アフターストーリー第二十二話挿入歌「小さな手のひら」の一節を参考に書いてみました。公式では後日談として、大きくなった汐は旅に出る決意をするようですね。
岡崎家の話は一応これで完結となりますが、できればIFストーリーも考えようかと思っています(椋編、宮沢編……etc)。
時間というものは、俺たちが思っていたよりさらに早く、目まぐるしい速さで過ぎ去っていく。
ほんの少し前まで――俺は光坂高校へ通う、不良の男子学生だったはずだ。
高校を卒業して電気工をしながら食いつなぎ、やがて一年遅れで卒業した渚と結婚し、一年待たずに汐≪うしお≫が生まれた。貧しくはあったが、子育てをはじめとして送ってきた家族三人での時間は、とても幸福に満ちたものだったと思う。
汐が生まれてから、十二年の月日が経っていた。
不思議なものだ。俺は少し前まで高校生で、汐だってほんの昨日まで、しゃがみ込んでようやく目線があうぐらい小さかったはずなのに。
「……」
地元紙を広げながら、俺は今のソファーからキッチンに立つ渚の背中へと目を向ける。
いつの間にかあのエプロン姿の渚は遠くへ行ってしまった。
汐が小学校に上がる年、俺たち家族はこの家に移った。決して広いわけでもなく、目立たないところは傷んでいて、マイホームでもない借家だったが――あのボロアパートに比べれば天国のような広さだ。転居したての頃は汐も大喜びで、家の中をよく駆け回っていたのを覚えている。
「パパ、もうすぐご飯できますよ~。しおちゃんに声を掛けてあげてください」
せかせかと動く渚はちらりと俺の方を振り返って、そう言った。
食卓には既にほとんどの夕食が並べられている。あとは渚が煮込んでいる鍋の中の汁物、あれを注げば完成だろう。
「ああ」
やおら立ち上がり、俺は今を出て二階へと上がる。
二階には俺たち夫婦の寝室と空き部屋が一つ、そして汐の部屋がある。
「うしお」のナンバープレートが下がるドアをコンコンとノックして、
「汐ー、飯だぞ」
『はーい、お父さん』
元気な返事が聞こえてくる。俺は思わずふぅとため息をついた。
いつの間にかパパ呼ばわりがなくなり、代わりに俺は「お父さん」、渚は「お母さん」になった。……まあ、小学生とはいってももう最高学年だし、こういう変化も子の成長として受け止めるのが親の仕事だろう。
「先、降りとくぞ。お前も早く来いよ」
『はぁい』
部屋の中で何やってんだか。
最近の汐は、部屋の中で過ごすことが多くなってきた。
俺たちの知らないところで、きっと汐は色々なことをやっているのだろう。
親の俺が言うのもなんだが、汐はとても優秀な娘だ。勉強もよくできるし、スポーツも万能で、体育の授業ではどんな競技でも周りを引っ張るような存在らしい。
通知表は何度も見せてもらったが、目を見張るほどの成績だった。不良を貫いていた俺からすれば信じられないほど、出来のいい子供だ。
勉強やスポーツだけじゃない。汐は芸術や音楽関係にも強かった。
渚の希望もあって、汐にはいろいろな習い事をさせた。全く違うカテゴリの教養を手あたり次第学んで、そのたびに汐は多様な技能を身につけた。――言ってしまえば「天才肌」の子供に育ったのだ。
俺と渚が先に食卓に着いてから数分後、ばたばたと階段を下る音が聞こえてきて、汐が居間に顔を出した。
Tシャツに短パンと、えらくカジュアルな格好だ。こうして眺めれば、いかにも普通の、ちょっと元気のいい女の子という印象である。
「おー、ハンバーグに、シーザーサラダに……豚汁!」
目をキラキラさせながら席に座り、それを見計らって俺と渚が手を合わせる。汐もそれに倣った。
「いただきます!」
「「いただきます!」」
合唱の合図は俺。岡崎家の掟の一つ。
「お汁はおかわりたくさんあります。パパもしおちゃんも遠慮せずに食べてください」
「うーい」
「それじゃ私、早速おかわりー!」
「速ぇなおい⁉」
ぴょこんと席を立ち、えへへとはにかみながら汐が言った。
「だって、お母さんの豚汁おいしいんだもん」
「しおちゃんにそう言ってもらえると、ママとっても嬉しいです」
笑う渚と汐の顔、傍目に見ればとても良く似ている……親子だから当然か。
さて……今日も渚の旨い飯を楽しむ時間がやってきた。
メインのハンバーグを箸で切り分けて口に運ぶ。デミグラスソースと絡む柔らかい肉にはまだ水分が残っていて、噛む瞬間に旨味が口いっぱいに広がっていく。
「……旨い!」
「パパも、いつも褒めてくれて嬉しいですっ」
「お前、本当に料理上手いよな。古河の血筋か?」
「へ? ……ど、どうでしょうか。お母さんも、料理はとってもお上手ですけど」
「早苗さんの料理も美味しいよね! 私も大好きだもん」
「お前、早苗さんの料理の味とか覚えてるのか?」
汐が古河の家に世話になるのは多々あったが、それもせいぜい幼稚園の頃までだ。
「もちろん。私の舌はいろいろ記憶できるからね」
「なんだそりゃ」
しかし、どこかの雑誌で「子供は幼いころに食べさせるもので舌が変わる」というものを呼んだことがあった。本当にいいものを食べさせていれば、その子の舌はとても敏感で、ささいな味の違いも見分けられるようになるという。
少なくとも早苗さんも、もちろん渚も――悪いものは絶対に食べさせないタイプなので、汐の舌は良い育ち方をした、ということなのかもしれない。
「汐、お前幸せ者だぞ。小さい時から旨い飯しか食ってねえだろ」
「その件についてはとても感謝しております。お母さん、ありがとね♪」
「しおちゃん……」
既にうるうるしている渚。まったく、お前もすぐ泣くの変わらねぇのな。
変わらない、と言えば俺もそうなのかもしれない。案外、大人になったから変わるものなんてそう多くはない。子供が生まれてからは価値観の変化も多少なりにはあったが、それは然るべき変化の一つだと俺は思っている。
年食っても変わらないのはみんな同じらしく、たまに会う演劇部の連中や、高校時代に付き合いのあった奴らは――やっぱり、そう変わっていない。
もうみんな、俺たちと同じように家庭を持っている。
春原と杏は同学年の子供を持っている。藤林も最近結婚した、ということを杏から聞いていて、宮沢もお兄さんと特に親しかったグループの一人と幸せになったらしい。
智代は京都の土地で、代々権威のある富豪の婿になったと聞いた。
ことねは相変わらずアメリカで暮らしているようだ。今では多世界解釈論だかなんだか、その道の第一人者に匹敵する存在らしい。結婚しているのかは不明だが、月に一度ぐらい電子メールで近況を知らせてくれている。
仁科は音楽の道を進んで、今はオーケストラの一員として世界中を飛び回っているという。
一人ひとり、選んだ道はまったく違う。それでもたまに会ったりやり取りしてみると、これが笑えるほど「変わらない」のだ。
あいつも、こいつも。まったく揃ってあの頃のまま。
おじいさんおばあさんになっても、俺たちはきっと、あの頃のままなのだ。
「……パパ? どうしたんですか?」
「あ、ああ。変わらないなって思って」
「何がですか?」
「俺たちだよ。みんな、変わってない」
しばらく渚はきょとんとしていたが、
「そんなことありませんよ。現にしおちゃんはこんなにおっきくなってます」
渚の隣に座る汐は、ちょっぴり恥ずかしそうに目を落としている。
「まあな。子供はこれから変わっていくんだ」
ぴくっ。汐の肩が、ほんのわずかに跳ねた。
「ごっ、ごちそうさまっ」
いつの間に食べ終えたのか、汐の皿は既にきれいさっぱり底面を晒している。
「しおちゃん……?」
「あは、私宿題が結構あるんだよね! 今からやんなくちゃ!」
カチャカチャと食器類を流しに片付けて、汐は逃げるように居間を後にして、階段を駆け上っていく。
「なんだ、あいつ?」
「どうしちゃったんでしょう……ご飯、美味しくなかったんでしょうか」
「それは絶対にないから安心しろ。俺が保証する」
だいたい、そこそこ量あったのにペロっと食いやがったからな、あいつ。
「でも、様子がおかしかったです。わたし、ちょっとお話を――」
席を立とうとする渚に、俺は待ったをかけた。
「いいんだって。放っておけ」
「で、でもっ。わたし、心配ですし」
「……あいつも、一人で色々考えることがあるんだ。いずれ必要な時がきたら、あいつから俺たちに相談するさ」
「そ、そういうものでしょうか……」
「そういうものだ。子供はみんな、な」
俺は予見していた。
汐が――小さかったあの手のひらが、俺たちから離れていく日が――そう遠くはないことを。
*
「お父さんとお母さんに、大切なお話があります」
九月のある日、俺たちは汐の提案によって、家族会議を開いた。
汐は、どうしてもやりたいことがあるのだ、と俺たちの前で告白した。
「演劇?」
「うん。アッキーも、それからお母さんもやってた、演劇」
「でも、どうしていきまり……」
「小さい時から、お母さんたちが演劇の話をしてくれたのを覚えてて。それで、ちょっと調べてみたら……すごく、惹かれたの。創られた物語の登場人物になりきって、私が伝えたいことを、お客さんに伝えること――私の声で、私の身体で、それから、私の考えた物語で――それがとてもすてきなものだって、気づいたの」
それから汐は、演劇の強い中学に行きたいという希望を話した。
そこは都心の中学校で、有名私立校だった。
とても入学偏差値が高いので、六年生になってからは試験のための勉強に励んでいたという。
「演劇のために行くだけじゃ、お父さんたちを納得させられないと思って……だから私、勉強も同じぐらい頑張りたいんだ」
俺たちが通っていた校区内の中学校には演劇部はないし、知っての通り、光坂高校の演劇部も今はもうない。
町から出ることが大前提となったからには、学力的にもレベルの高いところへというのが、汐の考えだった。
汐がどこからか手に入れたらしい学校説明のパンフレットを、俺はパラパラとめくっていた。
「中高一貫だから、六年間は寮生活……か」
「……ダメ、かな……」
「駄目とかじゃない。お前は、それでいいのか?」
汐はさらりと前髪を撫でながら、自信なさげに俯いていた。
「正直、寂しい。私はずっとお父さんとお母さんと、一緒にいたいよ」
「しおちゃん……」
既に渚は涙ぐんでいる。俺も目頭が熱くなるのをぐっと堪えながら、真剣なまなざしを汐へと送った。
「でもね。それでも、私は演劇をやってみたい。辛いこと、苦しいこと。たくさんあると思うけど……それでも、挑戦してみたい」
「――そこまでの決心があるなら、大丈夫そうだな。なあ、渚」
「……」
俺は渚の膝に置かれた手を、横から優しく握ってやった。
「……はい。わたしも、しおちゃんを応援したいと思います……」
「俺も同感だ。……汐。よく聞け」
「は、はいっ!」
「子供の願いは、親の願いでもあるんだ」
いつかの古河のおっさんが、こんなことを言ってたっけ。
あの頃はよく分からなかったけどさ。今となっちゃ、手に取るように分かるぜ、その気持ち。
「お父さん……お母さん……っ!」
きっと我慢していたのだろう。
堪えきれなくなった涙のひとかけらが、汐の瞳からはらりと零れて。
それをきっかけにして、堰を切るように大粒の涙が一つ、二つ、三つ。
「ほら、汐。こっちに来い」
岡崎家の掟の、その一つ。
泣くときは――おトイレか、パパの胸の中で。
普段はいっちょまえに大人ぶったりする汐だったが、この時ばかりは別だった。
「っ――ううっ、うわぁぁっ!」
席を立つと、まるで小さな子供のように、大きくなった渚が飛び込んできた。
顔をぐしゃぐしゃにする汐を抱きとめる。いつかの時よりも汐はずっと――大きくなっていた。
抱きしめて、その身体の重さが染みるように伝わってくる。もう昔のように、軽々と腕だけで持ち上げるのは難しいだろう。
もう大人になりつつある。身体も、そして心も。
早かった。あまりにも早かった。
汐の手が、俺の背中をぐっと引き寄せた。
とても力強く。俺たちの元を離れても、生きていけるという証左に他ならなかった。
「汐……」
優しく、その髪を撫でてやる。
きっとこうして抱いてやれるのもこれが最後だ。恥ずかしさを振り絞って、こうしていられるのも――これで最後だ。
とても切なく、苦しくも――俺にとって、そして渚にとって、この辛さは同時に希望でもあり、幸せでもあるのだ。
「頑張るんだぞ、汐」
いつの間にか、俺の視界は涙でぼやけたものになっていた。
この景色。
この感覚。
いつかどこかで、見たことがある。
それはとても、素晴らしい場所だった。
黄昏の中で、小さな汐を、これでもかというぐらい抱き留めた。
あれは、確か――汐が、何かを失くして……。
『パパ……』
あれは――。
『初めてパパが、買ってくれたものだから……』
いつの記憶なのか、はっきりしない。
初めて汐がパパと呼んでくれた。
ともすれば、これは夢の中の出来事だったのかもしれない。
覚えているのは、ただ――泣き続ける汐を、必死に父親として抱き留めた、あの感触だけだ。
それ以上は――思い出せない。
思い出してはいけないのかもしれない。
そうだ。俺には今があれば、それだけでいい。
「しおちゃんっ……朋也くん……っ!」
渚も嗚咽を漏らしながら、汐の背中をそっと抱いた。
きっと俺は、別の世界で、とても大切なものを失った。その記憶が断片的に、脳のどこかで残滓となって漂っている。
それでも、俺はそんな記憶を認めようとは思わない。
こうして、三人で同じ時を分かち合うこの世界こそが――正しい世界だということを、誰よりも信じるために。
俺はそうやって二人の妻子を、いつまでも己の腕の中で感じていたのだった。
BAD世界の汐の健気さには泣かせられました。おそらく五歳の時点で、彼女は自らが「町」そのものであること、母と同様に五歳で命を終えることに気づいていたのでしょう。
このお話の汐はそういうものとは無縁の、(朋也の主観としては)正しい世界の汐なのでまさに普通の(?)女の子です。朋也と渚の良いところを継いだ、優秀な子という設定にしました。そしてその優秀さゆえに、他人より早い旅立ちをすることになった、という流れにしました。
毒にも薬にもならない無味乾燥としたお話でしたが、ここまで目を通してくださってありがとうございました。