その便意が物語を変えた   作:ざんじばる

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07.ゴキゲン研究会 with 天衣

 はあ。酷い目に遭ったわ。

 ゴキゲンの湯の暖簾をくぐるとともに私は溜息を着いた。

 隣では八一先生も同じような仕草をしている。さすがに参っているみたいね。

 

 京橋の商店街をゴキゲンの湯に向かう途中で警察官に声を掛けられた私たち。

 どうやら私の格好はこの周辺では浮いてしまうようだ。大阪の中でもディープな地区である京橋には似つかわしくない富裕層らしき女子小学生。その子供と手をつないで歩く普通の格好をした男。ということで駅を出た直後から注目されていたらしい。そんな二人が繁華街方向に消えていく。これはもしや世慣れない女子小学生を言葉巧みにだまくらかし、金銭とそれからせ……もろもろ目的で拐かしているのではというストーリーがその警察官の中ではできあがっていたらしい。

 

 説得には多大な苦労を要した。いくら私が否定しても、『キミは騙されているんだ』とか『かばわなくてもいいんだよ』とか『これ以上ヤツには手出しさせないから、本当のことを言ってごらん』と言って聞いてくれないのだ。どころか、『クッ……。こんなに従順になるまで一体どんな仕打ちを……』『YESロリータNOタッチの掟を知らんのか、外道め!』『ロリコンの風上にも置けぬ卑夫よ!』などと勝手にヒートアップしていった。

 

 騒ぎ立てる警察官にやじ馬が集まり、その内容に顔をしかめて私たちを見ていた。有り体に言って酷い羞恥プレイだった。むしろあの警察官のほうをセクハラで訴えてもいいのではなかろうか。

 結局、八一先生が竜王であること、私が八一先生の弟子であることが説明されている記事をスマホで紹介して、ようやく解放してくれたのだった。

 それにしてもあの警察官、トヨタのミニバン車を八一先生が所有していないか執拗に聞いてきたのは何だったのかしら?

 

 

 

「遅かったな。八一にお嬢さん。銀子ちゃんはもう来てるぞ。……ってどうかしたのか二人とも。えらく疲れているように見えるが」

 

 二階から降りてきた生石玉将が肩を落とす私と八一先生を見て怪訝そうにしている。

 

「「いえ……」」

「何か知らんが、本番はこれからだ。よろしく頼むぜ二人とも」

「「はい……」」

 

 力なく答える私たちに更に怪訝そうにしながらも、生石玉将は私たちを先導するように二階の将棋道場へ戻っていった。

 

 

 

 

 

 

 ゴキゲンの湯は銭湯も将棋道場も臨時休業。生石玉将の後について二階にあがるとガランとしていた。部屋の中央に近い卓を囲むようにイスが設置され、将棋盤の前にはオバサンが座っている。

 

「待たせたな。銀子ちゃん。続けよう」

「はい」

 

 オバサンは私たちを一瞥したあと視線を盤上に戻す。生石玉将はオバサンの正面に腰を下ろした。私と八一先生も続き、卓の両隣に用意されたイスに着く。

 盤上には昨日の将棋の最初の分かれが再現されている。先に検討を始めていたらしい。

 

「この分かれはどうだった?」

「そこはもう、少し悪かったんじゃないでしょうか」

「構想自体が破綻してたか……使える手順だと思ったんだがな」

「やっぱり棒銀は狙いが単純すぎて対策されやすいんじゃないかと」

 

 早々に昨日の構想を『失敗』と結論付けようとする生石玉将とオバサン。

 向かい飛車に角交換四間飛車の感覚を持ち込んだ逆棒銀を活かす生石玉将の新構想。あまりに挑戦的な発想に私も驚かされた。惜しくも於鬼頭帝位に敗れてしまいはした。したが、昨日帰って一晩検討して見てもその魅力は色あせるものではなく、私の大局観を刺激していた。

 

「お嬢さんはどう思う?」

 

 そんな私の表情を読んだのか生石玉将が私にも発言をうながしてくる。

 

「……私はとても魅力的な構想だと思いました。きっと活かせる展開がどこかにあるんじゃないかと……少なくとも失敗と結論づけるにはまだ早いんじゃないかと思います」

「……具体的にどう展開させるのよ?」

「それは……」

 

 自分の直前の発言を否定する内容だったからか、オバサンが苛立ったように突っかかってくる。私はその問いに答えを返せず唇を噛む。

 そう。どう展開すれば良くなるのか。私の昨晩の検討はそこまで至っていなかった。けれど私の脳内将棋盤で並べたここまでの手順は確かな輝きを放っていた。その駒組みは縦横無尽に駆け巡る駒の利きを描く光の線で力強く連結され、更なる可能性を私に示していた。惜しむらくは昨日の私にはその可能性を形にする力がなかった。

 

「具体的なアイデアがないんじゃ———」

「いや。俺も天衣と同じ意見です」

 

 助け船を出してくれたのは八一先生だった。

 八一先生は盤上に手を伸ばし、局面を戻していく。

 

「昨日の生石さんの序盤を俺なりにアレンジしてみたんです。生石さん、受けきってみて下さい」

 

 そう言って八一先生はアイデアを盤上に再現していった。駒の利きが確かな意思を持って伸びていく。受ける生石玉将もそれを遮りにいくが、八一先生の示す手はその妨害をかいくぐり敵陣を侵していった。止めきれないと判断した段階で生石玉将は手を戻し、別の変化で防ぎにかかる。けれどその変化も想定済みなのだろう。八一先生が迷いない手でヒラリと躱すと生石玉将の守りをまた食い破るのだ。そんなことがざっと三時間。生石玉将が白旗を揚げるまで続いた。応酬は何度繰り返されただろうか。その無数の変化の中でもとうとう八一先生が止められることはなかった。

 

 あぁ……。やっぱり八一先生は凄い。私が形にすることができなかったこの構想の可能性。それを見事に盤上で示してみせたのだ。私が理想とする将棋。この道の遙か先を八一先生は行っている。その背中はまだまだ小さいけれどいつか追いつけるだろうか。同じ道を行く先達がいる喜びを私は噛みしめていた。

 

 

 

 

 

 

 八一先生の検討結果お披露目が一息つき、話題はソフトを使った研究方法に移っていた。あの竜王戦の逆転劇の原動力となったのもソフトを使った研究にあるとのことだった。

 けれど同時に八一先生は言う。ソフトの示す評価値や最善手は、そのまま実戦に持ち込むことはできない。コンピュータ将棋は、コンピュータの演算力があって初めて成立するのだと。

 人間は終盤でミスをする。ミスすることを前提に挽回できるよう相手より玉を固めるというのが現代将棋の出発点なのだと。

 

 そこで私は以前から腑に落ちていなかった点について質問することにした。

 

「八一先生。その点について前々から納得いかなかったことがあるのだけど」

「うん? なにがだ天衣?」

「人間は終盤にミスをするという前提……おかしくないかしら?」

「どういうことよ?」

 

 オバサンがそこで口を挟んでくる。何が言いたいのか理解できないという顔だ。一方の八一先生は黙って続きをうながす。

 

「人間は疲労するとミスをしやすくなる。だから終盤にミスをする可能性が高くなる。これは理解できるわ」

「ああ」

「でも、そもそも将棋は終盤に向かうほど取れる選択肢が少なくなる。つまり将棋というのは本来終盤に近づくほどミスが減少するゲームのはずだわ。理論上はね」

「「…………」」

「後は、疲労によるミスの発生と将棋の真理であるミスの減少を天秤にかけてどちらをとるかだけれど……自玉を固めるよりも攻め、あるいは全体のバランスに重きを置いて、終盤ミスなく寄り切るという戦略がもっと幅を利かせてもいいと思うのだけど」

「理屈としては分かるが……」

 

 私の意見に対して、生石玉将は渋い顔だ。同意はしかねるらしい。オバサンに至っては何を言っているのか理解できないという顔をしている。まるで化け物でも見るかのようね。

 でも八一先生は。

 

 

「奇遇だな。天衣。俺もそう思う」

 

 

 ニヤリと笑ってそう言ったのだった。

 

 




というわけで、八一のぶっ飛びぶりを見た天ちゃんの感想は非常に好意的なものになりました。
この辺り、同じ地点から出発して徐々に引き離されていく姉弟子と最初から遠く離れた背中を追う立場の天ちゃんでは受け取り方が変わるかなーと。
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