いつだって、何かが起こる時は突然だ。
たった今、突然の豪雨に晒されているように。
「くっそぉぉお、ついさっきまでピーカンだっただろぉっ!?」
「センパーイ、そんな叫んだって雨は止まないッスよー」
「そんなことわかってるよぉっ!」
走りながら叫ぶ僕に、隣の女子がのんきに返す。同じ学校に通う、ひとつ下の後輩だ。
中間テストという学生の敵から開放されたこの日、僕はすっかり気が抜けていた。それは帰宅するという行動すらも億劫になり、誰もいない部室でダラダラした挙句うたた寝してしまったほどだ。
そして、すっかり日も暮れてから目を覚まし、なぜか傍にいた後輩と一緒に下校することになり――今に至る。
こんなことになるなら、さっさと帰っておけばよかった。そう悔やんでも時が戻ることはなく、今できることはただ、この先のバス停へ全力疾走することのみ。
「はぁ、はぁ……ふぅ……」
ようやく辿り着いたバス停に、荒い息をつきながら駆け込む。広い道路にぽつんと佇む小さな屋根が、今はこの上なくありがたかった。
だが、体はすっかりずぶ濡れだ。膝に手をついて頭を垂れると、雨水が髪からぼたぼたと滴り落ちる。まるで服を着たままシャワーでも浴びたような有様だ。ここまで濡れてしまうと、走ったことでかいただろう汗などどうでもよくなってしまう。
「はぁー……すっかり降られちゃったッスねぇ」
声の方に目を向けると、後輩は涼しい顔でスカートの裾を絞っていた。こっちは痛いほど激しく心臓が脈打ち、息が苦しくて声を出すのもままならないというのに。
「なん、でっ……はぁ、君は、そんな……げほっ……平気……」
「センパイがもやしなだけッス。もうちょっと日頃から動いた方がいいッスよ」
確かに僕は、運動部に所属しているわけでもないし普段から体を動かす方ではない。だがそれは同じ部に所属している彼女だって同じはずだ。ならばこの差はなんだというのか……そう言いたいが言葉にならず、ただ恨めしげな視線を送る。
しかし後輩はそれをあっさりと無視し、バスの時刻表に目をやった。
「うげ……次のバスまで一時間半ッスか」
それはそうだ、ただでさえこの路線は乗車率が高いとは言えない。僕達の学校の生徒が多く利用するため、登下校の時間は多めに走っているが、そんな時間とうに過ぎている。
「はぁ、ふぅ……仕方ない、待つしかないかな」
「そうッスね、まさかこの雨の中を歩くわけにもいかないし」
やれやれ、と後輩が小さく息をつき、備え付けのベンチに腰を下ろした。
「ほら、センパイも突っ立ってないで座ったらどうッスか?」
「言われなくてもそうするよ」
後輩がベンチの隣をぽんぽんと叩いて促す。やっと息が整った僕も、大人しくそれに従った。
――少しの間、沈黙が場を支配する。
降りしきる雨と、それに叩かれる屋根の音。そして二人の息遣いに、時折衣擦れの音がする。
風情がある、と言えば聞こえはいいのだろうが、正直なところ、ただただ退屈だった。
いつも読んでいる本を広げようにも、全身ずぶ濡れの状態では本も濡れてしまうだろう。スマホを出しても、僕はゲームなどもしていないしネットの記事にも興味がない。
つまり僕達は、暇つぶしの手段も画期的な打開策もなく、ただこの場所で無為に時間を過ごすしかなくなってしまったわけだ。
「暇ッスねぇ……」
同じことを思っていたのか、後輩もそんなことをぼやく。誰にともない独り言だったのだろう、その場に満ちた雨の音にかき消されてしまいそうな声だった。
その言葉に返事をしようと、何気なく後輩の方に目を向ける。だが、僕は即座に目をそらすことになってしまった。
今の季節はそろそろ夏にさしかかろうかという時期。僕達学生の服も、涼しげな薄手の夏服だ。そんな服でこれだけの雨に晒されたらどうなるか、考えてみれば想像に難くない。
極力おかしな動きをしないようにはしていたが、後輩は僕の様子にすぐ気づいたようだ。そちらに目を向けずとも、気配が変わったのが肌でわかる。
きっと今、後輩はニヤニヤと憎たらしい笑みを浮かべているに違いない。
「セ~ンパ~イ? どうしたんスかぁ~?」
「……別に……」
「いやいや、明らかにどうかしてるじゃないッスかぁ? あ、すみません。どうかしてるのはいつもでしたッスね!」
「うるさいよ馬鹿」
「あー、馬鹿ってなんなんスか! そりゃ私はセンパイに比べて成績悪いッスけど、そんな言い草はないんじゃないッスか? ねーセンパイ、ねーってばー」
まるで夜明けの鶏のように、後輩はやかましく騒ぎ立てる。彼女が何か楽しげにしているのはいつものことだが、今はなんだか輪をかけてやかましくなっているように見えた。
ぐいぐいと僕の袖を強く引っ張ってくる。その弾みで体ごと大きく揺さぶられるが、それでも僕は頑なに振り返ろうとはしなかった。
しばらくそうしていると、唐突に手が離される。どうやら諦めてくれたようだ。
「むー……」
不満げな声がするが、聞こえなかったふりをする。そしてやれやれと小さく息をついた瞬間――
「ひゃっ!」
小さな悲鳴を上げ、後輩が僕にしがみついてきた。突然のことに驚くと同時に、唐突に押し当てられた温もりと柔らかさに、思わず動揺してしまう。
「な、何!?」
「あ、す、すみませんッス……ちょっとびっくりしちゃいました」
「びっくりって……どうしたの?」
その問いかけに、後輩はある方向を指差した。そちらを見ると、小さな一匹の鼠が走っていくのが見える。どうやらあの鼠が僕達の足元を駆け抜けていったようだ。
なるほどと合点がいくと同時に、はた、と僕は思い当たる。
「これがホントの濡れ鼠ってやつだな」
「おぉ、上手いこといいまスね」
つい口をついて出た言葉に返事をされ、僕は微かに恥ずかしくなる。だが後輩に目を向けると、にひっと笑みを向けられて何も言えなくなってしまった。
「ところで、いつまでくっついてるつもりなんだよ」
「えー、いいじゃないッスか。こうしてるとあったかいし」
「そんなに寒くもないだろ、いいから離れろって」
「いーやーでーすー」
後輩は口を尖らせたかと思うと、更にぴったりとくっついてきた。
思わずため息をついたものの、無理やりに引き離すことはせず観念する。仮にも女の子に実力行使するのは気が引けるし、寒くないとは言ったものの、雨で冷えた空気が少し冷たく感じるのは確かだ。人肌の柔らかな温もりが心地よくないと言ったら嘘になる。
無論、他に誰かがいたら問答無用で引き剥がすだろう。だが、今は二人きりで、雨に閉ざされた空間の中にいる。そんな状況が、僕を少し人恋しい気持ちにさせたのかもしれない。
「んふふー」
「なんだよ」
「いえいえ何でも。ただ、付き合い始めてからこういうことするの、初めてだなーって」
その言葉に、僕は声を詰まらせた。
そう、僕と後輩は付き合っている……ことになっている。というのも、僕は自分から付き合って欲しいと言ってはいないし、後輩から言われてもいなかったのだ。
彼女は部に入った当初から、何かと僕の後をついて回っていた。自分でもあまり愛想がいいとは思わない僕にどうして、とは思ったが、他人に慕われて邪険にするほど人嫌いというわけでもない。
そうして特に避けたりするでもなく接しているうちに、何かと二人セットで扱われるようになり、とうとう付き合っているという噂まで流れる始末。
当初は僕も否定したのだが、既に周囲ではその認識で固まっており、覆すこともできないまま今に至ったというわけだ。
「今更だけどさ、君はよかったの? その、僕と付き合ってる……なんてことになって」
「あはは、ホントに今更ッスね」
あっけらかんと笑う後輩に、僕は少し眉をひそめる。僕としてはあまり触れたくない話題だったし、今も割と思い切って言葉にしたのだが。
「逆に聞くッスけど、センパイは嫌ッスか?」
「そりゃ……別に、嫌ってわけじゃ」
質問を質問で返され、つい口ごもりながらも答えてしまう。正直なところ、僕としては満更でもない――どころか、喜ばしいことだった。
僕の隣で笑う後輩は、顔は校内でも可愛い方に入るだろうし、性格だっていい子だと思う。多少強引なところはあるが、それでも決して人の嫌がることはしないし、いつも笑顔を振りまいて周囲を和ませているのを目の当たりにしてきた。
対して僕は、教室でも部室でも口を開くことはあまりない、まるで空気のような存在だ。校内平均より少しばかり学力が高い程度の自負はあるが、他には特にこれといって誇れることもない。
そんな僕と彼女が付き合っているなんてことになっているのも、ましてや周囲がそれをあたかも自然なことであるかのように受け入れているのも……はっきり言って、僕にはさっぱり理解できなかった。
頭の中で巡る思考を、唐突な頬への感触が止めた。見ると、後輩が指で僕の頬をつついている。
「まーま、いーじゃないッスか。細かいことは気にしなーい」
「いや、でもなぁ……」
「センパイ」
少し強く声をかけられ、思わず口をつぐむ。
「嫌じゃ、ないんっスよね?」
「……まあ、うん」
曖昧に返事をすると、後輩はニコッと笑顔を浮かべた。細かい悩み事なんてどうでもよくなってしまうような、そんなカラッとした笑顔だ。
まあ、いいか……。そう胸中で独りごち、小さくため息をついた。
そういえば、先ほど走り抜けていった鼠はどうなっただろう。彼――彼女かもしれないが――も、つい先ほどの僕達のように、雨宿りできるところを探していたのだろうか。いや、もしかしたら巣がこのすぐそばにあって、一刻も早く帰り着こうと必死で走っていたのかもしれない。
足元に目を落とすと、その鼠のものだろう小さな足跡が点々と続いていた。これも、雨が上がる頃には水気が乾いて見えなくなってしまうだろう。
「さっきの鼠、大丈夫かなあ」
「大丈夫って、何がッスか?」
「いやほら、無事に落ち着けるところまで行けたかなあって」
「ああ……きっと大丈夫ッスよ。動物って、私達が思うよりずっとたくましいッスから」
人間、さも当然のことのように言い切られると、言われた方もそういうものかと思ってしまうものだ。僕も例外ではなく、そういうものかと心の中にストンと落ちた。
そして、再びどちらともなく口をつぐむ。こうもけたたましい雨の音に囲まれていると、どうも自然と口が重くなってしまうものだ。
それでもなぜか、気まずい気持ちになることはない。ホワイトノイズのような雨音と腕に感じる温もりに、僕は何か言いようもない安らぎを感じていることは、紛れもない事実だった。それを口に出してしまうようなことはないが、もしや後輩も同じ気持ちだったりするのだろうか。
チラリと後輩に横目を向けると、ずっとこちらを見つめていたのだろうか。後輩のくりっとした大きな瞳と目が合った。
「ねえ、センパイ」
反射的に目をそらそうとしたが、後輩の声に引き止められる。決して大きな声ではないが、不思議と耳を傾けさせられる、そんな声だ。
「な、なに……?」
「いえ、鼠といえば……今の私達って、いわゆる『濡れ鼠』ってやつッスよね」
「あぁ、まぁ……うん」
何を言いたいのか全く読めず、曖昧に返事をする。
「じゃあ、折角ですし……もう少し鼠っぽいことしてみないッスか?」
「ね、鼠っぽいこと?」
魔性――そんな言葉が自然と脳裏に浮かんだ。
僕の隣にいるのは、快活な笑顔が似合う後輩に変わりはないはずだ。だが、今の彼女は普段とどこか違う。何が、と問われれば上手く言葉にできないが、少しでも気を抜けば頭から食われてしまいそうな、そんな雰囲気を纏っていた。
「わからないッスか? じゃあヒントッス。鼠って、どんな声で鳴くと思います?」
「鼠の、鳴き声……?」
それに思い至り、僕はかっと顔が熱くなるのがわかった。後輩に見られまいと顔をそらそうと思ったが、最早それも叶いそうにない。今の僕は、まさしく蛇に睨まれた蛙だ。
ゆっくりと、しかし止まることなく後輩の顔が近づいてくる。その大きな瞳から目をそらすこともできず、漂ってくる彼女の匂いに頭がくらくらと鈍麻する。薄く微笑む口元から覗く八重歯は、まるで獲物を前に剥き出しになった牙のようだ。
彼女と僕の距離が縮まるたびに、心臓の鼓動が速くなっていく。やがて互いの鼻息がかかるほどの距離になると、後輩は小さく口を開いて囁いた。
「ちゅー」
――そして、僕の視界は後輩で埋め尽くされたのだった。