その便意が物語を変えた   作:ざんじばる

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第5章エピローグです。



15.思いに応える

 

 ……パチ

 

 封じ手が開かれ静謐な空間に駒音が響く。

 

 

 ここは山形県、天童市。将棋駒の町として古くから知られるこの土地の旅館で竜王戦最終局は行われている。

 

 将棋史上稀に見る激戦となった第四局に続き、第五局はがっぷり組み合った相矢倉から先手を持った八一先生が盤面をリードし続けた。大駒を恐れることなく切りとばし、敢然と攻め続けて寄せきって見せた。強い将棋だった。

 

 第六局も同じく相矢倉と思われたが、八一先生はまさかの急戦を選択。70手の短期決戦を見事制して勝負を五分に戻した。

 

 そして最終局、前局と同じ展開から皆の度肝を抜く18手目5三銀右、再び急戦を選択。名人が先に手を変えて25手目以降の展開は変わっている。名人からしかけて左辺奥にと金を作り、名人の封じ手で初日を終えた。

 

 

 10月より始まり長く続いた竜王戦も、残すところは本日のみだ。

 その様子を現地旅館の人通りの少ない縁側でタブレット片手に見守っていた。反撃の開始となった第四局以降同じ観戦スタイルを貫いている。別に縁起を担いでいるわけではないのだけれどね。

 

 先ほどの封じ手———と金が八一先生の浮いている香車を刈り取る一手で二日目は始まった。そこから攻防の焦点は盤面中央に移る。名人は奪った香車で5筋の突破を計り、八一先生はそれを歩-銀-飛のラインではじき返そうとする。62手までの一連の攻防で名人は金と香を交換して駒得を。八一先生は名人の陣形を左右に分断するという成果を得た。

 

 そして中央での争いは更に激化する。双方相手陣地に金銀から成る攻撃拠点を築く。 この局所戦では名人がその強さを見せつけた。香車をうまく使って飛車を競り落として見せたのだ。

 

 けれどそこから八一先生が驚異的な打ち回しを見せる。

 86手目に角交換をすると、即座に8七へ打ち込んで王手竜取りをかけ、相手の攻め手をくじいた。そして名人の玉の後背に奪い返した飛車を打ち込みプレッシャーをかけていく。

 

 そしてここからが圧巻だった。

 名人が6六角打という詰めろ逃れの詰めろの絶好手を指したと見た瞬間に方針を転換。盤面中央に進出していた名人の玉を緩やかに囲い込むように包囲網を形成していく。

 常に王手をかけ続けるわけでもなくむしろ手緩く見えすらした。実際に王手の切れ間で名人は積極的に逆撃をしかける。けれど八一先生は自分の手の方が早いことを読み切っているかのように自玉に最低限の延命処置だけ施し、名人包囲網を絞っていく。

名人の玉が逃げた先には必ず八一先生の迎撃要員が用意されており名人の玉を跳ね返す。安住の地がない名人の玉は味方の反撃を信じて盤上を逃げ惑い———

 

 

 そして140手目、対に盤面の片隅に追い詰められて力尽きた。

 

 竜が神様を食らった瞬間だった。

 

 

 

 

 

 

 映像の中の八一先生が報道陣に囲まれ、インタビューを受け始める。

 八一先生はまだ勝利した実感がないのか、どこかぼうっとした夢でも見ているかのような受け答えだった。

 

 けれど、これはまぎれもなく現実だ。八一先生は見事防衛を果たした。それだけじゃない。このつらく長い七番勝負、だれもが八一先生の陥落を望む圧倒的なアゲインストの中、初戦からの3連敗という後のない状況で最強の挑戦者を相手に4連勝したのだ。八一先生の力は竜王戦開始前とは較べるべくもない。壁を二つ三つまとめて飛び越えている。もはや進歩ではなく進化といって差し支えないレベルだと思う。

 

 間違いない。これからの将棋界はしばらく八一先生を中心として回るのだろう。きっと誰もが八一先生を称賛する時がもうまもなく来る。

 

「……?」

 

 不意に私の頬を冷たいものがつたう。手で触れてみると———

 濡れてる? 涙? 私泣いて……?

 泣いていると実感するともう止まらなかった。次から次へと涙が流れ落ちてくる。

 

 そう。私は知っている。このドラマのような奇跡は安穏と待っていて訪れたわけじゃない。あの人がどれだけ悩み、苦しみ、追い詰められていたか。苦労なんて一言でまとめるのもおこがましい。それがようやく報われた、いや、これから報われるのだ。

 

 

 

 おめでとうございます。八一先生。とても……凄かったです。

 

 

 

 

 

 

 感想戦が終わり、先に退出した名人について報道陣や関係者も出ていった。俺は一人対局室に残り余韻に浸っていた。だがいつまでもここにいるわけにもいかない。この後、打ち上げがあるのだ。今日だけのことじゃない。これまでの長い長い竜王戦の打ち上げが。疲れてはいるが俺も行かなきゃならない。なんと言っても主役だしな。むふ。

 

 俺は重い腰を上げ、対局室を後にした。

 

 ようやく竜王位の防衛に成功した実感が湧いてきた。よく0ー3の状態から勝ったものだよな。あの名人に、俺。これは俺氏、壁超えちゃったんじゃないの? 名人級とは言わないまでも他のタイトル保持者達と遜色ない、あるいはそれ以上の力を手に入れちゃったんじゃない? これは『九頭竜永世竜王』誕生待ったなしなんじゃないの?

 

 俺は最高に浮かれていた。そうなると疲労で重かった足取りも軽くなる。

 

 そうして分かれ道まで来た。向こうに行けば打ち上げ会場。あちらは宿泊棟。もちろん打ち上げ会場に行かないといけないのだけど、そういえば……

 第四局の指し直し局前のことを思い出す。

 あの時、会場と宿泊部屋の間の通路で天衣と会ったんだったか。まあ今回も同じようなところにいるとは限らないわな。そう思うのだけどなぜか足はそちらを向いていた。

 

 

 そうして———

 

 

 

 

 

 

 廊下沿いの縁側には小さな人影が見える。腰を下ろし足をぷらぷらさせているその人物は星明かりを反射する艶やかな黒髪をしていた。

 

「こんなところにいては風邪を引きますよ。お嬢さん」

「八一先生?」

 

 俺の声に気付いた天衣はこちらを振り返る。俺の名を呼ぶ口からは、吐く息とともに白い靄が漏れる。

 前は季節外れに暖かい11月だったが、今はもう12月中旬だ。

 

「こんな寒いところにいちゃ風邪ひくぞ。天衣。宿泊部屋でも控え室でも暖かい場所で観戦してれば良かったのに」

「別に、平気よ。コートも着ているし。それに星空もこんなに綺麗なんだもの」

 

 確かに冬の夜空。それも東北の空は澄んでことさら綺麗に星が見える。けれど勝手な思い込みかも知れないが、何となく第四局の時の験を担いでそうしてくれていたんじゃないかと思った。

 

「どうだ? 名人に勝ったぞ。天衣も喜んでくれるだろ?」

「そうね。私も嬉しいわ」

「そうだろそうだろ」

 

 俺氏得意満面である。

 

「本当に良かったわ。私の師匠が平のC2棋士にならなくて」

 

 ……うぐぅ。

 

 厳しい現実を突きつけてくるツンJS。そう。竜王位が剥奪されてしまえば最下級のC2棋士にすぎないという現実が待っている。本当に良かった。防衛できて。これで仮にタイトルを失っても竜王位2期で九頭竜八一九段となるのだ。良くない。順位戦で昇級できなければC2級であることは変わらないのだ。昇級せねば。

 

 決意を新たにしながら天衣の横に腰を下ろす。そして近くから見て気付いた。

 

「天衣……泣いていたのか」

「ッ!?」

 

 失念していたのか慌てて顔を逸らす天衣。その目は少し赤くなっていて、目元には涙が乾いたような跡があった。

 

「……別に。泣いてなんかないわ。ちょっと目にゴミが入ってさっき擦っていただけよ。別に悲しい事なんてなにもないもの」

 

 そう。泣くような悲しい事なんてなかったはずだ。けれど涙は悲しいときにだけ出るものじゃない。俺の愛弟子はその言葉とは違って、思いの外俺の勝利を喜んでくれていたらしい。

 

「何よ。その顔は?」

「うん? どうかしたか?」

「そのニヤニヤ顔を止めなさい。キモいわ」

「ニヤニヤなんかしてるか?」

 

 口元を押さえてみる。どうやら無意識ににやけていたらしい。自覚するとますます口元がつり上がってしまう。

 

 そんな俺を処置無しと見たのか、ふんっと鼻息一つ、天衣はそっぽを向いてしまう。そしてしばしの沈黙。けれどイヤな沈黙ではない。俺は名人に勝利し、第四局、あの時の天衣との約束を果たすことができた———

 

「……あ」

 

 と、あることに思い当たり俺は思わず声を漏らす。

 

「なに? 八一先生?」

 

 それを不審に思ったのか、天衣はこちらへ向き直り問いかけてくる。

 

「いや……第四局のあの時、今日天衣にプレゼントを渡すって約束をしただろ?」

「え、ええ。そうね」

「失敗したなーって思ってさ」

「何が? 八一先生は竜王位の防衛を果たして約束を守ってくれたじゃない?」

「いや。それはあくまで俺の目標だろ? だから今日勝ったらすぐに女流棋士資格の申請書に記入してやろうと思ってたんだけど肝心の用紙を持ってくるの忘れちまった」

「何だ、そんなこと。……別にいつでもいいって言ったじゃない」

「折角だからと思ったんだけどな。防衛直後でなかなかインパクトあるタイミングだろうし。……すまん。大阪に戻ったらすぐ書くからな。なんだったら東京の将棋会館に寄ってもいいし」

「別にそこまでしなくてもいいわ。それに…………」

「うん?」

 

 なぜか言いよどむ天衣。そして何か折りたたまれた紙片を差し出してきた。それを受け取る。

 

「別に用紙ならここにもあるし」

「天衣……」

 

 その紙を広げてみるとそれは申請書だった。何度も広げたり折ったりしたのだろう。すっかりと角のよれてしまった女流棋士資格の申請用紙。その用紙のくたびれ具合に、そしてその紙を遠い山形県まで肌身離さず持っていたことに、俺は天衣の気持ちを汲み取っていた。そうせざるを得なかった。この少女の思いに不意に目頭が熱くなってしまう。

 

「別に深い意味はないから! たまたまポケットに入りっぱなしになっていただけよ!!」

「……そうだな。運が良かった。それじゃ早速書こうッ…………あ……」

「八一先生?」

 

 再び奇声を上げて固まる俺。当然天衣は訝しんでくる。

 

「すまん。書くものがなかった。部屋にあったかな? それともフロントで借りるか」

 

 腰を上げようとすると裾を天衣に掴まれ、止められる。

 

「天衣? どうした?」

「八一先生。これ」

 

 そう言って差し出してきた天衣の手にはペンがあった。

 

 

 ……天衣さん。準備イイっすね。さすがにこれは偶然で通すのは苦しいのでは……

 

 

 天衣は顔を伏せたまま決してこちらを見ようとしない。けれどその赤く染まった耳がどんな気持ちでいるのか如実に表していた。

 

 これは触れないのが武士の情けですね。

 

「おお! 運が良かった。それじゃ書こう。早速書こう!!」

 

 

 

 俺の名前の記入を済ませ、紙とペンを天衣に渡す。そして天衣がゆっくりと丁寧に自分の名前を記す。そしてそっと4つにたたむとそっと胸元に抱えた。その紙がとても、とても大事なものであるというように。

 だけどそのままではその用紙は真の効力を発揮しない。

 

「ちょうど良いことに月光会長がここにいるんだ。どうせだから打ち上げ会場で渡してしまおうぜ」

 

 そう言って受け取るための手を伸ばす俺。

 

「そうね」

 

 天衣はそう答えるが、名残惜しいのかその手はなかなか伸びてこない。

 ただ紙を受け渡すだけにしてはやたらと長い時間をかけ、その行為は完遂された。

 

 

 

 どこか寂しそうな天衣に俺はこれからが始まりだと声をかける。

 

「これからよろしくな。天衣」

 

 それに天衣も表情を満面の笑みに変えて答えてくれる。

 

「はい! 八一先生!!」

 

 

 

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