これをこの小説の合言葉にしよう。
目を覚ますと見知らぬ天井が見えた。
「……生きてる?」
ここどこ、とか、なんでここに、とかよりもまず先に、自分が生きているという事実に驚いた。
どれだけの時間かは分からないが眠っていたお陰だろうか、体の感覚は戻ってきている、動かそうとすれば動く。
とは言え、倦怠感は強い。さらに言えば空腹感は酷い。正直、今すぐにでも飢えて死んでしまいそうなほどだった。
上半身を起こせば、体にかけられていた布団が滑り落ちる。視線を移せば、村を出た時に着ていたボロボロになった服から、比較的新しい小奇麗な物に変わっていた。
誰かが倒れていた自分を連れて帰り、服まで着換えさせてここに寝かせてくれた、と考えるのが普通なのだろうが。
――――誰が? 何のために?
暮らしぶりを見れば分かる通り、日々の暮らしすら精一杯な人間が道端に転がった子供を助けてくれる可能性など皆無に等しい。
いや、拾って連れて帰るくらいならお人よしがしてくれるかもしれないが、新しい服を与えてベッドに寝かせてくれるなどどんなお人よしだ、それは。
だいたいこんな白いシーツのベッドなど村でも見たことも無いし、掛布団なんて贅沢品、街の人間だって持っているほうが少ないだろう。
とすれば、余程の金持ちだろうか、だが何故そんなやつらが道端で野垂れ死にかけている小汚い子供など拾うのだろうか。
そんな思考にエネルギーを回した結果、ぐう、と腹の音が響く。
「……お腹空いた」
「ほほ、ならば夕飯にするかね?」
ぽつりと呟いた独り言に、言葉が返ってきた。
視線を向けると、ローブ姿の老人が部屋の入口に立っていた。
「誰?」
「なに、ただの隠居爺さ」
失礼な言い方だったかもしれない、と直後に気づくが、老人は特に気を悪くしたような様子も無く、自身の寝るベッドの傍までやってくる。
こちらの顔色を窺うように顔を近づけると、老人と言ったその顔が思ったよりも若々しいことに気づく。
皺も少なく、肌も張りがある。とは言え、髭剃りなんて便利なものが無いため伸び放題になった顎髭が胸元の辺りまで伸びており、色素が抜けてすっかり白くなった髪と髭が老人が老人であることを証明していた。
老人が伸ばした手が自身の頬に触れる。
ぺたぺた、とまるで触診のように老人の手が顔を撫でまわすので、くすぐったくなって思わず顔を逸らす。
「おお、すまん、すまん。少し顔色が良くなったな。どれ、食事も用意してあるから、おいで」
「…………」
人が良すぎて余りにも怪しかった、怪しかったのだが、村を追い出されてからの急展開と、何よりも今も自分の腹で盛大に合唱している空腹感に負けてベッドから起き上がり、老人の後をついていこうとして。
ふらり、と体が揺れる。
「っと、大丈夫か?」
咄嗟に老人が差し出した手に抱えられ、抱き留められる。
大丈夫、と返しはしたが、空腹と疲労でふらふらの体は、真っすぐに立つことすら難しかった。
そんな自身を見かねてか、老人が自身の背に手を回し。
「ほれ、このまま行こうか」
そのまま抱き上げる。七歳の子供の小さな体とは言え、この老人の細腕のどこにそれだけの力があるのかと思うほど軽々しく自身の体を抱え上げた老人に目を丸くする。
そうして老人に連れられてきた広間のような場所で、中央にどんと置かれたテーブルの上に並ぶ料理の数々に目を釘付けにされる。
記憶の中の世界にあるような遥かに進んだ文明の料理と比べれば確かに劣るが、それでも村の中では見たことも無いような豪勢な料理の数々に、漂ってくる匂いに、再び腹の音が鳴り響いた。
「はは、随分と空腹のようだし、早速食事にしよう」
大きな机に反比例するかのように、二つだけぽつんと置かれた椅子の片方に自身を座らせると、そのまま反対側へと行き、老人もまた残った椅子に座る。
目の前に並ぶ食事に手が伸びそうになるが、自制する。
本当に良いのか? そんな疑問が頭の中に浮かぶ。
状況の唐突さや、展開の都合の良さが相まって、優し気な笑みを浮かべる老人も、机の上に置かれた数々の料理も、全てが怪しく見えてくる。
そんな自身の躊躇を知ってか知らずか、老人が食前の祈りを済ませ、皿の一つに手を伸ばす。
大皿から小皿へと料理を取り分け、こちらに気づく。
「どうしたんだい? ほら、おあがりなさい」
老人の言葉と同時に、ぐう、と腹がまた鳴り、空腹の余りに眩暈がする。
怪しくとも食べなければ死ぬだけか、とすぐに悟り、皿へと手を伸ばす。
まるでビュッフェか何かのように大皿に盛られた料理を取り分けながら食べる形式らしい。
老人の食べ方を真似るように小皿にちまちまと料理を取り分けながら食べる自身を見て、老人が苦笑する。
「私を真似る必要はないから、食べたいようにに食べなさい。それが一番美味しい食べ方だからね」
そんな老人の言葉に、一瞬手が止まるが、老人を見て良いのだろうか、と視線を送ればこくり、と頷き返される。
「子供が遠慮する必要はないよ」
そんな老人の言葉に、遠慮を捨てて大皿へと直接フォークを突き刺しては口へと運ぶ。
食べても食べても足りないと言わんばかりに、体がもっともっとと栄養を要求するかのように手を動かさせる。ほとんど無意識で動く手と口に、思考は呆然としていた。
――――なんだこれ、すごくおいしい。
普段村で食べていたようなものは、だいたいが森で取れた木の実や狩った動物が中心だ。
そこに買い置きの黒パンや井戸から組んできた水など。
だがそれでもまだマシな部類なのだ。何せ、毎日森で採れたばかりの新鮮な果物や血抜きして日の経っていない肉を食べれていたのだから。
これが街のほうになると、一度市場を経由するため、果物はドライフルーツに、肉も燻製干しにされ、カチカチで旨さが半減する。
正直、料理なんて呼べるほどの物ではない、実質的には保存食のようなものばかりだ。
だがそれだって仕方の無い部分はある。この世界には冷蔵庫やクーラーボックスなんて便利な物はない。
つまり、生ものを長期保存するには乾燥させるのが一番で、二番目が砂糖や塩に漬けることだが、砂糖も塩も基本的に内陸地であるこの国では高級品だ。
正直、味が濃いだけで贅沢と呼べるような食事事情の中で、味が付いていてそれでいてかつしっかりと調理された食事など、七年のやや短いとも言える人生の中では初めての出来事だった。
無我夢中、なんて言葉、きっとこういうことを言うんだろうなあ、なんて頭の片隅でそんなことを考えながら。
気づけば、卓上の皿全てが空っぽになっていた。
「……え」
「ほほ、よく食べたな、見ていて気持ち良い」
老人がそんな自身を見て笑うが、こちらはそれどころではない。
村での生活はその日その日を節約しながら生きていた。だってそうしなければ明日食べる物まで無くなってしまう。
だから自分は、これまでお腹いっぱいになるまで食べたこと、というのが無かった。
むしろ、今この時代、この国で満腹になれるまで食べることのできる人間のほうが少ないだろう。
だから、自分がどれだけ食べることができるのか、なんてこと、知らなかったわけだが。
それでも、明らかにおかしいと分かる。
卓上に並べられた料理の数々は、明らかにこの七歳の子供の体に入りきるような量では無かったはずだ。
ほとんど無我夢中で食べ尽くしていたからこそ、気づかなかった。
そして何より。
――――まだ満腹を感じていない。
まだまだ食べることができる、という事実に、初めて自分の体が異常だと気づいた。
否、異常は以前からあったのだ。
明らかに子供とは思えないほどの運動神経だとか、神官の回復魔法を弾いたことだとか。
それを気にしていなかった、否、気にする余裕も無かった。
今こうして、状況が落ち着いて、初めてそれを気にする余裕ができた。
だからこそ、疑問に思う。
――――自分は一体何なのだだろうか。
* * *
――――ふむ、食べたか。
目の前で卓上に上げられた皿の全てを空にした少年を見て、老人は笑みを浮かべるその胸中でぼそりと呟いた。
食べる量にも驚いたが、それよりもあの料理全てを食べて平然としている少年に、驚愕の念を隠せない。
魔法薬と呼ばれる類の物がある。
例えば飲むだけで体組織が劇的に再生する、例えば塗るだけで皮膚を硬質化させる、例えば振りかけるだけでその姿を変化させる。
など、通常ではあり得ないような効果を生み出すものばかりであり、その劇的な効果の反面、副作用も大きい。
今少年が食べた料理の数々には、それら魔法薬の中からとりわけ害の少ないものをいくつか選んで混入させていたのだが。
少年は全て平らげ、それでいて一切、何の効果も現れていなかった。
あり得ない、と断じて良い現象だった。
いや、そもそもその前からしておかしかったのだ。
老人とて、ただの興味で折角の食事にそんな危険物を入れたわけではない。
全ては少年を拾った時に起こった出来事が始まりだった。
付与魔術というのは基本的には無生物に対して使用する魔術だ。
それはかける魔術に対して無生物は一切の抵抗をしないためであり、逆に言えば、抵抗しないならば生物にでも付与することができる。
とは言え、体に他人の魔力が宿るというのは想像以上の違和感があるようで、普通にやってもまず通用しない。
だが意識が無いのならば別だ。
最初に少年を見つけた時、すでに意識不明でかなり衰弱していた。
特に空腹が酷かったのか、頬もやつれており、今にも死にそうな様相を呈していた。
だからこそ、生命維持のための魔術をいくつか少年へと付与しようとして。
――――その全てを弾かれた。
意味が分からなかった。
確かに個人によって多少効き目が強い弱いというのはあるが、一切通用しないというのは聞いたことも無い。
しかも攻撃魔法と違い、使ったのは付与魔術、どちらかと言えば回復効果に分類されるものだ。
老人の知識に無い不可思議な現象に、老人がまず最初に思ったのは、何故という疑問より先に焦燥だった。
魔術が効かない、ということは少年の生命が刻一刻と消えようとしていることであり。
即座に少年を連れて帰ることを決めた。
弱っている少年の体を抱え上げ、馬車へと乗せる。
幸い馬車の中には老人が持ってきた保存食があったが、意識を失っている状態で物を食べさせるわけにもいかないため、なんとか少年を起こそうと体を揺するが一向に目覚める気配もない。
間に合うかどうか、分からないがけれどとにかく急ぐしかない。
そう結論付け、馬車を走らせる。
普段は使わないほどの全力で魔力を振り絞り、半日はかかるだろう道中をその半分以下の時間で走破し、家に戻ると同時に少年を寝室に寝かせる。
後は助かるかどうか、という懸念だけだったが、寝室のベッドの上で寝息を立てる少年の顔色が先ほどよりも良くなっていることに気づく。
単純な空腹だけではない、きっと疲労や心労などもあったのだろう。それらが少しずつ解消されて、快気に向かっているのが分かった。
とは言え、このまま何も食べなければ餓死ということもあり得るだろう。
何か無いか、と家の中を漁り、地下に保存してあった果実を見つける。
見つけた果実に擦りおろし、適当に水で薄めてほぼ液状と化したそれを少年の口に少しだけ含ませる。
意識の無い少年に余り大量に食べさせると喉を詰まらせるだろうから、最初は舌を湿らせる程度に。
唾と共に嚥下されたそれらを見て、匙の半分ほどを。そうして少しずつ少しずつ飲み込ませていく。
意識は無いが、それでも生命として本能が食物を必要としているのか、無意識化でも与えられた物を食べようと少年の口が動いていた。
そうして多少の食物が体に入ると、僅かな時間で少年の体は回復していく。
すっかり顔色も良くなって、呼吸も安定した。
とは言え、まだまだ足りないのか、時折鳴る腹の音は止まらないし、全体的に細いのは否めないが。
そうして状況が落ち着くと、やはり気になるのは少年を拾った時のこと。
もう一度付与魔術を少年へとかける。だがすぐに弾かれる。
一体どういうことだろうか。
分からない、分からないが、実に不可思議。
そして同時に興味深くもある。
一体どうなっているのか、知りたくもある、が。
「まあ、それは後でも良いだろう」
今は少年が目覚めた時のために、何か食べる物でも作っていよう。
と、その時ふと思いついたのが。
魔法薬を摂取したらどうなるのだろうか、という実験。
少年の体は魔法を弾く、それはすでにここまでで証明されている。
それは体外からの魔法を弾くのか、だったら内側から効果の出る魔法薬ならどうなのか。
そんなことを考える。
とは言え、魔法薬は効果に比例するように副作用も大きい。
そんな簡単に使えるようなものではない。
だが効果の薄いものだってある。
自らの思考に対して、まるで悪魔の囁きのように反証が飛んでくる。
ほとんど害のないようなものだってあるはずだ。
それは確かに。
だったら、どうなるのか…………どうせ食べても害があるわけじゃないんだ。
あの魔法を弾く現象には興味はある、多大に。
本人に言わないのは悪いかもしれないが、別にそれで死ぬわけでも体調を悪くするわけでも無い。
だったら、まあいいか。
老人の思考が脳内の悪魔に屈した瞬間だった。