「………………どこだ………………」
対名人の研究は終わらない。それどころか目処すらついていない。
内弟子を傷つけて追い出し、姉弟子を泣かせて追い返し、どうしようもないクズな所行を重ねても俺の研究は全く進展していなかった。
「…………努力ならいくらでもする。将棋以外の何かを差し出せって言うなら何でもくれてやる……」
名人への、連敗への、失冠への恐怖に追われながらの研究は全く不効率なものに堕していた。
「…………どうすれば前に進める……誰か教えてくれよ……」
前に進んでいる保証が欲しかった。
答えに向かっている実感が欲しかった。
誰かに『正しい』と言って欲しかった。
そうすれば俺は———
ピンポーン
その時、突然インターホンがなりマイナス思考に沈む俺の意識を引き戻した。
一体誰だ? あいや姉弟子であるとは思えない。それにそもそも今は何時だ。部屋に籠もって研究に勤しんでいたおかげで、時間感覚は完全に麻痺していた。時計に目をやれば、今は既に日付が変わって1時になろうとしている。
こんな時間になんて非常識な……。いいや無視しよう。そう思って俺は意識をモニターに戻す。けれど今度はノブを回してドアを開ける音がした。そういえば姉弟子が出て行ってからそのままだからドアは開けっ放しだった。中に入ってきたようで足音が近づいてくる。……まさか強盗とかじゃないよな。
そして遂には俺の部屋の扉がノックされた。そうして入ってきたのは———
黒衣の少女。意外なことに一番弟子の夜叉神天衣だった。
天衣とはハワイでの対局前から会っていなかった。実に1ヶ月以上になる。それが今なぜ? 戸惑いとともに天衣まで研究の邪魔をするのかと苛立ちが混じる。
「どうしたんだ、天衣? こんな時間に」
「別に。会いたかったから来ただけだけど」
「は?」
意外過ぎる一言に一瞬真っ白になってしまう。
「……八一先生、少し痩せた……いいえ。やつれたんじゃない? 目の下のくまもすごいわよ。ちゃんと寝て食べているの?」
天衣は俺の様子に構わず、さらにそう言ってくる。俺は弱いところを弟子に見せたくなくて誤魔化すように言う。
「ちょっと、研究に没頭して忘れがちになっててな。……それより今日のマイナビ本戦、二人とも勝ったみたいだな。棋譜を見たぞ。すごいじゃないか」
「別に。普通でしょ」
天衣の態度は相変わらずだ。タイトルホルダーを相手にジャイアントキリングを成し遂げたというのに。
天衣に限らずあいも、そろって上手食いをして女流棋士資格を手に入れた。俺の弟子たちは順風満帆だ。俺とは違って。
「竜王の弟子が女流タイトルホルダーや奨励会員の級位者如きに負けるはずがないじゃない。手合い違いよ」
そこで俺を持ち上げるようなことを言ってくる。それが余計に癇に障る。
「天衣とあい、お前たちの実力だよ。俺なんて大したことないさ。その証拠に名人にはあっさりと三タテ食らって失冠しそうになってるだろ」
「……八一先生……」
「俺にお前たちみたいな才能豊かな子を育てる力はないよ。だから———」
「だから、月光会長に話を通しておくから会長の下で学ばせてもらいなさい?」
「ッ!? ……それは……」
「やっぱり私たちとの師弟関係を解消しようと思っていたのね。……先生が上を目指すのに邪魔になった?」
「違う! ……それは違う。俺じゃあお前たちを伸ばしてやることができないから。お前たちにはもっと相応しい師匠が———」
「前に言ったでしょう。名人と較べたって八一先生を選ぶって。八一先生以上に相応しい人なんていないわ」
「それは天衣の買いかぶりだよ。二人とも才能は確かなんだ。ちゃんとした師匠をつけるべきだって誰だっていうさ」
「誰にそう言われたの?」
「……別に誰だっていいだろ。記者たちだって他の———」
「……はぁ……」
そこでなぜか溜息をつく天衣。次に開いた口から出てきた言葉は。
「変なことをいうのね、八一先生。節穴の記者どもと私の目と、一体どちらを信用するの?」
「は?」
意外すぎる内容に間抜けな声を出してしまう俺。とはいえ理解してみるとあまりにも天衣らしい傲慢な物言いだった。あまりの事に一瞬苛立ちを忘れて苦笑してしまうが。
「それは欲目だよ。天衣はお父さんから俺のことを良く言われ続けて刷り込まれているだけで、実際は俺なんてうまくいかなければ年下の女の子にも当たり散らすようなクズでさ……」
けれでそんな俺の情けない拒絶の言葉に構うことなく、歩み寄ると俺の手を握って言ってくる。
「止めて。八一先生自身とはいえ、私の先生のことを悪く言うのは許さないわ」
「天衣……」
「根を詰めすぎるからそんなマイナス思考に陥るのよ。八一先生ちょっときて」
そのまま俺の手を引っ張る天衣。そして部屋の片隅にあるベッドに俺を座らせる。
「天衣? 一体何を?」
「いいからそのままじっとして」
そういってから天衣は俺の背中側に回り込むと、俺の頭に腕を回して抱き込みながら視界を塞いでくる。
「今だけは将棋のことを忘れて私の言葉だけを聞いて」
視界を閉ざされたことで、俺の感覚器官に伝わるのは天衣の、子供特有の高い体温と甘いミルクのような体臭、それにちょっとの汗のにおいだけ。
強制的にリラックスさせられる。ささくれ立っていた神経が沈静化し、眠気に似た微睡みが俺を襲う。
そして体伝いに直接天衣の声が響いてくる。
「八一先生は強いわ。間違いなく名人を超える器よ」
「……だからそれは天衣の思い込みだって……」
「私にとってはその思い込みが現実よ。それに人なんて思い込みでしか行動できないわ」
「…………」
「けれど思い込みだけが現実の壁を突破し、不可能を可能にし、自分を前に進める」
「…………」
「第一局で名人は進化して大局観で八一先生を上回ったかもしれない」
「第二局では進化した名人への追随が間に合わなかった」
「でも第三局は八一先生が上回っていたわ。完全に。三連敗できないという焦りから終盤にミスをしてしまったかもしれないけれど千日手までの内容では八一先生が上よ」
「八一先生はたった一ヶ月もしない間に進化したはずの名人を凌駕しようとしている。だから」
「だから後足りないのは、名人に勝てるという思い込みだけよ」
「私には八一先生の将棋の研究相手になれる力はないし、八一先生の生活面をサポートしてあげることもできない。……でも、第四局、第五局、第六局、第七局、残り全てを八一先生が勝つと一片の疑いなく思い込んでいるわ」
「八一先生が私に才能があると思ってくれているのなら、その私の思い込みを少しは信用してくれると嬉しいわ」
「…………ああ。ありがとう」
弟子の心からの言葉に俺は思わずお礼の言葉をこぼす。
完全に力が抜けてしまい、これまで寝る間を惜しんで研究していた事の代償か、急激な眠気が襲ってくる。
「ごめん、天衣。何か急に眠く———」
「頑張りすぎよ、八一先生。今はそのまま。お休みなさい」
そして、体がゆっくりとベッドに横にされ、俺はそのまま意識を手放した。
翌朝俺が目を覚ますと、家には誰もいなくなっていた。
けれど昨晩の出来事が妄想ではないことを示すように居間のテーブルの上には不器用に握られて、ラップにくるまれたおにぎりが置かれていた。
◇
翌朝、あいが目を覚ますと、桂香さんから一つ報告を聞いた。
先ほど天ちゃんから電話があって、師匠の状況が改善したから連絡を入れて、師匠の家に戻ると良いと言うのだ。
慌てて師匠に電話すると、昨日のやり取りを謝られた上で戻ってきて欲しいとお願いされた。だから、荷物を全部リュックに詰め込んで早々におじいちゃん先生の家を後にした。おじいちゃん先生には随分寂しがられて引き留められたけど、一刻も早く師匠に会いたかったから。桂香さんがもう少ししたら将棋会館に行くからついでに送るとも言われたけどそれもお断りした。
そうして、師匠の家への帰り路を歩きながら考える。
師匠はあの時、本気であいを突き放そうとしていた。多分あいとの師弟関係解消まで真剣に考えていたと思う。とにかくマイナビに勝って師匠に見てもらおうと思っていたけど、それだけじゃ多分ダメだと本当のところは思っていた。
それがなぜか一晩経ったら改善していた。そしてそのことが天ちゃんから伝えられた。
きっと昨晩のうちに天ちゃんが師匠に会って取りなしてくれたんだろう。
天ちゃん優しいね。本当に———
絶対許さない。
何? ライバルに塩を送ったつもり? それともあいなんて眼中にないってこと?
それにあいが四六時中師匠といっしょにいても、師匠の心を癒やすことができなかったのに、自分は一晩あれば十分だって絆の差を見せつけたつもり?
許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。許せない。
絶対に泣かす。
どうしてくれようか。マイナビで2回戦も勝てれば準決勝で当たることになるけど、まだ3ヶ月近くある。この熱さは、この胸の怒りはとてもそんなには待てやしない。
そんな事を考えていると、スマホが振動してメールの到着を知らせた。
差出人はお母さん? 内容は。
「あはァ」
あまりにもナイスタイミングな内容で思わず笑いが漏れてしまった。
竜王戦第四局……楽しみだね。
情けは人のためならず(誤用)というお話。
あ、後、桂香さんは釈迦堂さんに勝ったそうです。(適当)