はじめまして。わたしの名前は野中ハル、ごく普通のどこにでもいる小学生女子です。
突然ですが、わたし――恋をしています。
その人のことを想うと、胸がきゅっと締まったり、逆にどきどきして顔がほんのり熱くなったり……間違いありません、これは恋なのです。
始まりは、ほんの些細なことでした。
ある日のこと、わたしは自宅のベランダでいつものようにお花に水をあげていました。もともとはお母さんがお友達からお花の種をもらったと持って帰ってきたものです。
お母さんは自分でお世話をすると言っていたのですが、芽が出て来る前に飽きてしまい、結局わたしがお世話をすることになってしまいました。
お母さんはいつもそうやって、何かを始めようとしてもすぐに飽きてしまうのです。今回もきっとそうなるだろうなと思っていたら、案の定でした。でも、わたしはお世話を楽しんでいるので別に構いません。何より毎日すくすく育っていくお花は、とてもかわいいです。この季節は虫が多いし暑いしで、いつもはあまり外には出たくないのですが……いけない、違うお話になってしまっています。
話を戻して。
そう、わたしがそうやって、お花に水をあげていた時のことです。
時間はちょうどお日様が沈むくらいのころ。ベランダから見える川に赤い光がきらきらと輝いて、すごくきれいだなと思ったのをよく覚えています。
あんまりきれいだったので、わたしはしばらくの間お部屋に戻らず、ベランダで景色を眺めていました。すると、人が一人いるのを見つけたのです。
どうしてだかわたしはその人が気になり、じっと見つめていました。ですが、いくら目をこらしてみても顔はよく見えません。
ただ単に遠かったということもありますが、その理由は他にもありました。その人は黒いパーカーのフードをすっぽりと被っていたのです。
完全に怪しい人です。
もし学校の帰りにでも会ったなら、すぐに防犯ブザーを鳴らして近くのお家やお店に逃げ込み、おまわりさんとお母さんを呼んでもらうような、そんな人です。学校でもらったプリントにも、ちょうど同じような格好の人の絵が描いてありました。
ですが同時に、わたしはもう一つ気が付きました。
――その人は、何か手をぶんぶんと振り回していたのです。
怪しさ満点です。百点満点です。大きな花丸あげちゃいます。
ですがわたしは、その動きをどこかで見たことがあるような気がしました。
怪しい人を見かけたら、決して目を合わさず声も出さず、速やかに防犯ブザーを鳴らして逃げるようにと厳しく教わっています。本当ならこの時、わたしはすぐにお部屋に戻ってカーテンを閉め、おまわりさんに電話するべきだったのでしょう。ですが、どうしてもどこでその動きを見たのかが気になってしまったのです。
わたしは見つからないようにベランダの手すりに隠れながら、その人をじっと観察しました。そうしているうちに、ようやく思い出したのです。
あれは、ボクシングの人がよくやってるやつだ……と。
何かのテレビで見たことがあります。目の前に対戦相手がいることをイメージして、パンチを出したり避けたりするあれです。すごい人になると、本当に痛みが走ったりあざができたりするとかいうあれです。
それがわかった瞬間、わたしはつい手を打ち鳴らして声を上げてしまいました。慌てて頭を下げてから恐る恐る覗いてみましたが、その人が気づいた様子はありませんでした。そのくらい遠いところにいましたし、その人もそれほど集中していたのでしょう。
それでわたしはすっかり安心して、隠れることもせずその人を見つめ続けました。
どれほどそうしていたのでしょう、いつしかわたしはすっかりその姿に夢中になってしまっていました。お母さんが帰ってきたのに、声をかけられるまで気づかなかったほどです。改めて空を見てみると、お日様はもう完全に沈もうとしていて、空はすっかり紺色になっていました。
もうおわかりでしょう。その、ボクシングのあれをやっていた人こそ――今わたしが恋をしている相手なのです。
それから、わたしの日課は少しだけ変わりました。
学校が終わったら、友達と楽しくお話をしながら下校して、自分で鍵を開けてお家に入ります。そしてきちんと手洗いうがいをし、ベランダのお花に水をやって、夕日に照らされる川とその人をぼんやりと眺めるのです。
その人が現れるのは、決まって平日の夕方です。土日や祝日に川を見てみたり、朝に家を出る前によく見てみたりしましたが、姿を見つけることはできませんでした。もしかしたら昼頃にもいるのかもしれませんが、その時間はわたしが学校にいます。
それと、雨の日もその人は現れません。てっきり雨の日も風の日も、毎日欠かさず続けるものなのかと思っていましたが、どうやら違うようです。きっとそういう日は、室内で練習をしているのでしょう。学校の体育でも、雨が降っていたら体育館に行くものです。
一度だけ、その人をもっと近くで見たくて、いつもその人が来る場所で待ってみたことがありました。
いつもの帰り道、友達と別れてすぐにお家へ入らず川の方へ向かいます。そしてその場でランドセルと腰を下ろし、じっとその人が来るのを待ちました。ゆったりとした川の流れをぼんやりと見ていると、だんだんと景色が赤く染まっていきます。
いよいよあの人が来る……そう思ってわたしは、胸をどきどきと高鳴らせていました。周りで虫がぶんぶん飛んでいるのも、風で体が冷えていくのも気になりません。
ですが、その人は現れませんでした。
傾いた日が景色の向こうへ隠れてしまい、辺りがすっかり暗くなってしまっても、あの人は姿を見せなかったのです。
結局、わたしは心配して探しに来たお母さんに連れ戻され、とっても強く怒られました。それだけでなく、見事に風邪をひいてしまい、次の日は学校をお休みすることになってしまったのです。
もう一度挑戦しようとも思いましたが、やめておきました。風邪をひいたのが辛かったし、友達に会えなくて寂しかったし、何よりもうお母さんにあんな顔をさせたくなかったからです。それほどわたしは悪いことをしてしまったのだと、とっても深く反省しました。
でも、お休みした日のお昼頃にこっそりベランダに出たことは内緒です。わたしは転んでもタダでは起きない子なのです。
その時間にもあの人はいない、ということが確認できたのは思わぬ収穫でした。
そんな風に、常に頭の片隅であの人のことを想いながら過ごしていたある日のことです。学校はお休みで、わたしは一人で出かけて街中をぶらぶら歩いていました。
本当はこの日、わたしはお母さんと一緒にお出かけをする予定でした。ですが、急なお仕事が入ったということで、朝に慌てて出かけていってしまったのです。
お母さんはものすごく申し訳なさそうに謝ってきました。でも、悪いのはお母さんではありません。わたしはまだお仕事というものをよくわかっていませんが、仕方のないことだということくらいはわかります。
わたしは大丈夫だから、行ってきて。わたしがそう言うと、お母さんは埋め合わせとしてお小遣いをくれました。本当はこんなものより一緒にお出かけの方がよかったのですが、それを言ってしまうとお母さんを困らせてしまうでしょう。わたしは、素直にそれを受け取りました。
――それに正直に言うと、都合が良くもありました。
実はもうすぐお母さんのお誕生日で、わたしは何かプレゼントをしたいと思っています。
想いを伝えるには、言葉や形にしなければいけません。いつも頑張って働きながら、わたしに優しくしてくれるお母さんに、少しでもわたしの気持ちを伝えたいのです。
ですが普段渡されているお小遣いは多くなく、あまり大したものを用意できそうにありません。さてどうしようかと思っているところにやってきた臨時収入は、まさに渡りに船でした。
そうしてお出かけすると、少し見渡すだけでおいしそうなアイス屋さんや、可愛い服のお店がたくさん並んでいて、見ているだけでうっとりしてしまいます。少しでも気を抜くと、足が勝手にそちらへ向かってしまいそうです。
ですが今日の目的は、お母さんへのプレゼントを探すことです。決してわたし自身の欲望を満たすためではありません。
わたしは心を鉄のように強く固め、絶え間ない誘惑に必死で抵抗しながらプレゼントを探していました。
そんな時ふと、あるポスターが目に入りました。可愛い服や化粧品のものとは違い、普段なら見てもすぐに興味を失い、数秒後には存在すら忘れてしまうようなものです。ですが今のわたしは、まるで光に吸い寄せられる虫のように目が釘付けになってしまいました。
そのポスターには、ボクサーの写真が大きく載っていたのです。
それを見たわたしが真っ先に思い出したのはもちろん、いつも川で練習を積み重ねているあの人のこと。わたしは思わず近づき、よく見てみます。
カメラに向かって何人かの男の人がポーズをとっています。表情もキリッとしていてかっこいいのですが、見覚えのある顔はありません。ちょっとがっかりしましたが、そもそもわたしはあの人の顔を知らないのですから当然です。
改めて見ると、それはボクシングの試合を宣伝するものでした。開催される日はもうすぐで、場所は後楽園ホール、とあります。行ったことはありませんが、確か東京ドームの近く……だったと思います。
そして、わたしは合点がいきました。
きっと、あの人はこの試合に出場するのです。そのためにあの川でたった一人、孤独に練習を積み重ねていたのです。きっとそうです、そうに違いありません。
わたしは心の中であの人にエールを送りました。ですがその瞬間、ハッとしたのです。
想いを伝えるには、言葉や形にしなければなりません。心の中でエールを送ったところで、何の意味もないのです。
あまりにも単純で、だからこそ頑として立ちはだかる事実に、わたしは愕然としました。いくらわたしがあの人を応援しても、想っても、それがあの人に伝わることは絶対にないのです。
ですが、そこで打ちひしがれるだけのわたしではありません。わたしは転んでもタダでは起きない子なのです。
伝わらないのなら、伝えればいい。
単純な障害には、単純な解決策です。思いついてしまえば、どうして始めからそうしなかったのだろう、と疑問さえ持ってしまうほどの。
そこからの行動は、我ながら迅速かつ的確でした。
お日様が傾き、赤い光が世界を照らします。わたしがてくてくと歩くと、背を伸ばした影が同じように動いてわたしについてきます。どこかからカァとカラスの声が響き、美味しそうな晩御飯の匂いが漂ってきます。
わたしはまるで戦場へ赴く戦士のような気持ちで、見慣れた道を歩いていました。手に持った包みからは、かさかさという音と仄かな甘い香りが漂います。わたしが戦士だとするなら、この包みはわたしの命運を左右する武器といったところでしょう。
あの天啓を得たあと、わたしはどうやって想いを形にするかを考えました。
想いを形にして渡す。すなわち、プレゼントをするということです。ですが、お母さんへのプレゼントも疎かにはできません。恋の相手と家族、両方に気持ちを伝えなければならないのが女の子の辛いところです。
予算的に考えて、それぞれに違ったプレゼントを用意するのは無理があります。安い品物も探せばありましたが、どれもプレゼントとしては今ひとつでした。
そもそもわたしは、あの人が好きなものを知りません。何を渡せば喜んでくれるかわからないのです。
安くて、気持ちが伝わって、二人が喜んでくれるもの――これは難問です。
ですが、あの時のわたしはいつもと違いました。この難問に対する、たったひとつ……ではないかもしれませんが、冴えたやり方をすぐに思いついたのです。
その答えが、今わたしが手に持っている包み。
中に入っているのは、手作りのクッキーです。
作る道具は家にあるし、作り方も家庭科でやったことがあるので覚えています。材料さえ買えば、簡単に、それもたくさん作れるのです。
そして『手作り』という付加価値があれば、どんな人だって喜んでくれること間違いなしです。そうでなくとも、これを露骨に嫌がる人などそうそういないでしょう。
多分に打算的なところがあるのは否めませんが、全ては相手に喜んでもらうため。目的のためならば、いかなる手段も惜しまないのが女の子というものなのです。
そうして作ったクッキーを大事に胸に抱え、ついにわたしは到着しました。いつもお家のベランダから見ている、夕暮れの川辺です。
そこにはいつも通り、あの人がいました。いつも通りの時間、いつも通りに手を振り回しています。
違うのは、それを見つめているわたしの場所。
いつも遠くから見つめていた人が、こんなに近くに、大きく見えます。少し駆け寄って手を伸ばせば、触れることさえ簡単にできるでしょう。
そう思うと、わたしの胸はどきどきと高鳴り、顔がかぁっと熱くなります。
顔も知らない、話したこともない人に、どうしてこんな気持ちになるのでしょう。自分でもわかりませんが、きっとそれが恋というものなのです。
こちらに背を向けたあの人は、練習に熱心なのかまだわたしに気づいていないようです。
わたしはこれ幸いとばかりに大きく深呼吸を繰り返し、自分の気持ちを落ち着けて――意を決して足を進めました。
「あ……あのっ!」
「うわっ!」
軽く声をかけるつもりが、緊張のあまり必要以上に大きな声を出してしまいました。突然の声に、相手も驚いてしまっています。
途端に猛烈な恥ずかしさがわたしを襲い、顔が火を吹きそうなくらい熱くなって、すぐにこの場から消えてなくなりたくなってしまいます。
ですが、すぐに別の要因で顔が熱くなり、わたしは足の裏から根が生えたようにその場から動けなくなってしまいました。
――ついに、あの人の顔が見えたのです。
ずっと、どんな顔か想像していました。テレビに出てくる俳優さんみたいにかっこいいのか、はたまた目も当てられないような不細工なのか。それとも何度見ても印象に残らないようなごくありふれた顔なのか。
ついに相まみえたその顔で、まず印象に残ったのは、髭でした。
顔の下半分を、たくさんの髭が覆っています。それはおしゃれでわざとそうしているのではない、ただ伸びるままにしておいたというような、いわゆる無精髭です。少しこけた頬にびっしりと生えたそれは、見た人に貧相な印象を与えるでしょう。
そして、少し厚ぼったい瞼に、胡乱な感じのする眼差し。そこに夕日の赤い光が当たり、なんだか妖しく光っているように見えます。
冷静に見れば、いかにも不審者といった格好でしょう。ですがわたしの中には、ついに顔を見ることができたという喜びが何者にも勝っていたのです。
「え……ええっと……?」
控えめに声をかけられて、うっとりとどこかへ飛んでいっていた意識が戻ってきます。いけない、と軽く頭を振り、もう一度キッとその人に目を向けました。
「あ、あの……えっとですね……はぅぅ……」
駄目です。ちゃんとお話をしようと気持ちを切り替えても、顔を見ると心がふにゃふにゃになってしまいます。見つめ合うと、素直におしゃべりできない……そんな歌の一節が頭をよぎります。まさに今のわたしです。
ですが、ただうっとりしているだけではいけません。わたしは厳とした目的を持ってこの場に臨んでいるのです。
わたしは小さく咳払いをして改めて気持ちを切り替えると、もう一度その人にキッと向き直りました。
「あの……わたし、あなたのことをずっと見ていました」
「……え?」
その人はきょとんとした顔をして、首を傾げました。少し眠そうに見える目が、ハテナのマークをわたしに飛ばしてきます。その目に見つめられてまたふにゃふにゃになりそうになりながら、なんとか踏みとどまってわたしは言葉を続けました。
「夕方になると、いつもここに来てますよね……わたし、それをずっと見てたんです」
「あ……あぁ……」
「いつもすごく頑張ってて、すごいなって思ってて……その……わたし、ずっと応援してて……えっと、だから……!」
やっぱり駄目です、言いたいことは胸の中を嵐のように駆け巡っているのに、どうしても上手く言葉になってくれません。始めの決意はどこへやら。わたしは言葉が尻すぼみになっていくにつれ、自分が情けなくなって俯いてしまいます。
ですが、こんなことでわたしはめげません。
わたしは決めたのです、この人にわたしの気持ちを伝えるんだと。
「――あのっ!!」
「ふぉっ!? な、何……?」
ばっと顔を上げ、自分を鼓舞するように声を上げます。その人は驚いて後ずさっていましたが、構っている余裕はありません。
「今度、東京ドームに行くんですよね!? ポスターで見ました! わたし、応援してます! これ、わたしの気持ちです、受け取って下さいっ!」
そう一息に叫んで、胸に抱えていた包みをお辞儀のように頭を下げながら差し出します。もうヤケクソです、なるようになれって感じです。清水の舞台から飛び降りるというのはこういう気持ちか、と実感します。
――少しの間がありました。それがどれほどかはわかりません。たった一瞬のような気も、逆に何十分も経ったような気もします。
「名前……」
「え?」
予想外の言葉に、わたしはつい顔を上げました。
「名前を、聞いてもいいかな……?」
それを聞いた瞬間、わたしの心に大きな花が咲きました。その人が、わたしのことを気にしてくれた。知ろうとしてくれた。そのことが、とてつもなく嬉しかったのです。
「は、ハルです! 野中ハルっていいます!」
「野中ハル……そっか、ハルちゃんか」
確かめるように繰り返すと、その人はわたしと目を合わせました。その瞳にわたしの顔が映っているのが見えます。
駄目です、これはもう駄目です。
胸はきゅんきゅん高鳴って、頭はぼーっと火照って、もう今にも倒れてしまいそうです。
それを知ってか知らずか、その人は更なる追い打ちを仕掛けてきました。
――にこ、と。笑いかけてきたのです。
「ありがとう、ハルちゃん。嬉しいよ」
そう言って、その人はわたしが差し出した包みを受け取りました。
そこからのことは、もうよく覚えていません。朧気に記憶しているのは、その場から全力疾走で家に駆け戻ったことと、お部屋のベッドでばたばたと悶えていたことくらいです。
あれから一ヶ月ほど経ちました。今日もわたしは、夕暮れ時の川辺を訪れては深くため息をつきます。
その場所に、もうあの人はいません。見えるのは、夕日を受けてきらきらと輝く川の水面だけ。きれいな景色ではありますが、あの人のいないこの景色はわたしにとって何の価値もありません。
あの日、わたしが一世一代の決意でプレゼントを渡して以来、あの人はここに現れなくなってしまいました。
その理由は全くわかりません。あの時わたしが失礼なことをしてしまったのか、もしくは練習場所をもっと誰にも見られることのない他の場所に変えたのか。憶測だけならいくらでも思いつきますが、今のわたしにそれを確かめる術はありませんでした。
わたしは少しずつ沈んでいく夕日をぼんやりと見つめながら、何をするでもなくベンチに座ります。この一ヶ月ほど、わたしはずっとこんな調子でした。学校が終わったらすぐにこの場所へ来て、日が沈むまでここにいます。
始めの頃はお母さんも怒ったり、心配そうにどうしたのかと聞いてきたりしましたが、わたしは決して話しはしませんでした。なんとなく、わたしだけの大切な思い出にしておきたかったのです。
そう、思い出――そう考えている時点で、既にあの人はわたしの手の届かないところへ行ってしまったのだと理解していたのでしょう。それでも、わたしの心はあの人に囚われたままでした。
ですが、それも今日で終わりです。
わたしが気持ちを伝えると心に決めたきっかけになったポスター、あれに書かれていた日付がまさに今日なのです。
本当は実際に見に行こうかと思いましたが、そのためのお金はわたしのお小遣いでは到底足りませんでした。
例えお母さんに前借りをお願いしても、当然理由を聞かれるでしょう。ですがお母さんは暴力的なことが大の嫌いで、ボクシングを見に行きたいなんて言ったら真っ青になって反対されるに違いありません。
だからわたしは、今日この時間、この場所に来ることを最後に、あの人への気持ちをきっぱりと断ち切ってしまうことに決めたのです。
人生を豊かにする秘訣は、すぐに気持ちを切り替えること。確か、何かの本か雑誌かに載っていた言葉です。見る見るうちに赤から紺色へと変わる空も、そう語りかけてきているようでした。
それを見て、わたしはもう帰ろうとベンチから立ち上がります。
その時でした。
「ハルちゃん?」
突如として後ろから声をかけられ、体がびくりと竦みます。聞き慣れない声でしたが、間違いありません。間違えようもありません。
それは、わたしが恋焦がれ、もう一度聞きたいと夢にまで見たあの声でした。
信じられない気持ちで、わたしはゆっくりと首を回します。
そして、その視線の先には――
「…………え?」
思わず、間の抜けた声を出してしまいました。
そこに立っていたのは、あの日パーカーのフードをすっぽりと被っていた無精髭の人ではなく、ぱりっとしたスーツに身を包み、ほどよく髪も整えた、さっぱりとした男の人だったのです。
わたしは慌てて記憶の中を探ってみますが、やはり間違いなくこんな人に会ったことはありません。ですが、先ほどの声があの人のものであることも、確信を持って言えます。
「やっぱりそうだ、ハルちゃんだよね。僕のこと、覚えてるかな?」
再び男の人が口を開きます。その声は確かにあの人のものでした。
あの人でない人の口から、あの人の声が出ている。その状況に、わたしの思考は混乱を極めます。
より正確に言えば、わたしはこの男の人があの人だと理解はしていました。ですが試合は今日です、あの人がここにいるはずはありません。それになぜ、いかにもサラリーマン風の格好をしているのでしょうか。
そうした疑問がぐるぐると頭を駆け巡り、わたしは返事ひとつもすることができずにいました。
「えーと……もしもーし……」
「……あ、え、その……すみません……」
三度(みたび)声をかけられて、やっとわたしは我に返ります。
「た、確かにハルはわたしですが……その、お、お兄さんは……」
知らない人に声をかけられたら、容赦も躊躇もなくピンを引き抜け。そう厳しく教えられていたわたしは、無意識に防犯ブザーに手をかけます。それを見て、男の人は慌てて両手の平を振りました。
「ま、待って! 僕のこと覚えてない? ほら、この間クッキーをくれたじゃないか」
美味しかったよ、と言って、男の人はにへらと笑います。どうやら、確かにあの人に間違いないようです。
それがわかり、わたしは防犯ブザーから手を離しました。男の人はほっと安心した顔になりましたが、わたしには聞きたいことがあります。
「ここで……何をしてるんですか……?」
「え、何をって……帰り道の途中だよ。それで偶然ハルちゃんを見かけたから……」
「違いますっ! 今日は東京ドームへ行くんじゃないんですか? 大事な用事をほったらかして、こんなところで何をしてるんですかっ!」
つい大きな声を出してしまい、男の人は驚いて後ずさります。なんだかあの日と同じだな、と少しおかしくなりますが、それよりも、怒りに似た感情がずっと勝っていました。
わたしは、この人が大事な試合に勝てますようにと願っていたのに、それを応援しようとあの日クッキーを渡したのに……まるで裏切られたような気分です。
「東京ドーム……? いや、行ったよ。あの次の日に……」
「……え?」
予想外の言葉に、わたしはぽかんとして男の人を見つめます。
「あの日、君にああして励まされて、このまま腐ってるだけじゃダメだって思ってね。それで、あの次の日に東京ドームでやってた企業説明会に行ってきたんだよ」
「え、せ……せつめいかい……え?」
全くわけがわかりません、わたしの頭の中を疑問符が猛スピードで駆け巡ります。
そんなわたしの様子を見て「とりあえず、座ろうか」と男の人が促してくれます。それに逆らうことなく、わたしと男の人は並んでベンチに座りました。
「実は僕、言いにくいんだけど……ニートだったんだ」
「はぁ……」
確か、学校に行ってるわけでも、働いてるわけでもない人のことでしたか。なんだか勿体つけて言っていましたが、わたしはさっきから驚きの連続で、大した反応もできません。
「やることもないしずっと家の中に篭ってたんだけど、やっぱり両親の目が痛くてね……それで親が帰ってくる夕方頃は家から出て、ここで時間を潰してたんだ。まあしばらくするとお腹が減っちゃって、すごすご帰ってたんだけど」
情けないよね、と言いながら恥ずかしそうに笑います。
「説明会が開催されるっていうのは前から知ってたんだけど、中々踏ん切りがつかなくてね……そんな風にうだうだしてた時、君がここに来たんだ」
そう言うと、男の人はこちらを向きました。優しげな顔が夕日に照らされて、不覚にもどきりとしてしまいます。
「応援してるって言って、あのクッキーをくれて……すごく嬉しかった。それで、このままじゃいけないって思ってね。一念発起して、次の日に東京ドームへ行ってきたんだ」
「はぁ……」
「それで適当に目についた企業のところに行って話をしてみたら、あれよあれよと就職が決まってさ! これはきっと君が縁を繋いでくれたんだと思って、ずっとお礼を言おうと思ってたんだよ!」
「そうですか……」
やにわに興奮する男の人に対して、わたしは心ここにあらずでした。
まるで炭酸の抜けたサイダーのような返事をしながら、わたしはまだ信じられない気持ちでいます。わたしが想っていたあの人と目の前の男の人、それぞれから受ける印象があまりにも違うのです。
そんな風にわたしが訝しんでいる時でした。
「うわっ、虫が……!」
一匹の虫がどこからか飛んできたのです。虫が苦手なのか、男の人はたまらず立ち上がって追い払おうと手をぶんぶんと振り回しました。
その姿を見て、わたしは納得しました。否応なしに、させられたのです。
それはまさしく、わたしがベランダから見ていたあの人の練習している姿そのものだったのですから。
「あれは……虫を追い払ってただけ……?」
もう、なんだか……涙が出てきそうです。ここまで何もかもを見せつけられては、認めるしかありません。
わたしが想っていたのは、この世界のどこにも存在しない――わたしが勝手に作り出した妄想だったのです。
「ハルちゃん? どうしたんだい、具合でも悪いのかい?」
がっくりとうなだれたわたしに、男の人が声をかけてきます。
「いえ……なんでもありません、大丈夫です」
言いながら顔を上げると、髭を剃って髪を整えた、割とどこにでもいそうな普通の顔を夕日が照らしていました。改めて見ると、どこか優しげな印象が見受けられます。
これはこれで――悪くありません。
たった今しぼんでしまった気持ちが、また少しずつ膨らんでいくのを感じます。
「あの……さっきお礼をしたいって言ってましたよね。じゃあ一つ、お願いを聞いてもらえませんか?」
「あ、あぁ。なんだい? 僕にできることなら何でもするよ」
人生を豊かにする秘訣は、すぐに気持ちを切り替えること。
「お名前……教えてもらえませんか?」
わたしの名前は野中ハル。転んでもタダでは起きない女の子なのです。