葉に、俺ではない別の声が返ってくる。それがどれだけ嬉しいことか。俺にとってどういう意味を持つのか。隣で可愛らしく三角座りしてる彼女は理解しているのだろうか。

 実を言うと、奉仕部の仕事だと言われて呼び出された時には少しだけ嬉しかったりもした。受験生の夏休みゆえに勉強に明け暮れていたが、そんな中でこいつに会える機会が訪れたのだ。おまけにそれが俺の誕生日。ちょっと期待してしまうのは男の子の悲しい性。これがプール掃除なんて肉体労働でなければもっと喜ばしかったのだけれど。

 誰かのことを本気で好きになんてなるもんじゃない。夏休みが始まってから何度も思った。だって、会えない時間が長すぎると驚くくらいに胸が苦しくなるのだから。ラジオネーム恋するウサギちゃんの気持ちがちょっと分かっちゃった。

 でも。こうして降って湧いた二人きりの時間は、自分で思っていたよりも胸が満たされてしまっていて。

 海から運ばれてくる生ぬるい風が、この静寂をより穏やかなものへと変えていく。それでこの暑さがマシに思えるわけでもないけれど、隣に雪ノ下がいるだけでこんな肉体労働も頑張ろうと思えてしまう。我ながら単純な頭をしているけれど、ポルノだって恋するウサギちゃんにシンプルな頭でいいって言ってたのだ。ポルノが言ってるくらいなら正しい。間違いない。

 

「さて。そろそろ再開しましょうか」

「もう大丈夫なのか?」

「私は別に元から大丈夫だったわよ。疲れたから休憩しようと言ったのはあなたでしょう」

「そうでしたね……」

 

 相変わらずの頑固具合に思わず苦笑が漏れてしまう。今更その辺りを隠す必要もないだろうに。

 再びプールの中へと下りて、ブラシとホースを手に雪ノ下以上に頑固者な汚れと向き合う。ブラシでごしごし擦ってホースで流しての単純作業の繰り返し。

 

「ねえ、比企谷くん」

「ん?」

 

 しばらく会話もなくごしごししていたら、涼やかな声が横から聞こえてきた。風鈴の音のように綺麗な音が、俺の名を呼んだ。

 

「今日、あなたの誕生日だったわよね」

「……覚えてたのか」

 

 期待はしていても予想はしていなかったそのセリフに、言葉が詰まりそうになる。辛うじて絞り出した声は掠れていたかもしれない。

 

「当然よ。だって、あなたの誕生日だもの。ちゃんと覚えているわ」

「そうか……」

 

 こいつに誕生日のことを話したのは、いつのことだったか。たしか、名前の由来の話になって、八月八日生まれだから八幡なんて名前だ、と言ったくらいだったはず。それも、既に一年以上前の話。

 あるいは、小町や由比ヶ浜あたりから教えてもらったのかもしれないけれど。でも、雪ノ下雪乃は嘘をつかない。嘘をつきたくないと、今の彼女は言っていた。なら、覚えていたと言うのは本当で、誰かから教えてもらったわけではないのだろう。

 

「なに、なんかプレゼントでも用意してくれてんのか?」

 

 心の中の歓喜を悟られないために、努めていつも通りの声音で言葉を返す。掃除の手は止めずに。だから、彼女が今どんな表情をしているのかは分からない。

 

「一応、ね……」

 

 分からない、ようにしていたのに。

 雪ノ下が小さく呟いた言葉は、二人しかいないこの場所では当然のように俺の耳へと届いて。咄嗟に目を向けてしまった先の雪ノ下は、その頬を僅かに赤く染めていて。

 それがこの暑さのせいなどではないと、分かってしまう。分かってしまうから俺の顔も釣られて熱を持ってしまう。

 ああ、クソ。嬉しいじゃねぇか。日付が変わったころに届いたどのメールよりも、朝に小町から適当さ全開で言われたおめでとうよりも。

 彼女が俺にプレゼントを用意してくれている。その事実だけで。

 

「あ、後でちゃんと渡すから、今は掃除に集中しなさい」

「へいへい」

 

 顔がにやけそうになるのを必死に堪える。きっと今の俺の表情を見られたら、また特大の罵倒が飛んでくるんだろう。それくらい気持ち悪い自覚はあるから。

 視界の端で、すぐそこにいた雪ノ下が別の場所を掃除しようと移動するのが見えた。このプールの底は案外滑りやすいもので、若干警戒しながらえっちらおっちら歩いている様はなんだかシュールだ。

 が、警戒しているからと言ってそれを完全に防げるわけでもなく。

 

「きゃっ!」

 

 短い悲鳴。何故かスローモーションで動く景色の中では、足を見事に滑らせた雪ノ下が今まさしく前に倒れそうになっている。あのまま行けば顔から地面に激突してしまうだろう。冷静に状況を見る脳とは対照に、体は殆ど反射で動いていた。

 

「雪ノ下っ!」

 

 両手に持っていたブラシとホースを手放す。お陰で暴れたホースから放出されたままの水が俺にかかるが、そんなこと構っている場合ではない。

 間に合えと心の中で叫んで手を伸ばす。掴んだ腕の細さに驚く暇もなく引っ張り、安心したのも束の間。

 

「うぉっ!」

 

 その勢いそのままに、今度は俺が足を滑らせた。こんな滑りやすい場所で踏ん張りが効くはずもないのだから、当然の帰結である。

 特別運動神経がいいわけでもない俺が咄嗟に受け身を取れるはずもなく、見事に後頭部と背中を強打。腕を掴まれたままの雪ノ下も倒れてきて、その重さでダメージ増加。

 

「比企谷くん⁉︎」

「いってぇ……」

 

 なんか目の前を星が飛んでる気がする……大きな星がついたり消えたり……あれは彗星かな……違うな、彗星はもっとパーって動くもんな……。

 いや、冗談抜きにマジで痛い……。

 

「比企谷くんっ、比企谷くん!」

「でかい声出すな……頭に響く……」

 

 未だ俺の上に乗ったままの、というか馬乗りになってる雪ノ下が涙目で俺の名前を呼ぶ。さっきの涼やかな声とは全く違う、必死さを滲ませた声で。

 こんなに取り乱している雪ノ下を見るのは、もしかしたら初めてかもしれない。その原因が俺を心配してのことだなんて、場違いにも少し嬉しくなってしまう。

 そして目の前でこうまで取り乱されては、逆に冷静になってしまうというもので。

 暴れたままのホースは水を撒き散らし、俺だけでなく雪ノ下までも襲う。びっしょり濡れたブラウスは透けてしまっていて、その奥に隠されていた布地が見えてしまっていた。

 この状況はマズイ。色々と。

 

「とりあえず、どいてくれ……」

「大丈夫なの?」

「頭も背中も痛いしなんかちょっとクラクラするけど大丈夫だ」

「大丈夫じゃないじゃない! 保健室、いえ病院に行かないとっ……!」

「ちょっと落ち着けって」

 

 上半身を起き上がらせると、一気に雪ノ下の顔が近くなった。汗と水で濡れた肌。今にも雫が零れ落ちそうな瞳。ハッと息を飲んでしまう程の美貌に見惚れてしまう。

 視線が、絡まった。

 この距離の近さに彼女も気づいたのだろう。大きく見開いた目は俺の目を見つめていて、それでも、我を失ったかのように動かない。動けない。

 時の感覚を忘れてしまったような一瞬が、永遠に等しく思えるほど続く。

 それが終わりを告げたのは、尚も暴れ続けるホースが俺たちの顔面に向けて水を発射したからだった。

 

「ひゃっ」

「わぷっ」

 

 それに驚いた雪ノ下が、自然と俺から離れていく。よかった。本当に離れてくれてよかった。あのままだと変な気を起こしかねなかったから。八幡くんの大菩薩がフジヤマボルケイノまでのカウントダウン始めちゃってたよ。そんなことになれば間違いなくブタ箱行き間違いなしである。

 

「ちょっ、と、比企谷くん、ホースを……!」

「分かってるっての……!」

 

 地面をのたうちまわるホースは、まるで意思を持ったかのように雪ノ下を執拗に攻撃しだした。女の子を濡らしたいとかお前分かってんじゃねぇか違うけしからんやつだ。

 未だ頭が痛むのも我慢して変態ホース君と格闘。残念なことに暑さで茹で上がった俺たちの脳では水を止めればいいという判断までは下せず、死闘の末ホースをこの手に掴んだ。のだけど。

 

「捕まえた……!」

「……」

「あっ……」

 

 そのタイミングが絶妙に悪かった。矛先をバッチリ雪ノ下へと固定されたままに掴み上げたホースは、発射角度を変えて立ち上がった雪ノ下の顔を思いっきり濡らしている。

 すぐに向きを変えたものの、完全な濡れ鼠と化してしまった雪ノ下からは、夏の暑さすらも忘れてしまう冷気が。

 

「比企谷くん」

「ま、待て雪ノ下! これはホースが悪いんであって俺が悪いわけじゃない!」

「せっかく人が心配してあげたというのに、この男は……!」

 

 雪ノ下の手には、武器があった。滑りそうになった時も、俺の上に馬乗りしていた時も持ったままだった、ホースとブラシが。

 まさかブラシで殴られるのかと肝を冷やしたが、そんなことはなく。そのブラシを放り投げると俺にホースの矛先を向けた。

 

「ちょまっ……! 待て待て待て!」

「ちょっとは先のことを考えて行動しなさい! 後頭部を強打するだけで、どれだけ危険だと思ってるの⁉︎」

 

 叫びながらも俺に水をぶっかけてくる雪ノ下。しかもホースの口をギュッとしてるから勢いが増して痛い。

 おまけに言ってることはまさしくその通りだ。しかし、こちらにだって言い分はある。

 

「元を正せばお前が滑りそうになったからだろ! 俺はお前を助けようとした結果滑って転けただけだ!」

「助けてくれたことには礼を言うわ。私が滑ったのが原因なのも理解してる。でも、それであなたが怪我をする必要はないじゃない!」

「勝手に体が動いてたんだから仕方ないだろ!」

「二年前の事故のことをもう忘れたの⁉︎ あの時も、今も、一歩間違えれば死んでいてもおかしくなかったのよ⁉︎」

「言わせておけば……!」

「きゃっ……!」

 

 言われっぱなしやられっぱなしも癪なのでこちらもホースで反撃してみれば、なんとも可愛い悲鳴が。

 これは反撃のためだ。断じて雪ノ下の制服姿を濡らしたいとか、ただでさえ透けて見えてしまってる下着がもうちょいちゃんと見えたりしないかなーなんて下心があっての行為ではないことを分かっていただきたい。

 

「女性に対して銃口を向けるなんていい度胸ね……この際だから、ここで上下関係をはっきりさせておく必要があるかしら」

「いつまでも部長殿にこき使われる備品じゃないんでな」

 

 そこから先は、ただひたすらに水の掛け合い。いつも通りの罵倒と皮肉の応酬を交えながら。

 でも、いつしか俺も雪ノ下も、怒りは収まり笑顔を浮かべていて。

 

「ふ、ふふっ……」

「はははっ」

 

 今日は八月八日、俺の誕生日。そんな日に。

 本当、なんでこんなことしてるんだろうな、俺たちは。

 

 

 

 

 

 

 

「なんでそんなことをしていたんだ君たちは……」

 

 俺の隣で呆れたように呟いたのは、引退しても律儀に部活へ出ている葉山隼人。さっきまで俺と雪ノ下が柄にもなくはしゃいでいたプール内では、サッカー部員達がえっさほいさと掃除に勤しんでいる。俺と雪ノ下が呼ばれた意味を疑うレベルで。

 

「ちょっと童心に帰っちゃったんだよ、俺も雪ノ下も」

「君たち二人が子供の頃に戻っても、プールではしゃいで水の掛け合いなんてしないだろう」

「今の、雪ノ下に直接聞かせてやりたいな」

「本人も否定しないと思うよ」

 

 何故俺が葉山と並んでこの場にいるのか。そこに深い理由なんてありはしない。

 雪ノ下と二人、バカみたいにはしゃいで水を掛け合い、雪ノ下の体力が尽きかけたところで葉山に引き連れられたサッカー部の面々が登場。その場の光景を一瞬本気で驚いたような目で見た葉山だが、サッカー部の男子どもを一旦プールの外に出してマネージャーの女子を呼ぶと、雪ノ下に連れ添って更衣室へ向かうよう指示を出し、俺には持ってきていたらしい予備のジャージを貸してくれた。

 だから俺は今、葉山から借りたジャージを着てるという、海老名さんが興奮で死んじゃいそうなシチュエーションになっている。この場に留まっているのは雪ノ下を待っているからだ。

 

「なんにしても、助かった。さすがにあの格好の雪ノ下を他の男子に見せるわけにもいかんしな」

「君から素直に礼を言われると怖気が走るな」

 

 なんでだよ。礼くらい素直に受け取れや。葉山くん、そんなに俺のこと嫌いなの? いや俺も嫌いだけど。

 ただ、嫌いだからこんなやつと関わりたくないのかと聞かれると首を横に振る。葉山でなくても、他の誰かであっても。好き嫌いという感情と関わるか否かの心理は別問題だ。

 

「それに、その言い方ならまるで自分は許されているかのように聞こえるけど?」

「んなわけねぇだろ。後でどんな仕打ちにあうのか今から怯えてるっての」

「でも役得だったろう?」

「……」

「君は案外顔に出やすいから、気をつけた方がいいかもしれないな」

 

 面白そうに笑う葉山。俺はなんも面白くない。てかこの状況がもう耐えられない。マジでなんでこんな海老名さんの為にあるみたいなシチュエーションになってんの? いや俺が悪いのは分かってるけどさ。

 それきり会話もなくなり、ぬぼーっとサッカー部の連中が掃除する様を眺めていると、すぐ近くの扉が開き雪ノ下が更衣室から戻ってきた。マネージャーの女子に借りたのだろう。学校指定の、それも違う学年の色のジャージを着ている。

 

「ごめんなさい、お待たせしたわね」

「いや、いい。ちょうどいい暇つぶしの相手がいたからな」

「そう?」

「そう」

 

 コテンと首を傾げる雪ノ下が鬼可愛い。その後マネージャーの女子に礼を言ってる葉山へと向き直り、雪ノ下は彼に対して頭を下げた。

 

「ごめんなさい、葉山くん。お陰様で助かったわ。ありがとう」

 

 雪ノ下にとっては、何気ない言葉だったのかもしれない。俺も彼女も葉山がいなければ濡れたまま帰らなければならないところだったし、雪ノ下に至ってはサッカー部どもに透けた下着を見られていたかもしれないのだから。因みに葉山は紳士らしくちゃんと目を瞑って濡れた雪ノ下を見ないようにしていた。ムカつくほどにイケメンである。

 だがその葉山は、雪ノ下の言葉に一瞬、見逃してしまいそうなほどに一瞬だけ驚いた様子を見せて。

 すぐにいつもの『みんなの葉山隼人』へと戻った男は、なんでもないように言う。

 

「いや、当然のことをしたまでだよ。見て見ぬ振りは俺じゃなくて他の誰かの専売特許だからね」

「おい。今なんで俺の方を見た」

 

 雪ノ下も。それもそうね、みたいな顔で頷いてんじゃねぇよ。けれど悲しいかな、否定できないのもまた事実。そういうのは辞めにしたけれど、だからと言って過去が覆るようなこともない。

 

「ともかく、本当に助かったわ。ありがとう」

 

 そう言って葉山から視線を外した雪ノ下は、マネージャーの女子にも礼を言っている。ジャージを返す時のために連絡先交換してるっぽい。マネージャーの子、雪ノ下を見る目がハートになってるんだけど。まあ、なんだかんだで葉山レベルの有名人だしな雪ノ下。後輩の子にあんな目を向けられてもおかしくはないか。

 

「比企谷くん、そろそろ行きましょう」

「ん」

 

 会話を終えた雪ノ下がこちらに視線を寄越してくる。行きましょうと言われてもどこに行くのかを聞いていないのだが、とりあえずは平塚先生のところに向かってその後部室で一休み、と言った感じだろう。

 先程出てきた扉に向かって歩き出す雪ノ下の後ろに続こうとすると、比企谷、と背後から呼び止める声が。雪ノ下も俺と一緒になって振り返ったが、先に出てろと手を振った。

 雪ノ下は怪訝そうな顔をしながらも先にプールから出て、マネージャーの子もいつの間にか姿を消している。

 

「なに、早く涼しいとこ行きたいんだけど」

「いや、そんなに大したことじゃないんだ。今日誕生日なんだって?」

「だったらなんだよ。優しい葉山くんはプレゼントでも用意してくれてんのか?」

「まさか、あり得ないだろ、それ」

「だろうな。んで、ホントに何の用だよ」

「いや、おめでとうと言っておきたくてさ」

「虫唾が走るな」

「それは良かった」

 

 爽やかに笑いながらとんでもないことを言うもんだ。いつかこんな葉山を目撃した戸部が随分と驚いていたか。そういや今日戸部いないな。どうでもいいけど。てか誰だよ戸部。

 

「雪ノ下さんにはちゃんと祝ってもらえよ。せっかく会えたし、さっきまでいい雰囲気だったみたいだし」

「余計なお世話だ」

 

 それ以上会話を続ける意志はないと示すように、背中を向けた。かかる声はもうない。向こうも俺に背を向けていることだろう。

 あいつが彼女の言葉にどう言った意味を見出したのかは知らない。知ろうとも思わない。彼女自身も、本当に何気ない礼の言葉だったはずだ。果たしてこの高校に入って、彼女が何度あいつにその言葉を送ったのかは分からないが。

 けれど、あいつにとってはたしかに意味のある言葉だったのだろう。その仮面が剥がれてしまうほどには。

 ならそこで完結だ。あいつ自身、余人からの理解なんぞ求めていないだろうから。

 そしてなにより、葉山隼人に比企谷八幡が理解できないように。比企谷八幡に葉山隼人を理解することも不可能だ。

 プールから出て雪ノ下の姿を探していると、ブブッ、とジャージのポケットに移動させていたスマホが鳴った。二件同時にラインが届いている。片方は雪ノ下から。部室集合、とのことだ。もう片方は葉山から。無視してやろうかとも思ったが、一応ジャージの恩もあるので目を通すことに。てかなんで俺、葉山のラインとか知ってるんだろ。これも全部雪ノ下陽乃って人の仕業なんだ。

 

『いい加減雪ノ下さんとくっ付けよ』

 

 既読無視することにした。

 やっぱり嫌いだわ、あいつ。

 

 

 

 

 

 

 普段から人気の少ない特別棟だが、今日はいつもより更に人の気配がしない。当然だ。なにせ今は夏休み。この校舎を使ってるような部活はわざわざ長期連休にまで精を出すような部ではない。同級生たちは今頃問題集と向き合い、一年二年は友人と遊びに出かけたりしているのだろう。

 対する俺は、受験生にも関わらずこうして休日出勤。挙句全身びしょ濡れになって嫌いな奴のジャージを借りてる始末。自業自得と言われればそれまでなのだが、どうにも納得いかない。これも全て仕事を押し付けてきた一色が悪いのだと、後輩に全責任を負わせて思考を完結させる。

 校舎の中に入ったからと言って暑さが和らぐわけでもなく、むしろ廊下の中に篭った熱気は外よりも体感温度を上げている気すらする。あちいあちいと心の中で呟きつつもリノリウムの床を踏みしめ、通い慣れた道を歩く。

 この道を通る日が、あと何度残されているだろう。いざ数えてみようとすると嫌気が差すのは間違いないが、それでも残り僅かなことは違いない。受験が近づくということは、それだけ終わりも近づいているということだから。

 辿り着いた部室。その扉に手をかけると、やはり予想通りに容易く開いた。そこに既に、お前がいたから。

 いつもお前は、ここで待っていてくれる。俺や彼女が来るのを、たった一人で。

 

「悪い、待たせたな」

「いえ、私も今さっき来たところよ」

 

 雪ノ下はいつもの定位置に腰を下ろし、柔らかい笑顔を浮かべて俺を迎えてくれた。何故だかその笑顔が直視できなくて、咄嗟にそっぽを向いたまま俺も定位置へと腰を下ろす。

 彼女の対面。長机の向かい側。近いようで遠いこの距離が、比企谷八幡と雪ノ下雪乃の距離だ。

 その距離を、少しでも縮めたいと思った。卒業の時が来て、この部室ともおさらばする日がやって来たら、この長机一つ分の距離すらも失われてしまうから。

 これ以上、離れたくないと願った。

 

「平塚先生に事情を説明したら笑われたわ。私たちにもそういう年相応のことをする余裕ができて良かった、だそうよ」

「年相応ってか、もっとガキがやるようなもんだと思うけどな、あんなんは」

「間違いないわね」

 

 口元を手で覆って上品な笑みを見せる。彼女の笑顔はそのどれもがとても魅力的だ。短いようで長い付き合いの中で、色んな表情、色んな笑顔を見てきた。

 けれど、少し前までに浮かべていた、あんな無邪気な笑顔は初めて見た。きっとあんな笑顔、由比ヶ浜だって知らないだろう。もしかしたら、陽乃さんだって。

 小さな優越感に浸っていると、向かいからコホン、と可愛らしい咳払いが聞こえる。視線をそちらにやれば、雪ノ下はカバンの中を漁っている。やがてそこから取り出したのは、どこかで見たことのあるロゴの袋だ。

 立ち上がった雪ノ下が、それを持ってこちらへ歩いてきた。ここまで来てそれがなんなのか察せられないほど鈍くなった覚えもない。その中身は分からずとも、それがどう言った意図の品物なのかは理解できる。

 やがて俺の前で立ち止まった雪ノ下は、少し頬を赤く染めながらもしっかりと俺の目を見据えて、口を開いた。

 

「その、男性に贈り物をするのは、あまり機会がなかったから、もしかしたら気に入らないかもしれないけれど……よければ、受け取ってもらえるかしら……?」

 

 意味があるのか分からない言い訳を前置きにして、差し出されるプレゼント。

 いつもはっきりと物を言う雪ノ下にしては珍しく、幼い少女のように辿々しい言葉。声も、若干震えていたか。

 でも、そんな彼女がとても可愛らしく見えてしまって。まともに返事もできないまま、ただ差し出された袋を受け取る。

 

「中、開けてもいいか?」

「ええ。どうぞ……」

 

 袋の中に入っていたのは、メガネだった。それもどこかで見覚えのある。

 いや、見覚えのあるどころではない。だってこのメガネは、俺が彼女の誕生日に贈ったものと同じで。その用途も、フレームのデザインも。

 

「これ……」

「とっ、特に深い意味はないのよ……」

 

 まだ何も聞いてないのに、声を裏返して焦ったような雪ノ下が言葉を紡ぐ。

 

「卒業したら大学に進むわけだし、そうなるとパソコンを使う頻度も今より増えるでしょう。いえ、今だってあなたはスマートフォンをよく使うのだから、そう言う意味ではブルーライトカットのメガネはあなたにも必要になってくるはずよ。そのデザインも、ただ私が一番いいと思ったものを選んだだけ、だから……」

「そうか……」

 

 俺が彼女に贈ったものと、全く同じブルーライトカットのメガネ。けれど雪ノ下自身がそこに深い意味を持たせていないというなら、その通りなのだろう。

 雪ノ下からのプレゼントに意味がないわけでは断じてないが、このチョイス自体に意味は持たせていないと。なら、余計な詮索は無粋というものだろう。たかだかメガネひとつ、同じデザインのものがいくつあっても不思議ではない。

 んんっ、と目の前で喉の調子を確かめた雪ノ下が、身を正して改めて俺に向き直る。

 真っ直ぐこちらを見つめるその瞳は、まるでこの青空を写したように澄んでいる。力強く、美しい瞳。冷たい印象を与える整った顔立ちは、しかしいくつもの表情をそこに秘めていて。俺の知らない表情だって、まだまだ隠されているのだろう。

 その全てを知りたいと思った。他の誰でもない、雪ノ下雪乃の全てを。比企谷八幡は希い、恋願ったのだ。

 

「お誕生日おめでとう、比企谷くん。生まれて来てくれてありがとう」

 

 果たしてその小さな唇から漏れた言葉は、あまりにも大げさすぎる祝いの言葉。一瞬呆気に取られたものの、直ぐに我に返って言葉を返す。

 

「ちょっと大げさすぎるだろ、それは」

「いいえ、そんなことはないわ」

 

 優しい笑顔で首を横に振る雪ノ下は、本気でそう思っているのだろう。

 いや、誰もがわざわざ口に出さないだけで、誕生日とは本来そういうものなのかもしれないけれど。生まれて来たことを祝い、感謝する日。

 

「なにも大げさなことなんてない。だから、生まれて来てくれてありがとう。私と出会ってくれて、この部活に入ってくれて。今日、ここで一緒に、私の隣にいてくれて、ありがとう」

 

 雪ノ下は多くを語らない。その感謝の意味するところも、わざわざ大げさな物言いをしたわけも。

 それでも、たしかに伝わるものがある。俺の胸を満たすあたたかいものがある。

 不覚にも鼻の奥がツンとした。生まれてこのかた、こんな感謝の言葉を贈られたことがあっただろうか。誕生日を祝われたことなんて、人生で十八回は確実あった。

 きっと、言われた相手がこの子だから。人生で初めて、本気で好きになった女の子だから。こんなにも泣きそうになってしまう。

 

「俺の方こそ、ありがとう。こんな俺と、出会ってくれて」

 

 言葉は自分でも驚くほど素直に。それはさしもよ雪ノ下だって予想外だったのだろう。一瞬だけ驚いた顔をしたかと思えば、直ぐに元の笑みへと戻る。

 

「ふふっ、お互いにお礼を言い合うなんて、なんだかおかしいわね」

「お前が大げさな言い方したからだけどな」

「だから、決して大げさではないと言っているでしょう。私の、心からの本音なのよ?」

「そうか……」

「ええ、そうよ」

 

 勝ち誇ったような笑みを浮かべる雪ノ下に頭が上がらない。きっと、こいつには一生敵わないんだろう。

 

 八月八日。人生に一度しかない十八回目の誕生日は、他の誰もいない二人きりのこの場所で。

 きっと俺は、今日という日を忘れない。彼女から貰った感謝の言葉を、忘れない。

 だから次は、俺の番。受験も間近になってしまうけれど、それでも。今度は、俺が雪ノ下に、感謝の言葉を伝えよう。出来れば、この胸に秘めた淡い恋心も添えて。

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