その便意が物語を変えた   作:ざんじばる

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09.カルマ

 

「……おかしいわね。私は何を格下相手に熱くなっていたのかしら?」

 

 そんな言葉とともに突如、烈火のごとく渦巻いていた天衣の怒気が収まった。

 ただひたすら桂香さんを刺していた意識が収束し内側へ向かう。思索がはじまったようだ。そしてやがて結論が出たらしい。

 

「…………………なるほど。あなたなかなか性格が悪いわね。先生ももう少し女を見る目を養うべきだわ」

 

 …………ギリッ

 

 その歯がみした音は桂香さんの目論見が外れたことを物語っていた。

 

 

 

 

 

 

 今日は研修会の例会日。そして依然降級点がついている桂香さんの対局相手は不運なことにというべきだろう。全4局のうち前2局はともに無敗の俺の弟子達二人。一人目は天衣。二人目はあいだ。どちらかに負ければ降級点を消すことはできない。どころか二人に負けてそのまま後の対局も崩れてとなれば降級にリーチが……という厳しい場面だ。

 だからだろう。桂香さんはいつもの穏やかな様子とは全く異なり、今日は対局相手の発表前からビリビリと周囲を威圧するような気を放っていた。

 そして対局が始まる瞬間から盤外戦術のオンパレードだ。

 あいに対しては席位置の主張で威圧。そして天衣に対しては———

 

『あいちゃんと戦う前にウォーミングアップをしたいと思っていたから』

『一手損角換わり……ですって!?』

 

 ———重ねての挑発だ。

 二番弟子のあいと比較して天衣を軽んずる発言。天衣のお株を奪うかのような戦型。

 その挑発に対して、天衣はまともに乗っかった。

 

『……延々と女流棋士にもなれずに足踏みしてるくそババアがッ!!』

 

 怒り心頭に発した天衣は火の玉の如く桂香さんの陣に攻めかかった。だが冷静さを失った影響か、その攻めはいつになく単調だ。

 桂香さんはうまくいなしながら囲いを『穴熊』へと移行し、より強固な陣を敷いた。こうなってしまっては生半可な攻撃は通用しない。

 

 局面を変える一手が必要になった天衣は小考に入るつもりだったのだろう。体勢を起こし、傍らに置いていた扇子を握り———

 そこではたと我に返ったのだった。そして場面は冒頭に戻る。

 

 

 

 

 

 

「完璧な将棋は完璧なメンタルが支える。私は自分のメンタルの強固さに自信があったのだけれど……」

 

「…………」

 

「そこに触れられたら私は冷静ではいられない……。確かにそこは私の弱点ね。いい勉強になったわ。ありがとう」

 

「…………」

 

 天衣からの話しかけにも応じず、桂香さんはひたすら厳しい表情で睨んでいる。が、天衣は構わず続ける。

 

「お返しに私からも一つ忠告しておくわ。そこはただの弱点じゃない。逆鱗よ。そして———」

 

「…………」

 

 そこで握っていた扇子を開く。扇子に記された文字は『活』。竜王挑戦を決めたときに俺が揮毫した第二弾の扇子だ。……何で持ってんの? 俺を恥ずか死させたいの?

 改めて天衣は圧倒的な怒気で桂香さんを貫く。

 

「竜の逆鱗に触れた愚か者には裁きがあるわ!!」

 

 そう言って天衣は飛車を『穴熊』へと突貫させた!

 

「「「飛車を切った!?」」」

 

 久留野先生を始めとした観戦者が驚愕する。

 けれど、突貫は飛車にとどまらない。高い位置にいた自駒。角を始めとした持ち駒。流星雨の如く次々と『穴熊』へ降り注いでは、次の弾とすべく『穴熊』を構成していた駒を啄んでいく。

 

「こんな……こんなんただの暴発やろ?」

 

「……桂香さんの圧倒的な駒得やで?」

 

「……だけど『穴熊』が……」

 

 そう。気付いてみれば『穴熊』はひしゃげ、押しつぶされて見る影もなく、露出した玉には小駒ではあるが未だ流星が降りかからんとしていた。

 途中までは桂香さんが完全に盤面をリードしていた。そして今現在も持ち駒は桂香さんが圧倒的だ。けれどもう桂香さんが攻撃に移ることはない。天衣がそのまま小駒で桂香さんの王を寄せきってしまったからだ。

 

「……負けました」

 

「ありがとうございました」

 

 痛恨の表情で告げる桂香さんに天衣は鷹揚に応じた。桂香さんにはなぜ負けたのか、どこで悪くなったのか理解できていないはずだ。あれは———

 

 

「……これはまさか……玉将の捌き?」

 

 

 そう。久留野先生の言うとおり、天衣が『穴熊』を粉砕してのけてそのまま王を寄せきった手筋には確かに巨匠(マエストロ)の捌きが息づいていた。

 

 

 

 

 

 

 研修会本日第二局。桂香さんの相手はあいだ。

 桂香さんは天衣との対局からなんとか切り替えることができたらしい。天衣との対局前と同じように威圧感を放っている。

 振り駒の結果は桂香さんの先手、あいの後手だ。

 桂香さんは初手から時間を使い、あいへの威圧を続ける。

 

「ふん。さっさと指せば良いのに」

 

 人数の関係で抜け番になっている天衣が俺の横で毒づく。

 

「ま、ゆっくり見届けよう」

 

 俺は天衣の頭に手を置いてなだめるように軽く撫でる。てっきりすぐ振り払われるかと思ったのだが、意外なことに天衣は体を硬くして俯くだけでされるがままだ。

 ゴキゲンの湯で乾かしている時の濡れた髪もそうだったが、日中の手触りもしっとりサラサラで素晴らしい。天衣が止めないのをいいことにしばらく撫で続ける。

 すると突然とんでもない殺気が飛んできた。

 

「ッ!?」

 

 俺は慌てて天衣の頭から手を外す。

 姉弟子!? 姉弟子なのか!? でも姉弟子はここには来てないはず……

 周りを見回してもやはり姉弟子はいない。

 ということは…………あい? いやしかしあいは今桂香さんに威圧されて萎縮しているはず。

 などと思っていたら、あ、桂香さんが初手を指した。あいも慎重に二手目を指す。互いに角道を開けた形だ。そして桂香さんの次の手は———7五歩。

 

「三間飛車ッ!?」

 

「……なるほど。『ゴキ中』対策ね」

 

 桂香さんの振り飛車に驚いたもののあいが選択した戦型は『ゴキ中』

 

 これで相振り飛車になったわけだが……。

 

「姉弟子から情報が漏れてたか……」

 

「ついでに八一先生がこの前『ゴキ中』を使って劇的な勝利を収めたからね。あなたのフォロワーをやってるあの子なら必ず使うと踏んだんでしょう」

 

 話しているうちに桂香さんの駒組みは『石田流』の構えとなる。押せ押せの戦型だ。たいしてあいは———

 

「『穴熊』!?」

 

 攻め棋風のあいが『穴熊』? なんで?

 

 考えられるのは桂香さんの冒頭の威圧に萎縮した……これが目的か!?

 

「あいが気合い負けしたのか……?」

 

「はぁ……」

 

 俺の漏らしていた呟きになぜか天衣は溜息をつく。

 

「どうした、天衣?」

 

「八一先生……その女を見る目のなさをどうにかしないといつか痛い目に遭うわよ」

 

「は? どういう意味だ?」

 

「どうもこうも。あの子に気合い負けなんてかわいげがあるわけないでしょう?」

 

「何言ってんだ? 現にああやって桂香さんに『穴熊』に誘導されて———」

 

「まあ確かにあのババアも性格が悪いけど……あれはわざと乗って見せただけよ」

 

「……なんでそんなことが分かるんだ?」

 

「この間までのあの子なら萎縮してなんて可愛い理由もあったかもしれないけど今更それはないわ」

 

 この間? この間のゴキゲンの湯での出来事の事か?

 

 

 

 

 

 

 ある日、まだ俺がゴキゲンの湯でバイトしていた時。あいがびしょ濡れになって泣いて帰ってきたことがあった。

 理由を聞くと研修会で澪ちゃんに駒落ちで勝ったことが原因とのことだった。駒落ちで負けた澪ちゃんが大泣きして傷ついていたことであいも傷ついたのだった。

 心優しいあいの美徳ゆえのことではあるが、将棋の勝負師としては致命的な弱点になりかねない。俺は厳しく諭そうとしたが、先に口を開いたのはあいより少し先に研修会から帰ってきていた天衣だった。

 

「いいんじゃないかしら?」

 

「え?」

 

 一瞬、天衣は慰めようとしているのかと思った。そんなものは足枷になりかねない。止めないとと思った。だけどそれは杞憂だったのだ。

 

「八一先生の弟子として将棋界で活躍する役目は私がやってあげるから。だからあなたは弟子なんて止めてみんなとただ楽しいだけの将棋を指していたらいいんじゃないかしら?」

 

「…………」

 

 慰めるなんてとんでもない。天衣がやったのはあいの頬を張り飛ばす痛烈な挑発だ。

 そしてその効果も劇的だった。涙はとっくに止まってあいの表情は怒り一色だ。

 

「……いいよ。あいが自分でやるから」

 

「あら? 遠慮しないで良いのよ?」

 

「遠慮じゃないよ。はっきり言わないと分からないかな? 天ちゃんじゃ無理だから自分でやるって言ってるの!」

 

「はぁ? 前に八一先生への弟子入りを賭けて私に喧嘩をふっかけて無様に返り討ちにあったのは誰だったか忘れたの?」

 

「忘れたよ! そんな前のこと! 天ちゃんのだらぶち!」

 

「記憶力がないのね。……それに方言が出てるわよ田舎娘」

 

「神戸だって東京から較べたら十分田舎だもん!」

 

 その一言に意外と郷土愛が深かったのか天衣もブチ切れる。

 

「何ですって!? あんなクソタヌキが開いた無味乾燥なでかいだけの町に神戸が劣ってるって言うの!?」

 

 そうして始まったのは小学生らしく取っ組み合いだ。周囲からみたらほほえましい。けれど本人達は至って真剣な熱いバトルだ。

 

 そして勝利したのは当然の帰結というべきか腕力に定評のあるあいだった。天衣相手にマウントをとったあいはドヤ顔だ。そして完全に床に押さえ込まれた天衣は涙目になっていた。

 

 

 

 

 

 

 確かにあれ以降あいの闘争心は増したように見える。

 その直後に指した飛鳥ちゃんとの対局もがっぷりと組み合った力戦だった。

 けれどだからといってすぐに非情な勝負に徹することができるかというと……。

 今も『美濃囲い』を完成させた桂香さんが『穴熊』を作るのに手間取るあいに先にしかけたところだ。

 

「私よりあの子の方がよっぽどえげつないんじゃないかしら?」

 

「…………」

 

「まあ私がさっきあんな風に見せたこともよくなかったんでしょうけど」

 

「お前さっきから何を言って?」

 

「だから。最初から今に至るまで全てあの子の思惑通りだったって言ってるのよ」

 

「何?」

 

「あの子はあのババアを体の良い実験台にするつもりだったのよ。新しく手に入れた力を振るってみたくて仕方がなかったわけ。新しいおもちゃを与えられたガキなのよ」

 

「実験? 振り飛車のことか?」

 

「そうじゃなくて。……まあ見てればもうすぐ分かるわよ。巨匠(マエストロ)の感覚を自分の将棋に取り込んだ私とはまた違うアプローチよ。取って盤上に打つという概念を単純にシミュレーションに加えただけの荒っぽいものだけど、それを桁外れの演算力でぶん回してやると———」

 

 

 

 

 

 

「ごめんなさい。桂香さん」

 

「…………?」

 

「桂香さんのこと大好きだけど……私、あの子に勝ちたいんです」

 

 わずか数日の差で一番弟子としての立場を奪われた。

 将棋の腕もおそらくあの子の方が今も上だろう。

 そして……悔しいけれど師匠にとっての女の子としての大切さも。

 

 だけど白旗なんて振ってやらない。

 弟子の順番だけはもう変えられないけれど。それ以外は全部ひっくり返してやる。

 

 

 私より2ヶ月ばかり幼い、かわいらしくて憎らしいあの子。

 この間取っ組み合いで勝って泣かせたらとてもすっきりした。だから今度あの子から全部取り上げてもっと大泣きさせてやったら、遙かに気持ちいいことだろう。

 だからこんなところで躓いてられない。だから———

 

 

 

 

 

 

 

「とる……うつ……とる……うつ……とる……うつ、うつ、とる———」

 

 これまでのあいの盤上没我とは違う。

 

「とって、うって、とって、うって、とって、うって、とって、うってとってうってとってうってとってうってとって」

 

 これまでの駒を動かすという概念以外に相手の駒を奪って打ち込むという概念が強く意識されている。

 

「こうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこうこう」

 

 そして、おそらく捌き終わったのだろう。あいの脳内の盤面は寄せに移った。

 

「うんっ!」

 

 その声は演算の終わりを告げ、彼女の脳内で描かれた終末までのストーリーの上映が始まる。

 駒がぶつかって消え、突如として別の位置に出現し、またぶつかる。

 その繰り返しだ。一つ一つの衝突だけを見れば決してあいに有利とは言えない。むしろ駒台の上は桂香さんの方が豊富だ。

 けれどやはりこの衝突は無為に起きているわけではなく、あいの完全な統制下にある。その証拠に、桂香さんの美濃囲いは崩壊し、あいの前には道ができていた。桂香さんの王につながる道が。

 

 そこから桂香さんは粘った。もっていたあらゆる手管を使って粘った。だけどあいの広大な読み筋から逃れることはできなかった。そして———

 

「……負けました」

 

 桂香さんの震える声が投了を告げた。

 

 

 それは、鼓動する才能が描き出した魔法劇の一幕———

 

 

 

 




■原作との違い
・天ちゃん、勝利

この話を書きながら、
うんラスボスはあいちゃんだなと思いました。

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