その便意が物語を変えた   作:ざんじばる

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05.願い届かず

 

 

 

「封じ手は——————2四同歩」

 

 あの人がぶつけにいった駒を名人が食うところから二日目の対局は始まった。

 きっと彼の予想と同じだったのだろう。彼はどこかホッとした表情をしている。その雰囲気を周囲も感じ取ったのかどこか和やかな空気が流れる。そこからさらに局面は進んでいく。

 

 

 

 

 

 

 おかしい。

 

 私が違和感を覚えたのは六十二手目、名人が4七角成としたところだった。……いいえ。それを言えばそこまでの手順も全ておかしかった。

 五十一手目、あの人が2四同飛としてから、6五歩、2三角打つ、同金、同飛成、6六歩、3三竜、6七歩成、同金、6九角打、6八金。そして名人の4七角成。

 一連の手順で彼は竜を作り、金桂を得たのに対し、名人は角を得て馬としただけ。あまりに彼に都合が良い展開になっている。

 

 周囲は八一先生の勝勢に盛り上がっているけれど月光会長だけは訝しんだ顔をしている。

 

 そう。衰えたといえどもあの名人がそこまで甘い? いくら何でもありえない。それ以外の変化なんて私でもいくつも考えつく。

 脳内将棋盤の前に仮想の名人を置いて検討しても、一つとして読みが合わない。これもおかしい。私は名人の棋譜を大量に読み込んでいる。直接対局したことこそないもののこれだけの情報量を得て、この局面で読みが立て続けに合わない。はっきりと異常事態だ。

 だけれど何がおかしいのか分からない。何か……何かあるの? 落とし穴のようなものが……。

 

 

 あの人は先に答えにたどり着いたらしい。

 あまりの衝撃に引きつったような引きつったような表情に変わる。

 私は慌ててイメージをしてみた。私が名人の側を持ち、向かいには彼に座ってもらう。すると———

 

 ……手がない。

 囲いは堅牢。攻め手は最強の駒、竜王。そして手駒も豊富。どう見ても彼の形勢の方がいいはずなのに。なのに攻めが続かない。

 名人は封じ手の時点でこの手筋には先がないことに気付いていた。だから乗って見せたっていうの!?

 

 

 名人は衰えたはずだった。名人を神たらしめていた無謬の終盤力は力を失っていた。だというのにこれは……大局観はむしろ……進化している!?

 だから私の仮想名人と現実の名人の手は噛み合わなかった。

 

 

 

 

 

 

 …………八一先生!

 

 九十三手目の手はなく、あの人の投了で第一局は幕を閉じた。

 

 

 

 

 

 

『永世七冠へ向けて好発進ですね! このままストレート奪取もありますか!?』

『次は先手番ですが、連勝への意気込みをお聞かせください!!』

『名人! 大記録を待ち望む国民の皆さんに何か一言!!』

 

 有象無象が名人を囲んで質問をぶつけている。あいつらみんな引き摺り倒して、殺してやりたくなる。あの人の横でお前たちは何をしているのかと。

 

 いけない。こんな思いはあの人を想ったものじゃない。ただ自分の怒りを満たすためだけの汚い感情だ。

 どうにか私は自分を抑えつける。そして視線を名人の対面に座った彼に移す。

 彼は完全に消沈してしまっていた。無理もない。あの一局は彼が『一手損角換わり』というエース戦法でこれまで積み上げてきた全てのもの否定してしまったはずだ。彼の心中を想うといたたまれなくて視線を逸らしたくなる。けれどじっと彼を見つめ続ける。手を痛いほどぎゅっと握りしめながら。それだけしかできないから。

 

 

 

 

 

 

 地獄のようなインタビューの時間が終わり、あの人はホテルの自室へ引き上げていった。それを追いかけるつもりなのだろう。妹弟子も控え室の外に出て行った。

 私も控え室を出たが同じ行動はとらない。きっと彼は弱った自分を見られることを望まないだろうから。中庭をフラフラ歩きながら私に彼のために何ができるのか考える。

 

 彼はこの後どうするだろうか? きっと彼は諦めない。例え今回の対局がこれまでの将棋観を全て吹き飛ばしてしまうものだったとしても。果てのないプレッシャーに苦しみ、のたうち回りながらでも名人を上回るための方法を模索するだろう。彼は将棋指しで勝負師だから。きっとどんなに絶望的な勝負でも投げられるはずがない。

 

 だから———彼に必要なのは研究するための時間だ。一秒でも長く。

 

 

 

 私はスマホを取り出し、晶へコールする。

 

「晶、今いいかしら?」

 

「そう。晶も竜王戦の中継を見ていたのね」

 

「ちょうど良いわ。お願いしたいことがあるのだけど。明日のホノルル発・関西空港行きの便を何とか押さえてもらえないかしら」

 

「ええ。できればビジネス以上の席がいいわ。少しでも休息がとれた方がいいから」

 

「私? いいえ、私は予定通り明日のスケジュールをこなしてから明後日帰るわ。だから席は一つでいい」

 

「そう。それじゃあお願いね。予約が取れたら将棋連盟に席を譲れることを伝えておいて。きっと明日必要になるから」

 

 そう言って私は電話を切る。

 これでいい。ひとまずこれで今、私にできることはなくなった。自分の力の無さが悔しいけれどこれも余分な感情だ。自分を憐れむだけで、彼を慮ったものじゃない。

 

 

 

 

 

 感傷を振り切り、意識を周囲に向ける。目の前には石造りの小さな建物。いつの間にか私は教会の前まで来ていたらしい。

 私は何となくその建物を見上げ———

 

 

 ドゲシッ

 

 

 全力で蹴っ飛ばしていた。

 

 

「ッ——————!!」

 

 

 とても痛い。それでも———

 

 

 ドゲシッ

 

 

 もう一度蹴っ飛ばしてからホテルへと戻った。

 

 

 




教会の壁「なんでや。わい悪くないやろ」
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