桜の花言葉を知っているだろうか。
種類によって様々あれど、桜全般の花言葉は「優美な女性」や「純潔」などになる。今俺の目の前にあるソメイヨシノならば、「高貴」「清純」などだ。
まさしくお似合いだと思う。満開のソメイヨシノを見上げている彼女には。
「雪ノ下」
名前を呼べば、振り返ってくれる。俺を見てくれる。
風に靡く髪を手で抑えながら、柔らかくはにかんで。
「あら、比企谷くん」
「こんなとこにいたのか。由比ヶ浜たちが探してたぞ」
「あなたは探してくれなかったのかしら」
「ここにいるってことはつまりそういうことだろ」
「ふふっ、そうね」
機嫌良さそうにコロコロと笑う雪ノ下は、その視線を再び桜の木へと向けた。風に舞う桜の花びらの中で、咲き誇る桜の花を見上げている。
その瞳には何を映しているのか。ただ、目の前の花に心奪われているのか。それとも、その花を通して全く別の何かを見ているのか。俺には分からない。どれだけ分かりたいと思っても、その心のうちの全てを知ることなんて出来ないのだ。
そんな俺がただ一つ、この場において分かることと言えば。
目の前の少女が、非常識なほどに美しくて。
まるで、此方と彼方で違う世界なのではと錯覚してしまうほどに。
それほどまでに、俺はやはり、彼女の姿に見惚れていた。
美少女と風に舞う桜の花びらのコラボレーションなんて贅沢すぎる。その美少女が自分の好きな子で、しかも大切な恋人であると言うのなら尚更。
「桜の木がどうかしたのか?」
ジッと真剣な顔で桜を見つめる雪ノ下に尋ねれば、こちらに振り返らないままで答えが返ってくる。
「来年には、見れないのよね」
「まあ、そうだな」
つい先月、城廻先輩たちが卒業した。そして今月、まさしく数日前に、小町たち新入生が入学した。時間は流れる。ここに生きる俺たちのことなんて御構い無しに。だから、次に卒業するのは俺たちの番だ。きっと三月ではまだ桜は満開になっていないだろうから、この場所でこの光景を見られるのは今年で最後。そう考えれば、たしかに。どこか感慨深いものがあるかもしれない。
「おかしな話よね。まだ三年生になったばかりだというのに、もう一年後の、卒業のことを意識するだなんて」
それは、どうだろう。おかしいことなのだろうか。この学校の生徒、延いては全国の高校生たち全員が、三年生になるということになにかしらの意味を見出しているだろう。受験だったり、部活だったり、あるいは雪ノ下のように、卒業だったり。
いつか訪れる終わりを意識するのは、なにもおかしなことではない。三年生になったばかりのこの節目のタイミングなら、尚更に。
「なんもおかしいことはないだろ。まあ、ほとんどの奴らが受験だなんだで卒業どころじゃないだろうし。なんなら卒業できるか微妙なやつまでいる」
「さすがの由比ヶ浜さんも、そこまでではないと思うけれど……」
誰も由比ヶ浜のことなんて言ってねぇよ。まあ、俺の周りで卒業が危ないやつとかあいつ以外にいないけどさ。
しかし雪ノ下も自分で言っていてその難度の高さに気づいたのか、言葉は尻すぼみになっていた。君、自分の親友のこと馬鹿にしすぎじゃない?
「そんなことより、比企谷くん」
そんなことで済ますなよ。由比ヶ浜泣くぞ。
「あなたは、桜を見てなにを思うかしら?」
「桜ねぇ……」
随分と唐突に思えるその問いかけに、思考を働かせる。
パッと思い浮かぶのは、出会いと別れ。桜の咲く春を象徴する言葉だ。しかし別れの季節に桜は満開にならず、冬の寒々しさが残っている。だから、どちらかと言えば出会いを象徴しているのだろう。
思い返されるのはちょうど一年前。あの時も、連行される道中で廊下から眺めた景色には桜の花が咲いていた。すっかり恩師と呼べる存在に連れられた先には、春の穏やかな風を受け、斜陽の中で静かに佇むお前がいた。開口一番散々馬鹿にされてこき下ろされて。それが今では一番大切な相手になっているのだから、人生は分からない。
「お前はどうなんだ?」
出会った頃のことを思い出した。なんて素直に言うのは恥ずかしくて、桜を見つめたままの雪ノ下に問い返す。何故だかその答えは、分かってしまうのだけれど。
「私は、そうね……あなたと出会った日のことを、思い出すわ」
ほら、やっぱり。
俺たちの、一度目の始まり。まだ互いになにも知らなかったあの頃。あの日がなければ、俺たちは出会いもしなかった。事故の真相も闇の中。俺は今でも気取ったぼっちのままで、彼女も自分の殻の中で孤独なままだった。
だから、俺たちにとってその答えなんて一つに決まっている。ここにはいないお団子頭の彼女もきっと、初めて部室を訪れたあの日を思い返すだろう。
「俺も、同じだな。どうしたってあの日のことを思い出す」
「あら、お揃いね」
「だな」
ふっ、と自然な笑みが漏れる。目の前からも、クスクスと楽しそうな音が。それをもっと近くで聞きたくて。彼女が笑顔でいるなら、俺がその隣にいたくて。踏み出した足を数歩刻んで肩を並べた。
「桜、綺麗だな」
「ええ」
なにも言わず、どちらからともなく手を繋ぐ。伝わる体温は少し低くて、けれど胸に広がるのは疑いようのないあたたかさ。雪ノ下が隣にいる。雪ノ下の隣にいる。それだけで、幸福と呼べる感情が波のように押し寄せてくる。
たまに、怖くなるのだ。今があまりにも幸せすぎて。
雪ノ下がいて、由比ヶ浜がいて、一色がいて。他にもあいつとかあいつとか、思い浮かぶ顔は多くあって。なんでもない平凡で幸せな日常を送れていることが、怖くなる。
これは贅沢な恐怖なのだろうか。でも、いつか唐突にこの幸せが終わってしまうかもしれないと考えると、どうしても怖いのだ。手放さなければならない日が来るかもしれない。避けられない別れが訪れるかもしれない。
この世の全てはいつか終わりがやってくる。終わりのないものなど、どこにも存在しない。俺たちの関係も、いつかは終わるのだ。極端な話をするならば、人生の終焉という形で必ず訪れる。
失うのが怖いから。その時の悲しさや喪失感を経験するくらいなら、最初からない方がいい。いつかの俺はそんな言い訳を脳内でつらつら並べていた。
でも、今は違う。
失わないために、努力するんだ。雪ノ下と、いつまでも一緒にいたいから。そのための努力を怠ってはいけない。言い訳の余地が微塵もないほどに。少しでもその可能性を低くするために。
だって、俺は。俺は雪ノ下のことが──
「雪ノ下」
「なに?」
「好きだ」
ずっと桜の木に固定されていた雪ノ下の視線が、こちらに向いた。驚いて目を瞠ったのも一瞬。その顔には穏やかな笑みが浮かべられて。
「ふふっ、どうしたの突然?」
「いや、なんだ。ちょっと言いたくなっただけだ」
今更言うようなことでもない。俺たちがこういう関係になっているということは、つまりその感情が前提にあって然るべきなのだから。
でも、言いたかった。伝えたかった。らしくないとは分かっていても、俺の素直な気持ちを。お前への想いを。
多分、この桜のせいだ。満開に咲き誇る桜を見ていて、妙な感傷に浸ってしまったから。俺たちの出会いを、始まりを思い出してしまったから。
「ねえ、比企谷くん」
俺を呼んだ雪ノ下は、すでに桜から視線を外している。その瞳は俺を見つめ捕らえて離さない。空いた手で風に靡く髪を抑えて、散りゆく桜の花びらを背景に。雪ノ下は、唄うように言葉を紡いだ。
「私も、あなたのこと、好きよ」
「……そうか」
「ええ」
真っ直ぐ見つめられながら言われると、今更に羞恥心がやってきて、ついそっぽを向いてしまう。上機嫌に微笑む声が聞こえてきたから、俺の顔は加熱するばかり。
「そろそろ行きましょうか。みんな待っているのでしょう?」
「ん、ああ。そうだな」
隣にいる彼女と二人、手を繋いで桜の木に背を向ける。今年はもう、ここまで綺麗な満開の桜を見れないかもしれない。明日になれば散った花びらが地面を満たし、そしていつかは葉桜に。その緑すら失われて寒々しい枝だけが残るだろう。
けれど、春はまたやって来る。
来年、再来年、更にまた次の年。これからの人生で何度も訪れる春と、何度も咲き誇る桜の花を。ここではないどこかで、また。
雪ノ下の隣で見れたら。