「雪ノ下。お前のことが好きだ」
「私も、あなたのことが、比企谷くんのことが好き。とても好きよ」
そんなやり取りがあったのは、もう三十分は前の話。
互いに言葉に詰まりながら、それでも伝えたい想いがあって。言葉という酷く不便なツールは、やっぱり俺の気持ちの全部なんて乗せきれずに。どこか地に足のつかない、熱に浮かされた声ではあったけど。
伝えて、伝えられた。
俺の想いと彼女の想いを。
お団子頭の友人とか、あざとい後輩生徒会長とか、俺たちをずっと見守ってくれていた恩師とか、大嫌いな金髪イケメンとか。色んなやつに背中を押されて、ようやく。
未だに現実感がないけれど、これは夢や幻ではない。俺が、俺の意思で選択した現実だ。
だからその後、雪ノ下を家に送ることになったのは、まあ当然の流れなのだけど。
「……」
「……」
自転車を学校に置いて、二人並んで歩く帰り道。雪ノ下の家まではもう後数分歩くだけ。互いの間には言葉一つなく、なんとなく気まずいような沈黙が流れていた。
いや、なんでこうなったの?
「あの……」
「なあ……」
勇気を振り絞って声をかければ、ご覧の通りハモってしまう始末。また妙な間が流れ、なぜか顔が熱くなる。チラリと見た雪ノ下の頬も、赤く染まっていた。
「そちらからどうぞ……」
「いや、お前から言えよ……別に俺は大したことじゃないし……」
「そう……なら……」
ゆっくりと息を吸って、吐いて。それでもそわそわと落ち着かない様子の雪ノ下は、いじらしくもチラチラと俺の顔を見たり目を逸らしたり。
ちょっとお嬢さん、焦らしプレイがお上手でございますね。やめろよそういうの、俺もなんか緊張増すだろうが。
やがて意を決したのか、目尻をキリッとさせた雪ノ下が、口を開く。
「私たちは、その、今日から交際する、ということでいいのよね……?」
まさしく俺が聞こうとしていたことと同じだ。誰だよ大したことじゃないとかほざいたやつ。俺だよ。
俺たちは互いに想いを伝えあって、思いを重ね合わせたわけなのだけど。それでも、やはり俺も彼女も、関係の変化を口にはしなかった。
それはどこかで恐れているからだろう。変わってしまうことを。変わらざるを得ないことを。いくらどれだけ覚悟したとは言え、やはり事ここに置いてヘタレてしまうのは、俺が俺である以上仕方のないことだ。
だけど、俺たちはもう一歩を踏み出した。
変わるための一歩を。変わりたいと願って、動き出したのだ。
それに、こんなところで躓いてしまえば、またあの優しいお団子頭の彼女に怒られてしまう。
「そう、だな……そういうことに、なるんじゃねぇの?」
「そう……そうよね……」
呟いた雪ノ下が、小さく微笑んだ。
本当に、小さくて、ともすれば気のせいにも思える一瞬。
夕暮れの中で見逃してしまいそうなその微笑みは、まるで幼い少女のように無垢で。普段感情表現が下手くそ雪ノ下が、それでもあらんばかりの喜びをその表情に映していた。
正直、それは反則だ。そんな顔されたら、逆に俺がどんな顔をすればいいのか分からなくなる。
素直なんて言葉とは程遠い人間だから、彼女のように笑うこともできない。いっそ開き直ってそうすれば、幾分か楽なのだろうけれど。
「なにか、変わるのかしら」
「……どうだろうな」
夕暮れに染まる空を見上げる彼女は、果たしてそこになにを見ているのだろう。
きっと、俺とは違うものを見ている。この空の色一つしたって、きっと見えている色は違うのだ。赤、朱、橙。違っていてもいい。ただ、それを共有したいから。
春の桜も、夏の花火も、秋の紅葉も、冬の雪も。その全てを、今隣を歩く女の子と共有したいと思ったから。
それは、その想いだけは、きっとこれからの未来でも変わらない。根拠はないのに、そう断言できる。
「多分、変わることもあるだろうよ。でも、しばらくはなにも変わらない。あの部屋にお前がいて、そこに俺と由比ヶ浜が来て、たまに一色とか小町とか、平塚先生もいてさ。そういう日常が、これからも続いていく。いや、続けていくんだよ」
「そうね。そうありたいと、私たちは願ったもの」
「ああ。だから、そのために出来ることをやらないといけない」
なにもせずにこの日常が続いていく。そう思うのは傲慢だ。俺たちを取り巻く現実は日々目まぐるしい変化を遂げて、そんな世界に翻弄されながらも、それでも変わりたくないと足掻く。それは決して無駄なことではないはずだ。
変わっていくものは、たしかにある。変わりたいと願った関係も。
けれど、それでも変わりたくないと、今のままでいたいと願うことは、まちがいなんかじゃない。
その願いが同居することは、矛盾しないはずだ。
「ふふっ、珍しいわね。あなたがなにかをやる気になるなんて」
「必要なことは必要なだけやる主義なんだよ、元々。なにもしなくて、後から手痛いしっぺ返しを食らうのは御免だからな」
「素直じゃないのね」
「ほっとけ」
いつの間にかいつも通り。こうして交わす言葉が心地いい。それは春のそよ風にも似た、あたたかいものだ。優しく、穏やかに、俺の心を撫でる。
だから、突然左の手を握られた時は、本当に驚いた。
日常の中に入り込んだ非日常。いや、そもそもこうして雪ノ下と並んで帰るという時点で、日常とは乖離していたのだけど。
それでも、いきなりなにも言われず手を握られると、誰だって驚く。俺だって驚く。
「……もうマンション着くぞ」
「……そうね。でも、少しだけ、だから」
雪ノ下の住む背の高いマンションは、既に視界に入っていた。きっともう、十分もしないうちにその下へと到着する。
赤くなった顔を隠したくて。でもそうすることが、何故かできなくて。
だから仕返しとばかりに、俺からもちゃんと雪ノ下の手を握ってやる。
少しだけ冷んやりとした小さな彼女の手に、わずかな熱を感じられた。
これからは、望めばいつだってこの手を取れる。そういう関係に、その距離に俺はいるのだから。
「着いたぞ」
「ええ」
マンションの下に着いても、雪ノ下はしばらく手を離そうとしなかった。
名残惜しく感じているのは俺だって同じだ。それが、初めて手を繋いだからか、それとも時間が短すぎたからかは分からない。
どちらにしても、もう少しだけでも一緒にいたいと、そう思った結果なのは同じだ。
やがて後ろ髪を引かれながらも手を離したのは、マンションの中から人が出て来たから。
さすがにご近所さんに見られている中で手を繋ぎ続ける度胸はなかったのだろう。
それから雪ノ下は、一歩二歩とマンションへと近いて。足を止めて振り返り、自分の右手をマジマジと見つめた後に俺の目を見て。
優しく微笑んで、その手を振った。
「また、明日」
いつからだったろうか。別れ際の挨拶が、その一言へと変わったのは。
いや、重要なのはそこではなくて。
それは、彼女が明日を望んでくれている証だ。俺との明日を。なにかが少しずつ変化して、それでも変わらない明日を。
だから、俺も同じ言葉を返す。
「ああ。また明日な」
少しだけ喜色の混じった笑みを最後に浮かべて、雪ノ下はマンションの中へと入っていった。その背を見送り、夕暮れの中帰路につく。
「また明日、か」
明日も、雪ノ下雪乃と会える。
明日からは、恋人として。
その事実を再確認するだけで、頬のにやけが止まらなかった。