その便意が物語を変えた   作:ざんじばる

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前回、特に通知するのを忘れていましたが、第六章は試験的にこの時間に投稿時間を変更してお送りします。ご迷惑をおかけしますが、引き続きよろしくお願いします。


02.1月5日

「天衣…………んちゅーーー———ぐえッ!?」

 

 目を閉じ、唇を尖らせたところで腹部に強烈な圧迫感を覚え、俺はつぶれたカエルのような悲鳴を上げた。

 慌てて目を開ければ、そこには。

 

「おはようございます。ししょー」

 

 満面の笑顔の内弟子が。

 

「あ、あいさん?」

「もう朝ですよー」

「う、うん。それはいいんだけど、あいさんは何やって?」

 

 内弟子はなぜか横になっている俺の上に馬乗りになっている。さきほどの圧迫感は正体はこれだったらしい。

 

「師匠がいくら起こしても起きてくれないので最終手段に訴えていましたー」

「そ、そうか。それは申し訳ない」

 

 辺りを見回せば俺がいるのは病院の一室ではなく、いつもの俺の部屋だ。どうやら先ほどまでの光景は夢だったらしい。

 

 まあ、そうだよな。病院でロリコン扱いされ、シャルちゃんに手術されそうになった後に、天衣に告られてキスをせがまれるなんて状況、改めて考えると現実にあるわけない。フロイト先生やユング先生も苦笑いだ。

 

「ついさっきまで夢を見ていたくらいだから、随分深く眠っていたらしい。面倒かけたな」

「それは全然問題ないんですけど、夢ですかー……」

「うん? どうかしたか?」

 

 思案顔のあいに、何を気にしているのか問いかける。

 

「いえ。師匠、寝言で”あい”って呟いていたんですけど、夢に出ていたのはどっちの”あい”なのかなーと思って」

「え゛?」

「……どっちなんですか?」

 

 問い詰めてくるあいの瞳の奥には形容しがたいものがうごめいているように見える。

そう。先ほどからあいに無意識に『さん』付けしていたのは、笑顔をよそにその目がまったく笑っていないことに不穏なものを感じていたからだ。当然、つい今の今のことだから夢の内容は覚えている。覚えてはいるが、それをそのまま口に出すことが良くない展開につながることは何となく分かる。

 

「え、えっとー? どっちだったかなー? ほら、なんせ夢の中のことだから良く思い出せないなー?」

「……ふーん」

 

 ……疑いは全く晴れていないようですね。あいの目がすっと細くなる。

 

「ところで”あい”って呼んだ後、唇をすぼめてましたけど夢の中で何をしていたんですか?」

 

 おっとー? 夢の中の行動が現実の体にも表れてましたか。

 心なしかあいの目のギラギラが強くなった気がする。

 

「う、うーん? 口をすぼめて? 何だろうなー? ……そういえばジュースを出してもらってストローで飲んでたような気がするなー!!」

 

 必死に誤魔化す俺。

 

「…………」

 

 いかん。誤魔化しきれていない。

 

「ほら! せっかく起こしてくれたんだし早速準備しないとな!? 今日は年明け初のイベントだから!!」

「…………はいです。ししょー」

 

 無理矢理話を変える俺に、あいは渋々応じてくれたのだった。

 

 

 

 

 

 

 あいが用意してくれた雑煮を朝食として食べた後、予約していた商店街の美容院へ。小一時間ほどかけて振り袖姿の究極カワイイJSが誕生した。

 

「えへへー。どうですか、ししょー♡」

 

 そう言って、あいは俺の前でくるくると回ってみせる。

 ピンクのグラデーションが美しい生地に、桜や菊、梅といった日本を象徴する花々が鮮やかに咲き乱れる。いつも二つくくりにしている黒髪は、今日は念入りに梳いた上でおろされ、ともすれば華やかに過ぎる振り袖の色合いを引き締めていた。

 

「おー。これはまた……。間違いなくアイドル級だな。すごい似合ってるぞ、あい」

「そんなー。似合ってるだなんて……恥ずかしいですー♡」

 

 頬を押さえてもじもじするあい。かわいい。

 

「それじゃあ準備も整ったところで行くか」

「はい。ししょー」

 

 俺たちは準備万端、改めて目的地に向かい歩を進める。

 

 

 

 

 

 

 そうしてしばらく歩いた俺たちは、本日の目的地、関西将棋連盟にたどり着いた。

 目の前には見覚えのある黒塗りの車。あちらでも俺たちに気付いたのか運転席から晶さんが出てきた。そして後部座席のドアを開けるともう一人の彼女が姿を現す。

 

 

 こちらに背中を向けているその人を飾るのは貴色たる紫の振袖。大輪の辻が花が白や薄桃に咲き誇り、牡丹や桜も寄り添う。気品と可愛らしさが同居したデザインだ。彼女を象徴する艶やかな黒髪は、今日は三つ編みにした上でお団子にまとめられている。髪が上げられていることからいつもは隠れているうなじが露わになりその白さに初めて気付かされる。

 

 そして、彼女はゆっくりとこちらを振り向き———

 

「明けましておめでとうございます。八一先生」

 

 そう言って、ふんわりと微笑んだ。その姿は幻想的に過ぎてどこか現実感がない。俺を上目遣いに見上げてくるその姿。なぜか既視感を覚える。

 

『八一先生、大好きです。私を八一先生の彼女にして下さい』

 

 今朝の夢の一節が不意に脳内で再生され、既視感の正体に気付くとともに現実と夢の区別が一瞬曖昧になる。

 

 けれど現実の彼女は、夢の彼女とは異なり愛の言葉を囁くのではなく、不思議そうに首を傾けると。

 

「八一先生?」

 

 と、再度俺に呼びかけてきた。そこで惚けていた俺の意識はようやく正常に立ち返った。慌てて目の前の彼女———夜叉神天衣に挨拶を返す。

 

「あ、ああ。……明けましておめでとう。天衣。今年もよろしくな」

「はい。八一先生。こちらこそよろしくお願いします」

 

 俺の返事が返ったからか、天衣は再度笑みを浮かべる。そうしてしばし見つめ合う俺たちの背後からあいも挨拶の言葉を投げた。

 

「明けましておめでとう。天ちゃん」

「ええ。明けましておめでとう」

 

 二人はにこやかに挨拶を交わす。

 けれど、なぜか周囲の空気が緊迫したものをはらんだように感じる。

 

 なんでだ?

 

「今年も一年、よろしくね」

「ええ。こちらこそ」

 

 普通に年始の挨拶を交わしただけだと思うのだが。

 二人とも笑顔を浮かべたまま、お互いを見つめ合っている。いや、にらみ合っている? 何だか硬直してしまったかのようだが。

 

「先生。今年もよろしくな」

 

 天衣の一通りの挨拶が終わったと見た晶さんが俺に年始の挨拶をしてきた事でありがたいことにその謎の緊張は解けた。俺も晶さんに挨拶を返す。そして、

 

「さあ、みんな中に入ろう。今日から仕事始めだ」

 

 皆をビルの中へうながす。

 

 今日は1月5日。将棋界の正月休みは終わり、新年の始まりを告げるイベントが幕を開けようとしていた。

 

 


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