屋敷の住人が一人増えて、半年が経った。
つまり俺がこの屋敷に来てちょうど一年くらいになる。
基本的に俺はこの屋敷で爺ちゃんの実験に付き合う以外やらなければならないこと、というものは無い。
その実験だって朝食や夕食の時にいくつか魔法薬を飲んだり、定期的に健康診断のようなものを受けたりするくらいで本当にこれで何か分かるのだろうかと思ったりもするのだが、爺ちゃん曰く原因らしきものが全くもって分からないので現状手探りで慎重にやっていくしかない、らしい。
アンリとは初日のこともあり、それなりに良好な関係を築けているとは思う。
それがまだ家族と呼べるようなものなのかどうかは分からないが。
生まれ育った村を追い出されて凡そ一年。
それでも俺は今日も生きている。
* * *
朝の始まりは日が出るよりも前だ。
前世では夜になっても電灯があれば遅くまで明るさを保っていられるが、電気なんて通っていないこの世界では夜の明りと言えば蝋燭がメジャーだ。
とは言えここは付与魔術師たる爺ちゃんの屋敷だ、付与魔術を利用した明りなんてのもあるが、それだって魔力を消耗するため必要以上には使わないに越したことは無い。
なのでこの屋敷は基本的には夜八時くらいには全員就寝する。遅くても九時が限度だろう。
当然ながらその分、朝は早い。
目を覚ませば午前四時。
だいたい毎日七時間から八時間は眠っているので目覚めは早い。
起きたらすぐに朝食の支度に取りかかる。
とは言っても、夕食の残りのスープやパンを温めたり、庭から新鮮な野菜を収穫してサラダにしてあとは適当に果物や飲み物を用意するだけだが、この世界の朝食としてはそれだけでも十分過ぎる。
後は最近暇に飽かして鶏の世話を始めたので屋敷で消費する分くらいの卵も供給されるようになった。
さすがに牛を飼うほどのスペースは無いというか、そんな技術が無いので断念したが、卵が安定して手に入るようになったお陰で料理にも一気に幅が広がった。
朝食のおかずにスクランブルエッグや目玉焼きなども追加できるようになったのは大きい。
まあ醤油なんてものあるはずも無いし、胡椒の類は超が付く高級品なので必然的に味付けがケチャップ風味のトマトソース一択になるのだが、それでも爺ちゃんやアンリには好評だった。
この世界、基本的に文化が未発達というか未熟なので、うろ覚えの前世での料理でも十分に凝った料理になる。
まあそれは生家の食事風景を見れば分かったことだが、爺ちゃんのようないわゆる金持ちに分類される人たちでも素材が新鮮だったりちょっと珍しい物があるだけで調理という意味ではそれほど差が無いようだった。
手間のかかるものの大半が前日の残り物だけにあっという間に支度は終わる。
時刻は五時半。爺ちゃんはそろそろ起きてくる頃合いである。
すぐに地下倉庫に入って珈琲豆を取ってくる。
半年前に飲んで以来、すっかり珈琲好きとなった爺ちゃんは必要なら金に糸目をつけず珈琲を愛飲するようになった。
現在地下室の一部を改造して作られた珈琲豆の保管専用の地下倉庫には凡そ一か月分ほどの大量の珈琲豆が保管されている。
交易品によって南から流れてくる珈琲豆はログレス王国では貴重品であり、しかも交易頼みのため入荷は不定期だ。
爺ちゃんなど以前半年分くらいまとめて買おうとしていたのだが、珈琲豆というのは完全密封しても一か月前後で風味が切れるので諦めさせたのだが、今度は地下倉庫を作り魔法によって状態を固定するという超荒業で一か月分の珈琲をいつでも楽しめるようにした。
正直もう珈琲好きというか、カフェイン中毒だろってレベルの愛好ぶりだが、意外にも一日の摂取量はそう多くない。
というか朝の一杯以外は研究中に一日かけてちびちびと一杯か二杯飲むくらいであり、じゃあなんでこんな大量に買い込んだんだよと思わず呆れる。
まあ俺としても珈琲の香は嫌いではないので時々飲ませてもらっているのだが、残念ながらまだ五歳のアンリには珈琲の良さは分からないらしい、たっぷりとミルクと砂糖を入れなければ飲めないし、それでもまだ苦いと舌を伸ばしていた。
というか軽く猫舌気味らしいアンリはそもそも熱い飲み物というのが苦手なようだった。
基本珈琲は冷めると不味いので大人になっても飲まないかもな、と言ったら爺ちゃんが少し落ち込んでいた。
六時直前になると階段を降りてくる足音が聞こえる。
沸かした湯を注いで、手早く珈琲を作る。
珈琲の入ったカップを食堂に持って行くのと爺ちゃんが食堂に入ってくるのがほぼ同時だった。
「おはよう……毎朝早いな」
「おはよう、爺ちゃん。その分早く寝てるしね」
家での娯楽なんて本を読むくらいのものだが、日が落ちればそれも難しい。
必然的に就寝は早くなる。研究者でもある爺ちゃんは寝る前に本を読んだり、書き物をしたりもう少し遅く起きているようだが。
「ふう……朝はこの一杯に限る」
机の上に置いた珈琲に口をつけて、爺ちゃんが何か気取ったような台詞を吐く。
「すっかり珈琲好きだね」
「この苦味と甘さが良い……頭がすっきりする」
因みにミルク半々のお砂糖三杯だ。最早珈琲を飲んでいるというか砂糖と牛乳に珈琲が混じっているといったあり様だが、爺ちゃんはこれを気に入っているようだった。
「朝食できてるけど、少し待っててもらえる?」
「ああ。あの子はまだ?」
「うん、これから起こしてくるから」
頼むよ、と珈琲を飲みながら椅子に腰かけた爺ちゃんを後目に食堂を出て階段を昇り二階に向かう。
そうして二階の一室をこんこん、とノックし。
「アンリ?」
声をかけれど返事は無い、まあいつものことだと扉を開く。
部屋の中にはぽつんと一つベッド、その横にクローゼットがあるだけだ。基本的に寝る時以外は使っていないのでどうにも殺風景だが、そもそも前世でいうところのインテリアなんてよっぽどの金持ちや王侯貴族でも無ければ置いていない。まあ爺ちゃんはそのよっぽどの金持ちのほうに分類されるのだが、爺ちゃん自身内装にほとんど拘らない。精々食堂に花瓶を置いて花を活けているくらいか……いや、それだって余りにも殺風景だから俺がやったのだが。
ベッドの中で布団に包まって眠る少女の姿を見つけ、今日はいたか、と思う。
まだ五歳のこの少女は両親が忙しかったせいか一人でいることに慣れてしまっていた。
だがこの屋敷は基本的に人がいなくなることが無い。いつでも爺ちゃんや俺がいる。
一人で食事、一人で寝て、一人で起きる。そんな生活が長かった反動なのか、人恋しさというものを覚えたのか、屋敷に来てしばらくの間はいつでも俺や爺ちゃんの後をついて過ごしたり、夜になると部屋にやってきて布団に潜り込んだりしていた……というか多少落ち着いたとは言え、今でも時々やってくる時がある。
爺ちゃんが何も言って無かったので多分いるだろうとは思っていたが、まあ時々部屋に起こしに来てももぬけの殻な時がある。
とは言えそれを咎めるつもりも無い。
まだ五歳の小さな少女なのだ。そもそもからしてまだ親の愛情が欲しい年頃だろうし、その両親から離されて平静でいられるわけも無い。
自分は親ではないし、そもそも血の繋がった人間でも無いが……まあ同じ屋敷に住む家族として、精一杯できる限りのことはしてやりたいと思う。
それは半年の間に、自分が爺ちゃんからもらったものだから。
* * *
「起きて~アンリ。もう朝だぞ~」
ぷに、ぷに、と頬を突けば柔らかな感触が返って来る。
「ん……んぅ……」
いやいや、と寝返りをうつアンリ。
「起きろ~……起きないとまた頬突っつくぞ~」
肩を揺らす。割と揺れているはずなのだが、全く起きる気配は無い。
仕方ないのでまた頬を突くが寝返りをうって逃げる。
「これでも起きないか……」
最終手段だ、とアンリの耳元に口を寄せ。
「ふぅ~」
「うひゃぁぅ?!」
そっと息を吹きかけると同時に、アンリが素っ頓狂な悲鳴を上げて目を覚ます。
全身に感じる寒気にがばっ、と上半身を起こしぶんぶんと首を振って周囲を見渡し。
「レッくん?」
「おはよう、アンリ」
俺の姿を認めると同時にアンリが嘆息する。
「もう……普通に起こしてよ」
「普通に起こしても起きないアンリが悪いな」
言いながらクローゼットから着換えの服を取り出しアンリに渡す。
「ほら」
「ありがとう、レッくん」
寝巻を脱いでシンプルな黒地のシャツに白のスカートを履かせる。
「もう一人で着れるよ?」
「この間そう言って上着を裏返して着てなかったら信じたよ」
「うぅ~」
アンリが顔を赤らめながら寝巻を籠に詰め込むとそれを受け取る。
「爺ちゃん待ってるから行くよ」
「あ、待ってよ、レッくん」
籠を抱えて部屋を出る俺を追いかけるようにアンリが慌てて靴を履いて追いかけた。
* * *
朝食が済むと屋敷の住人はそれぞれが好きに過ごしだす。
基本的にこの屋敷の住人にやるべきことは無い。誰も働いていないからだ。
とは言え、街の人が爺ちゃんを頼ってきたりすることもあるし、何より自分でやっている研究もあり、日中は部屋に籠って本を読んだり何かを書いてたりしている。
俺は朝食の片づけや昼食の準備、夕食の仕込み、掃除や洗濯などやるべきこともそれなりにある。とは言えたかが三人……しかも老人一人に子供二人である、量だってたかが知れている。その気になれば昼までにはだいたいやることが終わる。
唯一何もやることが無いのがアンリだ。
まだ五歳の少女に家事をさせるにも気が引けるし、爺ちゃんの研究を手伝うには幼すぎる。
そんなアンリだがこの半年、毎日のように屋敷の一室で文字の勉強をしている。
両親の背を見て育ったからか、将来的には同じ付与魔術師になりたいらしい。それを知って爺ちゃんが気持ち悪いくらい顔がにやけていた。
爺ちゃんも孫娘が自分や自分の娘夫婦たちと同じ道を志してくれたことが嬉しいらしく、書庫からいくつも本を見繕ってアンリに渡していたのだが。
アンリ五歳、未だ爺ちゃんの読むレベルの専門書の文字なんて読めない。
仕方なく俺が代わりに読んでやっている……勿論家事の合間にだから長くは時間は取れないが。
村では基本的に文字の読み書きなんて教えてもらえないが、幸い、と言うべきか街の神殿に行けば日曜学校のようなものがあり、俺は行っていないが母親が昔行っていたらしく、簡単な読み書きなら教えてもらえたし、村を追い出されて爺ちゃんの屋敷に来てからは、頼まれた本を書庫から持ってくるために本のタイトルと簡単にでも内容を読む必要があったので爺ちゃんにきちんと習った。
爺ちゃんの書庫には多くの本があるが、前世にあったような本とは違い、あらすじどころかタイトルすら付けられていない本も多い。
というかこの世界……というか時代の本というのは研究者が自分の成果を纏めて記録するための物が多く、そもそも他人に読ませることを前提としていないことが多い。
そのため内容も作者本人にしか分からないような内容も多く、本を読むことがそのままイコールで内容を解読することに繋がることもそれなりにある。
そんな有様なのに、爺ちゃんの手伝いをする最中であの本この本を取ってきてくれと言われるため、流し読む程度でいいので中身を読んで中身を確認できる必要性があったからだ。
アンリの場合、両親共に忙しかったらしいし、その人見知りな性格もあって基本的に一人で遊んでいることが多かったため、結果的に誰にも文字を教わることもできずにいた。
とは言えまだ五歳なのだ、文字が読めなくても仕方ないし、そう焦ることでも無いと思うが、かといって根本的にこの屋敷、爺ちゃんが独り暮らししていただけあって娯楽というものがほぼ無い。
本が読めなければやることが無いという程度には暇になる。
そんなわけで俺が午前中に家事をやっている間にアンリは爺ちゃんが過去に俺のために文字の勉強用に写した本を読ませている。
まあ言ってみれば絵本のようなものである。
俺の場合、前世の影響もあって文字を覚えるのも早かったのだが、アンリの場合まず文字を覚え、そこからさらに単語を覚える必要がある。そこまでやって初めて初心者用の簡単な本を読むことができる。
午後になって家事を終わらせると俺もアンリの勉強に付き合うようにしている。
「『そうしてアーサーはめがみアイギスとともにまおうをたおし』」
英雄王の物語は王国の子供ならだいたい十回くらいは読んだことのある絵物語だ。
ある意味ログレス王国というのは英雄王と英雄王を導いた女神アイギスへの信仰で成り立っている国であり、小国のログレス王国が周辺大国に攻められることも無いのは、ログレス王家が英雄王アーサーの直系の子孫であるからだ。
千年に渡って続いたと言われる千年戦争は文字通り地上の全てを巻き込んだ世界を巡る戦いだったと言われる。
しかもそれがおとぎ話でなく現実の物語であるというのは現代にまで続くアイギス信仰や伝承などで分かっている。
ログレス王国初代国王にして『英雄王』アーサーペンドラゴンは文字通り、世界を救った英雄なのだ。
ログレス王国で育った子供たちは皆、英雄王の物語を読んで育つ。
世界を救った英雄が作った国、その誇りは現在にまで残る英雄王の血族、つまりログレス王家への信仰、敬意、忠誠となる。
良く出来たシステムである。とは思えど、そもそもの話、ログレス王家は別に今でも良き統治者であり、歴史ある家によくある腐敗なども無い、ログレス王国は平穏で長閑な小国であり、そんな故郷が俺は嫌いでは無かった。
「『おしまい』」
パタン、と本を閉じると俺の膝の上に座ったアンリがはーと息を吐く。
「英雄王様すごいかったね」
「そうだな」
「でもボクのお爺ちゃんもすごいよ」
「ああ、そうだな」
「ボクも早く、お爺ちゃんみたいな立派な付与魔じゅちゅ……魔術師になりたいなあ」
「噛んだ」
「噛んでないもん」
ぷくーと頬を膨らませるアンリの頬をぷにぷにと突くとぷしゅーと口から息を漏れる。
「爺ちゃんみたいになりたいなら、早く字が読めるようにならないとな」
「うん」
まあアンリも爺ちゃんと同じで学ぶことを苦にする性質ではないのでそう遠くない内に本だって読めるようになるだろうな、と思いながら。
「それじゃまあ、昨日の続きやるぞ」
「うん!」
楽しそうに俺の膝の上で騒ぐ少女の姿に、笑みが零れた。
はー……アンリちゃん、尊い。
原作ではアンリちゃん基本的に敬語口調しか使わないので、素の口調は完全に想像です。
アンリちゃんのキャラとか性格的に多分こんなんじゃないのかなという予想。