―――ほとんど無意識だったのだ。
その時、ふっと自分に覆いかぶさったその人を見て。
人通りの多い街中の大通り。
雑踏を流されながらゆったりと進む人々。
そして遠くから聞こえた悲鳴。
もう気づいた時には遅かったのだ。
雑踏をかき分け、時に跳ね飛ばしながら。
目前に暴走する馬車が迫っていて。
―――嫌だ。
死。
脳裏に過ったその一文字。
背筋が凍った。
何より。
自身を庇おうとするその人たちを見て。
―――絶対に、嫌だ。
何よりも、そう願った。
* * *
いつものコップになみなみと注がれた珈琲を片手に息を吐く。
ゆったりとした時間を過ごしながらコップの中の珈琲を飲み切ってしまうと厨房のほうへと向かう。
厨房には保存の魔術が付与された鍋がいくつか置かれている。
しばらく食事の支度は必要無いようだ。別に自分だって作れないわけではないのだが。
「律儀者よな」
屋敷を長く空けるからと一週間分くらいの食事の用意が残されていた。
普通なら腐敗を考えてしまうような状況でも付与魔術で保存を付与すれば二週間くらいなら問題は無い。
そうしてやってきた厨房で、シンクにコップを浸けて軽く濯ぐと魔術で乾燥を付与してさっさと乾かしてしまう。
棚にカップを片付けるとトタトタと階段を降りる小さな足音が聞こえてきた。
「やれやれ……寝坊助よな、あの子も」
苦笑しながらそんな孫のことが可愛くて仕方ないのだからどうしようも無い話だ。
そもそも今日に限って言えばこんなに遅いのは
「早く戻って来い……なんぞと、思う日が来るとはな」
呟きながら棚にカップを並べて……。
ぴしり、と突如としてカップに亀裂が入る。
「む……古びておったか? もう長いしな」
古びて脆くなっていたところに棚に置いた衝撃で亀裂が入ってしまったらしい。
こうなってはもう使えないと嘆息しながらカップを片付けようとして。
「やれやれ……何事も起きなければ良いのだが」
呟き、近づいてくる足音に早くカップを片付けようと動き出した。
* * *
ぱかりぱかり、とすでに半日以上かけて馬車は移動を続けているが、馬車を引いて走る馬は全く疲れる様子を見せない。無尽蔵のスタミナで持って生気も無く、
いっそ機械的ですらあるが、そもそも馬と言っても石で出来た馬を生物と言えるはずも無いので確かにこの馬は機械と言っても良いのかもしれない。
ゴーレムというのは付与魔術師にとって最も基本的な魔術の一つだ。
本来、木や石、鉄などを使って人の形を模して戦わせるための木偶らしいが、爺ちゃんが生活に寄与したアレンジを加えた結果、不眠不休で魔力がある限り走り続けるゴーレム馬というものが出来上がったそうだ。
そして
「暇そうね」
馬車の中で呆けながら窓の外の景色をぼうっと見ていた俺を見てアンリの母親……センリさんが苦笑した。
ゴーレム馬車の最大の利点は御者がいらないことだろう。
ゴーレムというのは人間とは違う方法で生物を知覚しており、人間よりも遠距離から人の接近に気づける。
だから最初にプログラミングさえしっかりしておけば人が通る時は速度を落とし、人が近い時は一度止まる、人が近くに居ない時は走り出す、と条件付けされた判断で自動的に目的地へと向かってくれる。
まあ元々、長距離の人の行き来というのはそれこそ行商人くらいしか無いので、ゴーレム任せでも比較的問題無く進行できるようだった。
「後どのくらいで着きそうですか」
「そうね……まあ昼前には着くわよ」
揺れる馬車の窓から空を見上げれば日がすでに天辺半ばまで昇り詰めている。
あと二、三時間も無いくらいかな、と内心で計算しながら、そうですか、と返す。
「ごめんなさいね、遠くまで着いてきてもらって」
「いえ……そんなこと」
「もう、そんな堅苦しい言い方する必要無いのよ?
「はい……いや、うん」
この世界は記憶の中の前世ほど文明が発達していない。
封建制度が未だに当たり前の世界で『戸籍』なんて物は存在しないので、養子云々に関しては本人たちが認めているのならば割とすんなり話が終わる。
これが貴族だとか王族だとかとなるとややこしかったり面倒だったりすることになるのかもしれないが、俺は元はただの村人だし、爺ちゃんたちも魔術師として一部で名を馳せているものの身分的には平民だ。
だからアンリの母親であるセンリさんが提案し、当人である俺が承諾した段階で一応俺は爺ちゃんやアンリの『家族』になった。
「あら、街が見えてきたわね」
「あ……」
「そんなに緊張しなくて良いのよ? あの人には最初から話は通ってるんだから」
「えっと、はい」
俺が家族となった件については爺ちゃんも了承してくれたし、アンリも喜んでくれた。
ただまだ一人会っていない人がいて。
「あそこにいるんですよね……アンリのお父さん」
アンリの父親、ヨウさんだ。
* * *
センリさんとヨウさんは夫婦で各地を転々としている。
―――付与魔術とは人のための魔術である。
それは自らの師である爺ちゃんの教えを実践するためだ。
因みに爺ちゃんの実の娘はセンリさんだが、ヨウさんもかつて爺ちゃんの弟子をしていたらしい。
実際付与魔術というのは実に生活に根付いた魔術だ、他の魔法は戦闘を想定した物ばかりなのに比べて実に応用性が高く使い勝手は良い。
だが反面その使い手は少ない。
付与魔術師は他の魔法使いと比較するとやや戦闘能力に欠ける面がある。
華々しくそして大きな力を持つ他の魔導に傾倒する魔法使いが増える中で、物質に性質を付与するという分かりづらくそして見た目地味な付与魔術は人気に欠けるのは事実だ。
だからこそ二人の活動は付与魔術というジャンルそのものの布教、普及の意味もある。
まあ爺ちゃんの最終的な理想というのを知らないので、それ以上のことは分からないが、爺ちゃんが街の便利な魔術師とするならばこの夫婦の場合、活躍の場を求めて東奔西走の何でも屋のような存在だ。
一応以前アンリが住んでいた街に本拠というか家があるらしいのだが、依頼を受けると遠くの街までゴーレム馬車でかっ飛ばしてしょっちゅう出かけているので年間で家にいる時間というのはそう多くないらしい。
「で、今はこの街で依頼を受けて来てるのよね」
爺ちゃんが街の住人からの細々な依頼を受けるのに対して、センリさんたちは街からや或いは大きなところでは国からの依頼を受けるらしい。
いわゆる公共事業のようなものを請け負うこともあるらしく、そのため一度依頼を受けるとそれなりに長い期間その地に滞在することになるらしい。
「だから普段は私かあの人、片方ずつ交互に仕事に行くんだけど……今回のはちょっと大きな仕事で二人とも出ずっぱりになっちゃったのよね」
さすがに四歳の娘一人家に置いていくのも、というわけで師であり祖父でもある爺ちゃんの家にアンリを預けることにしたらしい。
と言っても当初は半年ないし、数か月程度で終わると思っていた仕事も想像以上に長引きすでに一年。
「さすがにこれが終わったらしばらく休養ね……蓄えはあるし、一年くらいお父さんの屋敷でアンリと五人で過ごすのも悪くないわね」
五人。
爺ちゃん、センリさん、ヨウさん、アンリさん……それから、俺で五人。
ナチュラルにその枠に俺が入っていることに何だかむず痒さを感じた。
「あの人との待ち合わせの場所までもう少しだけど……さすがに街中でゴーレムを走らせるわけにもいかないし、ここからは歩きになるけど、良いかしら?」
「あ、はい……いや、うん、大丈夫、です……だよ」
まだそれほど良く知っているわけでもない相手に砕けた口調というのも中々難しく、四苦八苦しながらの俺に苦笑しながらセンリさんが街の大通り脇に馬車を止める。
追随するように馬車から降りるとごった返した人波が視界に映る。
「……うわあ」
生まれてからずっといた村は小さなもので、爺ちゃんの屋敷のある街もそれほど大きいわけでも無いのでこれほど大きな街でたくさんの人を見るのが記憶にある限りでは初めての経験だった。
「ほら、行きましょう?」
「あ、はい……うん」
そうして街を行き交う雑踏を呆然と見ていると、センリさんに手を引かれる。
センリさんの誘導に逆らうこと無くなされるがまましばらく街の中を進んでいくと。
「あ、いたわ」
そんな呟きと共に、センリさんの視界がとある一点で止まる。
視線を追っていくと、そこにいたのは眼鏡をかけた優しそうな男性。
男性の視線をこちらを……正確にはセンリさんを捉え、その表情が和らぐ。
―――ああ、アンリの親だこれ。
すぐに気付く。
何と言うか、その顔に浮かべた柔らかい笑みが本当にアンリのそれに良く似ていた。
外見的にセンリさんに似たのかとも思っていたが、しっかり父親の血も入っていたらしい。
どうにかこっちへとやってこようとしているのだが、人が多すぎてこちらも向こうも中々距離は縮まらない。
とは言え人込みをかき分け、ようやく両者が手の届く距離までやって来て。
瞬間。
―――ッ!!!
遠くから悲鳴が上がった。
視界の先では人がごった返していて見ることができない。
どう足掻いても十にも満たないこの小さな体では視界が確保できなかった。
逆にセンリさんとヨウさんはそれに気づいたらしい。
大通りの向こう側から暴走する馬車の姿に。
パニックになった人が逃げ惑い、逃げ損ねた何人かが轢き殺され、そうして暴走馬車の猛威が迫って来る。
咄嗟に逃げようとしてヨウさんがセンリさんと俺の手を引っ張る。
何も見えなかった俺は引っ張られる手に、一歩分だけ踏み出すのが遅れて。
どさり、と転んだ。
ヨウさんがつんのめりながらも態勢を立て直し、俺を起こそうとした瞬間にはすでに暴走馬車は猛然とした勢いのままにもう目の前にまで迫っていて……。
―――ほとんど無意識だったのだ。
その時、ふっと自分に覆いかぶさったその人を見て。
人通りの多い街中の大通り。
雑踏を流されながらゆったりと進む人々。
そして遠くから聞こえた悲鳴。
もう気づいた時には遅かったのだ。
雑踏をかき分け、時に跳ね飛ばしながら。
目前に暴走する馬車が迫っていて。
―――嫌だ。
死。
脳裏に過ったその一文字。
背筋が凍った。
何より。
自身を庇おうとするその人たちを見て。
―――絶対に、嫌だ。
何よりも、そう願った。
* * *
どん、と衝突音。
同時に
ぐるぐる、ぐるぐると回転しながら。
ほんの一秒少々の浮遊、その光景がまるで十秒にも感じられた。
直後、破砕音。
馬車が砕け、窓にはめ込まれた硝子が派手な音と共に割れて飛散する。
ちょうど誰もいない空間に落ちたのは不幸中の幸いだろうか。
だが今はそんなことどうでも良いとばかりに誰もが馬車から視線を外し、たった一点を見つめていた。
たった一点。
今の今、空を舞った馬車に轢かれようとしていたはずの少年と少年に覆いかぶさる男性。
そして少年が突き出した腕と手のひら。
何だ今のは―――。
誰もがその疑問に答えを返せずにいた。
少年の何倍も大きい馬車は確かに少年を引き殺さんとばかりに猛然と走っていたはずだった。
なのに、なのに、なのに。
少年の突き出した手のひらに触れた瞬間に
馬車は完全に砕け、繋がれた馬は体を強く打った挙句に馬車に圧し潰された。
対して少年は、少年を守ろうとした男性は?
呆然としながら自らの手をひらを見つめていた。
何だ今のは?
何なのだ今の光景は?
果たして今の光景は真実なのだろうか。
集団で見た幻覚だったと言われたほうがまだ納得できるほどに非現実的な光景に、それを見ていた誰もが少年を見つめ、声を失っていた。
「大丈夫?!」
いち早く動き出したのは少年の連れの女性。
呆然とする男の背を叩いたかと思うと男を正気に戻し、正気に戻った男と共に少年を連れてどこかへと歩いていく。
その後ろ姿を呆然と見つめたままやがて人の波にその背が消えた頃ようやく一つの言葉が出てくる。
「―――バケモノだ」
それがその場にいた誰もが抱いた共通の感想だった。