「――あー、あー、聞こえますか。こちらは現在、木星の衛星軌道を周回中」
誰にともなく、彼はつぶやく。しかしその声は、自分の耳にすら届かなかった。
それも当然だろう、何せここは宇宙空間なのだ。音を伝える空気もなく、よしんば声を出せたところで聞く相手がいるはずもない。強いていうなら、自分の遥か遠くに時折見えるイオくらいか。
こんな状況でも腰のまわしは一切緩むことなく、大切な部分を守ってくれている。これがあるからこそ我々は遠慮なくぶつかり合えているのだと、改めて伝統というものの強さと素晴らしさに感銘を受けた。
何故、彼がこんな状況になっているのか。それを語るのは、長い――わけでもない話になる。
ある日のこと。彼はいつものように土俵に立ち、姿勢を落として構えていた。相対するはよく見知った顔。彼が力士として土俵に入った当初からのライバルだ。もう相手とはもう何度となく事を構え、その戦績はほぼ五分五分。彼ら同士はもちろん、彼らを知る誰もがライバル同士だと認める間柄だった。
こいつにだけは負けてなるものか――いつも彼はそう思って立ち会い、時には勝ち、時には負けてきた。普段からそうして特別な相手として、他の者より気合を入れて相対する。中でもこの立会はとりわけ特別だった。
何しろ、決勝である。この取組に勝った方が、今季の優勝者となるのだ。
力士であれば誰でも夢見た「優勝」の二文字。その最後の相手が積年のライバルとなれば、気合の入り方もひとしおだ。
直接対峙する二人はおろか、観客の緊張も時を刻むごとに高まっていく。誰しもが固唾を飲み、手を握りしめ、目はギラギラと土俵の上に向けられて――
そんな緊張が最高にまで高まった瞬間、行司の合図が響き渡った。
そのタイミングは、見事と言うより他にない。もしほんの少しでも早ければ熱の高まりきらないまま立会が始まってしまい、逆に遅ければあまりの緊張に気持ちが疲れ、どちらかがほんの一瞬気を緩めてしまっていたかもしれない。
行司として長年携わり、立会の空気というものを知り尽くした彼でしかできない、最高の始め方だった。
そして――それがいけなかった。
極めて高い次元で練り上げられた、二人の力士の力。そのポテンシャルは、最高潮にまで高まった緊張によって研ぎ澄まされ、そして最高のタイミングでの開始の合図。それらが完璧なピースとなって合わさった結果。
あまりに強いエネルギーの衝突により、大爆発が起こったのだ。
無論、取組開始直後の爆発は日常茶飯事。客席には十分な強度を持った防壁が張られており観客に怪我などは一切ない。しかし行き場をなくしたエネルギーは、ある一点、土俵の真上に向けて炸裂し、その中心にいた者……すなわち、二人の力士を空の果てまで吹き飛ばしてしまったのだ。
大気圏を出る辺りまではライバルの姿を覚えている。しかしそれから後は違う方向へ行ってしまったのか、地球が丸いのだと実感した頃には既に彼は一人になってしまっていた。
「確か、前は火星の軌道上に達する前に戻れたのだったか。まさか木星まで来てしまうとは…いやはや、我ながら気合の入ったことだ」
ライバルの方は、一体どこまで行ってしまったのだろうか。自分は運良く木星の衛星軌道で止まることができたが、もしかしたらもっと遠くまで行ってしまったかもしれない。
しかし、彼はライバルのことをそれほど心配はしていなかった。何せ、この自分と互角に渡り合う奴だ。きっと今頃、次はどうやって自分を倒そうかと考えているに違いない。そして自分もまた、ぶつかり合う一瞬で感じた手応えを反芻し、次に活かそうと考えていた。
とはいえ、まずは地球に戻らなければ次の立会も何もあったものではない。せめて足が地についてさえいれば跳んで帰ることもできただろうに、延々と衛星軌道をふわふわしていたのではどうしようもない。
このままでは夕飯のちゃんこにありつけないではないか。そう考え、ようやく彼は状況があまりよろしくないことに気がついた。
こうなれば、自分のエネルギーを一気に開放して推進力とするか。しかし、それをやってしまうと体の肉が減り、次の立会で不利になってしまう。だが、今は何より地球に戻ることが最優先――
そう彼が葛藤していると、何やら光がこちらへ向かっていることに気がついた。
――行司だ。
どうやら自分を迎えに来てくれたらしい。なるほど、まさしく神の如き力を持つ彼なら、たかが7億kmと少しの距離を渡ることくらい容易いだろう。
彼は行司の姿を見て、ほっと安堵のため息をついた。これで夕飯の時間には間に合いそうだ。今日もまた、たらふく飯を食える。
と、行司が誰かを連れているのに気がついた。いや、この状況で他に誰がいるはずもないだろう。共に地球から吹き飛ばされた、つい先程相対していたライバルだ。うっかり目を合わせてしまい、互いに苦々しい顔を作る。
だが、同時に彼らは目で会話していた。
互いに述べた言葉はどちらも同じ。
「次は俺が勝つ」
こうして二人の力士と行司は地球へ戻った。なお、取組の決着は引き分けとなり、決勝戦はまた後日、日取りを改めて再度行われることとなった。
以上が、ある二人の力士の、662回目の取組の顛末である。