社会人になると、学生諸君が羨ましくなってしまう。それはなにも、週休二日が約束されているとか、時間的自由が多いとか、そういった話に限ったことではなくて。
例えば、バレンタイン。直近に、というかまさしく今日がその日であるのだけれど。俺レベルの社畜となれば、職場の女性社員が男性社員全員にチョコを配っているのを見てようやく思い出したまである。こういったイベントごとでも、俺たち社畜は例外なく仕事だ。楽しむ余裕なんてのはありもしない。
しかし青春を楽しむ少年少女たちは、チョコが貰えるかどうかで一喜一憂し、意中の相手にチョコを渡すために権謀術数を渦巻かせ、朝の机や下駄箱で無駄に期待したりする。そんなキラキラな今日を送っていたことだろう。
イベントを楽しめることが羨ましいわけではない。楽しめるだけの余裕を持っていることこそが羨ましいのだ。
そりゃお前、俺だって学生の頃、特に高校の頃はそりゃもうキラキラな青春を……過ごしてたような……あ、あれ? キラキラどころかキラヤバだし、なんならヤバヤバな過去しか思い浮かばないんだけど、なんで……?
「はぁ……」
思わず漏れたため息。白いそれが夜空に消えていき、なんとなく物悲しさを感じる。
まあ、そんなヤバヤバな過去、青春時代であっても、たしかに楽しかったのは事実なのだ。
彼女らと過ごした、あのあたたかな紅茶の香りに満ちた部屋。
今となっては遠い思い出の中にしかないけれど。だからこそ、時折恋しくなってしまう。紅茶の香りと、彼女らの笑い声が。
なんて、どこかセンチメンタルな気持ちで一人暮らしのマンションまで辿り着いたのだけど。
「あいつ、また……」
誰もいないはずの部屋に灯る明かり。再び漏れてしまうため息。裏腹に、口角は上がっていて。
連絡の一つくらい寄越せって、毎回言ってるんだけどな。
彼女が俺の言うことを聞いてくれないのは、もはやいつものこと。なんなら俺の言うことを聞いてくれるやつとかこの世に存在しないまである。最近は会社の後輩すらも言うこと聞いてくれなくて、いよいよ世界に居場所を失ってきた、どうも俺です。そう聞くとなろう系の主人公みたいでかっこいいな。
「ただいま」
案の定鍵の開いていた扉を潜れば、玄関には見慣れた女物の靴がひとつ。脱いだ靴をその隣に並べていれば、てとてとと足音が聞こえてきた。
「おかえりなさい、比企谷くん」
現れたのは、エプロン姿の美女。高校時代からその美しさに更なる磨きをかけた雪ノ下雪乃が、俺の帰りを待っていた。
携えるのは穏やかな笑み。あの頃とは比較にならないほど柔らかな表情に、飽きもせず見惚れてしまう。
「ここ、俺の家なんだけどな……」
「今更じゃない。私に合鍵を渡したの、あなたでしょう?」
「うん、まあそうなんだけどね……いつも言ってるけど、せめて連絡してくれ。こっちにも準備とかあるんだよ」
「なんの?」
「心の」
「それこそ今更ね」
本当に、今更だ。もう七年近くの付き合いになるというのに、心の準備なんて必要ないだろう。雪ノ下の言った通り、この家の合鍵を渡したのは俺だ。その時点で、彼女が勝手にここへ上がることへの同意は済ませている。
「ご飯、まだ少しかかるから。先にお風呂を済ませてきなさい」
「おう」
言われた通りに着替えを用意して、風呂に向かった。ご丁寧にお湯も沸かせていて、マジで至れり尽くせりというか、通い妻が板についてきたなぁ、とか思っちゃったり。
あいつの家、まだ千葉だし。今日も泊まるんだろうなぁ、とか。どうせ明日は仕事休みだし、なんなら泊まってくれるのは嬉しいよなぁ、とか。疲れた頭でそんなことを考え、逆上せる前に風呂から出た。
リビングに入れば、鼻腔をくすぐる匂いに刺激され、一層空腹を意識してしまう。
「おお、今日も美味そうだ……いただきます」
「どうぞ召し上がれ」
本日のメニューは鮭のホイル焼き。バターの味付けがしっかり聞いていて、白米を食べる手が止まらない。
「今日は少しあっさりした味付けにしたのだけれど、どうかと聞くまでもなさそうね」
嬉しそうにクスクスと微笑む雪ノ下。その声が擽ったくて、頬にほんのりと熱が集まる。風呂上がりのせいにしておこう。
それでもやっぱり、ご飯を食べる手は止まらず、あっという間に平らげてしまった。
「ご馳走さま。今日も美味かった」
「お粗末様でした」
食器の片付けは俺が任され、それが終わる頃合いに雪ノ下がお茶の準備を始めた。同時に、冷蔵庫からセロハンの包みも取り出している。
それがなにかを察して、ちょっと楽しみになってしまう。こいつの作るお菓子は美味しいからな。毎年貰ってるけど、毎年美味い。おまけに渡される時は、無防備なまでに剥き出しの感情がセットだ。それがとても嬉しくて、ありがとうなんて言葉じゃ足りなくて。
「はい、これ。今年のチョコレート」
「毎年すまんね」
「それは言わない約束でしょ」
そんな風に茶化しでもしいと、冗談抜きで泣きそうになるから。
リビングのソファに二人座り、雪ノ下の作ってくれたチョコと、雪ノ下の淹れてくれた紅茶を味わう。
静かで、穏やかな時間。あの部室で過ごした時間と似て非なる、優しい場所。それはいつだって、雪ノ下雪乃の隣にある。
「今日、泊まってくのか?」
「もちろん」
「またベッドが狭くなるな」
「くっついて寝るのだから変わらないわよ。あったかくて丁度いいでしょう?」
恥ずかしげもなく言う雪ノ下に、こちらの羞恥心が煽られる。今日はゆっくり寝れるかどうか。まあ、明日は休みなのだし、どちらにしても構わないのだが。
肩に預けられる心地よい重さと、口に広がるチョコの甘さ。
今日は特別な日なのかも知れないけれど。俺たちにとっては、なんでもない日常のひとつに過ぎない。