二月中旬。関東の将棋会館特別対局室には数多くの報道陣が詰めかけていた。執り行われるのはただの女流棋戦であるのにだ。その理由はこの一局が持つ特別な意味にある。マイナビ女子オープンの準決勝。対局者は夜叉神天衣女流一級と雛鶴あい女流一級。ともに小学四年生。
ということはだ。この対局にどちらが勝利するにしろ次のトーナメント決勝には10歳の女の子があがることとなる。もしかすると女流最年少タイトル獲得者に女流最年少挑戦者がぶつかるというドラマの前日譚となるかもしれない。その予感が人を引きつけている。
それだけじゃない。かたや女流タイトルホルダーを撃破してこの場に上がってきた。かたや女性奨励会員を撃破してこの場に上がってきた。そして奇しくも同じく九頭竜竜王門下。果たしてどちらの竜の子が強いのか。女子小学生最強はどちらなのかを占う場だとも言える。観衆の期待はいやが上にも高まっていた。
◇
「座りなよ。天ちゃん」
「…………」
妹弟子が殺気だった目で私を見上げながら対面を指す。下座を。
「あ。天ちゃんの方が姉弟子なんだから上座を譲ったほうがいいのかな?」
「結構よ。今日は年功序列ということで年寄りに譲るわ」
「…………ちッ」
「…………ふんッ」
今日は姉妹弟子対決ということで私は晶と。妹弟子はババアと。別行動をしていた。その中で早速先に対局室に入り上座を奪って先制攻撃をしかけてきた妹弟子に揶揄で返し下座につく。分かっていたことだが空気は最悪だ。
突き刺さる視線をまぶたを下ろすことでシャットアウト。対局開始に向けて集中力を高める。今日の一戦。空銀子を玉座から引きずり下ろすための過程であり、目の前の小娘に上下関係を叩き込むための大事な一局だ。あるいは後者のほうが遙かに重大かも知れない。将棋の腕はともかく、人間的には空銀子より雛鶴あいのほうが遙かにやっかいだろうから。
今日の対局は八一先生も見に来ている。弟子同士の対局ということでどちらにも肩入れできないからと今日は顔を合わせてもいないが。彼にも私のほうが上なのだと見せつけておく必要がある。
結論。絶対に叩き潰す。
「雛鶴先生、振り歩先です」
「……とが四枚です!」
上座に座る妹弟子が振り駒をする。私の先手か。
「時間となりましたので、夜叉神女流一級の先手番で対局を開始してください」
「「よろしくお願いします」」
◇
「いよいよどすなー」
「おいクズ。お前どっちの弟子応援するんだよ?」
「どっちってどっちも平等にですよ」
「けっ、八方美人め!」
「優等生的な発言でおざりますなぁ」
「いやいや。当たり前でしょう。どっちも大事な弟子なんだから贔屓なんてできませんよ」
「そういう建前はいいんだよ。ほら? ここだけの話しにしてやるから言ってみろよ」
「せやねー。こなたらの口は堅いって評判どすからなー」
嘘つけ。
弟子たちと近いところでふたりの対局を見守ろうと、東京連盟ビルの棋士室に出向いたら運悪く女流タイトルホルダーたちに捕まった。月夜見坂さんと供御飯さんだ。ふたりともなんだかんだこの対戦カードに興味があるらしい。供御飯さんは次の対戦相手として。月夜見坂さんは自分を倒した新世代女流棋士がどうなるのか気になるといったところだろうか。
「ほら。天衣が指しましたよ」
「8四歩か」
「天衣は角交換系の将棋が得意ですからね」
「ほんであいちゃんは飛車先の歩を突くと」
「あいは居飛車党で、なおかつ相懸かり大好きですからね」
「「竜王うざい」」
「……はい」
話題を切り替えるのには成功したが、今度は邪魔者扱いだ。解せぬ。
その後、天衣も飛車先の歩を突いて居飛車戦を明示。
10手目。7七角成。11手目。同銀。
あいが先んじて角交換をしかけた。
「白いのから角交換をしかけたか」
「竜王サン、あいちゃんにこの戦型も仕込んどるんどすかぁ?」
「いえ。俺の手を並べて研究はしているでしょうが、俺から鍛えたということは。……どちらかと言えば天衣が得意とする戦型ですね」
「ということはだ」
「挑発、どすなぁ」
二人の対局者の間で火花が散る。双方駒組みを進める。あいが早繰り銀で攻め手を作るのに対し、天衣は27手目5六銀を持って角交換腰掛銀の戦型とした。駒組みには二人の性格がよく出ている。あいは玉を金銀とともに上げ、攻防一体の陣としているのに対し、天衣は居玉のまま。薄い玉形だ。
28手目。7五歩。
あいからの歩の突き捨てでぶつかり合いが始まる。
◇
この子の持ち味はなんといっても圧倒的な読みの速さ。万全を期すならばどこかで読み筋を壊してやる必要がある。単調に進めるわけにはいかない。読みの範囲外へ飛び出す。どこにそのタイミングを持ってくるか。扇子を弄びながらその時を待つ。そこで妹弟子が話しかけてきた。
「いつも思うんだけどさー。天ちゃんのセンスって独特だよね」
「何のことよ?」
「その扇子だよ」
「だじゃれのつもり?」
「……ふん」
つまらないことを言うなとばかりに鼻で笑われた。
「その下手くそな字と微妙すぎるワードに決まってるよ」
「…………」
私の左手にある扇子。その揮毫は『出世魚』。パサッと閉じてその親骨を撫でる。
「酷いこと言うのね。お気に入りの大切な扇子なのに」
「お気に入り? 冗談のつもりで持ってたんじゃなかったんだ、それ。前持ってたのは『新鮮』と『活』だっけ。お魚屋さんにでもなりたいのかな、天ちゃんは?」
「……酷い」
改めて扇子を開いて口元を隠す。弧を描きそうになる唇を悟られないために。
「まあいいんじゃない。好みは人それぞれだから。天ちゃんにはお似合いだと思うよ」
妹弟子もこれ見よがしに自分の扇子を広げて扇ぐ。『勇気』と揮毫された扇子。
この子の突き捨てから始まった攻防。
29手目。同歩。同銀。2四歩。同歩。2五歩。8六歩。
ここね。さあ、嵐の時よ。
「それ、八一先生にもらったんだっけ?」
「うん? そうだよ。師匠からの揮毫入り。いいでしょー」
「そうね。……ところで私の扇子のこの落款、見覚えない?」
「はぁ? ……うん? うぅん!?」
「これ、八一先生が竜王襲位後に揮毫したものなの。ちなみに以前のは八一先生がプロ入りしたときのものと竜王挑戦を決めたときのものよ」
「…………」
「下手くそな字と微妙すぎるワードで魚屋だったかしら? ……本当酷いこと言うわよね。人の宝物に対して」
音を立てて扇子を閉じる。扇子に隠れた嘲笑が露わになる。そして次の手を指した。
正面から心地よい殺気が膨れあがるのを感じた。
◇
「ぅなッ!?」
「おいおい、そっちにいくかよ。普通!?」
「これで戦えるんでおざりましょうか?」
俺たち三人ともが驚愕する。
35手目。2四歩。
前の手で銀交換への道を誘ったあいに対して天衣が出した答えは、互いにと金を作りあおうという更に過激な誘い。受け将棋を持ち味とする天衣にしては攻め気に満ちた一手だった。
これにあいも燃え上がる。真っ向から攻め合った。
「お、受けて立った。面白れぇじゃねぇか」
「竜王サンのお弟子サンはどちらも怖おうおざりますなぁ」
「は、はは……」
さらに天衣が盤面をリードする一手を放つ。
41手目。6一角。
敵陣最奥に先んじて角を打ち込む。
そして43手目。飛車が走り竜が顕現する。
2三飛成。
◇
うっとうしい。
まずは食い込んで来た竜を追い払おう。
2二歩。
ノータイムで天ちゃんは角を切り飛ばしてくる。
5二角成。同飛。
ここで、ようやく竜が下がる。浮いたあいの銀を狙う小癪な位置取り。
47手目。2五竜。
無視して天ちゃんの陣を荒らす。天ちゃんの竜が銀を狩る。同時に7筋から再度の進行を企てている。先んじて奪った金で守りを強化。竜が8筋へ避ける。これも歩で受けにかかる。天ちゃんが手駒を打ち込んでぶつかり合いを要求する。
いいよ。そんなにここで殴り合いたいなら付き合ってあげる。
53手目。7四銀打。6二飛。7三金打。同桂。同銀成。5二飛。6三成銀。
結果、金と桂・歩を交換した。
それじゃあ今度はこっちの番だよ!
◇
飛車を咎める私の一手を手抜いて妹弟子の反撃が始まった。
7八のと金と絡めて攻撃してくる。
60手目。6八歩打。
でも攻め手が遅い。ここまで居玉のままでいたのを初めて動かす。
4九玉。
妹弟子はと金を増やす。
6九歩成。
遅い。2筋へ竜を振り替える。再侵攻と2七へ角を打ち込んでくる手を防ぐ攻防一体の手。妹弟子は一手遅れて角を打ち込んでくる。
65手目。1四角。
竜を下げる。と金が浮いていた桂を食う。銀ではなくそっちを選んだか。次はこちらの手番。
67手目。4五桂打。
攻め崩してやる。
◇
「「…………」」
二人の女流タイトルホルダーは目の前の対局についに沈黙していた。
盤上では壮絶な斬り合いが展開されている。
あいは桂の打ち込みで竜を咎めて天衣の足を止めようとするが、天衣はこれを無視。桂が跳ねる。
69手目。3三桂成。王手。
あいはあいで攻めが切れた一瞬で守りを固めるのではなくカウンターをかけにいく。
72手目。2七角。王手。
天衣はこの手を合駒で受けるのではなく玉をひょいとずらして躱す。この一手にあいは一旦玉を下げて守りに回る。天衣は対照的に飛車を取り込んで攻め手を充実させることを選んだ。そしてすぐさま盤上へ放つ。
77手目。7一飛。
これまでの全ての天衣の手が雄弁に語っている。
殺される前にお前を殺す。と。
弟子たちの意地がぶつかり合う。ただただ、熱い!
あいは馬を作って、天衣の玉へ圧力を高めるとともに竜との交換を迫る。けれど天衣はそれに付き合わない。今日の天衣はとことん攻め志向だ。さらに銀を打ち込んで竜を咎めようとするあいを無視して玉へ斬りかかる。
85手目。3三歩。王手。同桂。2四桂。連続王手。4二玉。2一銀。4四歩。
執拗にあいの陣を叩き続ける。まさか天衣がこんな将棋を指すなんて。もはや受け将棋がどうとかいうレベルじゃない。薄い玉形のまま斬り合いを厭わず、紙一重で先に斬り捨てる。これはまるで———
はっきりと分かった。
天衣の棋風は俺とよく似ている。おそらく、同じ方向を見て歩いている。
たまらなく嬉しかった。天衣の存在は俺にとっての奇跡だ。
◇
91手目。5五竜。
王手が途切れた瞬間に王の逃げ道を作ろうとする妹弟子を阻みに竜が走る。
「逃がさない」
「ぐッ……。なら先に殺すまでだよ!」
92手目。2七桂。王手。
「届かないわ」
「な……それで受かるの……?」
桂馬の懐へ飛び込んで躱す。万全の守りはいらない。妹弟子の玉を斬り殺すまで持てばいい。
「さっさと死んじゃえッ!」
98手目。2七馬。
玉の頭上に馬が飛び込んでくる。でも一手遠い。
99手目。1九玉。
「……裸玉」
「幕よ」
貴女の読みの力ならもう分かっているでしょう。どの手順に逃げようとも私より先に貴女が詰む。
妹弟子が歯噛みする。憎々しげにこちらを睨んでくる。そして渋々言葉を吐き出した。
「…………負けました」
「ありがとうございました」
妹弟子が唇を噛みながら頭を下げる。
鷹揚に礼を返す。
これで分かったでしょう。
受け将棋でも負けない。攻め将棋でも負けない。構想でも負けない。読み合いでも負けない。何一つ貴女が私を上回る部分なんてない。
竜王の一番弟子は。八一先生の一番は、私だ!!