「八一先生の昇級に乾杯♡」
「ありがとう、天衣」
軽く打ち合わせたワイングラスが澄んだ音を立てる。もちろん二人とも未成年なので中身はノンアルコールのぶどうジュースだが。爽やかな微発泡が喉をくすぐる。隣でグラスを傾ける天衣の喉がくぴりと動く様が妙に艶めかしく見えた。
ほどほどに喉を潤したところで二人ともグラスを置く。
「はぁ、凄く綺麗な景色ね」
俺の肩に頭を預けながら天衣がうっとりと呟く。
地上156メートルから見下ろす大阪の夜景。街と電車や車の灯りが幻想的な風景を生み出している。
お前の方が綺麗だ、なんて言ったらかえって冗談ぽくなってしまうだろうか。
「でも良かったの、八一先生? 先生のお祝いなのに逆に私にこんな。最上階のスイートなんて」
「大丈夫だよ、天衣。C級1組に昇格したからね。支配人が自動的にスイートを用意してくれたんだ。これくらい当たり前さ。そうC級1組ならね」
「素敵♡」
昇格が決まった後、俺は梅田の格式ある五つ星ホテルへ移動。天衣と合流した。そしてその最上階。ホテル名を冠した最上位のスイートでルームサービスを頼み、二人きりの昇格祝いを行っていたのだ。
「それに今日は特別な日だからな」
「ええ。八一先生が初昇格した日だものね」
「そんなことはたいしたことじゃないさ」
「え? それじゃあ特別な日っていったい……」
「今日は天衣の気持ちに応えたいと思って。ずっと待たせて悪かったな」
「あ……それじゃあ…………八一先生……」
「ああ。天衣。俺もお前のことが好きだ。俺の、恋人になってほしい」
「……八一……せん、せ……。…………ん」
天衣の瞳が万感の思いを湛え、潤む。その細い背をぐっと抱き寄せ、顎を持ち上げるとその唇に口づけを落とした。ふにっと柔らかい感触と暖かさが伝わる。数秒して名残惜しくも離す。ついに水位を超えたのかつぅーと涙が一筋流れた。
「んっ、八一先生。もう一度……———んむッ!?」
天衣のかわいいおねだりにたまらなくなった俺は再度唇を合わせるとそっと舌を差し込んだ。天衣が驚きに目を見開く。天衣の舌がビクッと跳ねた後、奥へ引き下がる。それを追いかけこちらから絡めた。最初は強ばっていた小さな舌もなで回している内にほぐれおずおずと前に出てくる。そして自分から絡みついてきた。二人だけの部屋にくちゅくちゅと水音が響く。
5分もそうしていただろうか。舌を絡めるのを止め、そっと離す。いかないでとばかりに追いかけてくるが、意思の力を総動員し振りほどいた。顔を離すと全景が明らかになる。舌を突きだしたまま頬を上気させている天衣。二人の間を銀の水糸がつないでいる。たまらない眺めだった。
「天衣。今日は帰したくない」
そっと囁く。意味を察して震える背中。
「いいの、八一先生?」
「もちろんさ。C級1組に昇級したら●行条例も●童福祉法も関係ないからね」
「すごい!!」
当然だ。俺はもうC級2組の底辺を這う棋士じゃない。C級1組なのだ。C級1組になれば給料だって上がるし、17歳と10歳で結婚できるし、婚前交渉もOKになるのだ。
「それじゃあ行こうか」
「はい。八一先生」
天衣の肩を抱いてベッドルームへ向かう。キングサイズの豪華なベッド。そこにそっと天衣を押し倒し———
っていう夢を見た。
本当は二人だけの祝勝会なんて開かれず、家でJS研のみんなとちょっとお祝いをしたらすぐに解散した。結局残ったのは姉弟子とあいだけ。しかも昇級できたものの他力で、おまけに直前の対局は負けとあって、空気はそうとう微妙だった。まああいはマイナビの準決で天衣に負けてからずっと微妙なんだが。
翌朝あいは学校に行き、姉弟子はおそらくそのまま連盟へ行った。俺は疲労で夕方くらいまで寝て今起きたわけだが。
「………………死にてぇ…………」
自分が逃げ込んでいた夢の世界のインモラルさと敗北の痛みを思い出し、俺は呻いた。C級1組になると10歳と結婚できるし、その、ごにょごにょもOKって何だよそれ……頭おかしいだろ……。
言葉にならないほどの罪悪感に打ちのめされつつスマホを確認しようとして。
「……へ」
「おはよう。八一先生」
イスに座ってこちらを眺めている天衣と目が合った。
◇
なんだこれ? 何が起きているんだ?
あの後、俺は食卓に座らされ混乱しながら待っていた。天衣は台所に引っ込み、なにかかちゃかちゃやっている。
そしてしばらくするとおぼんを抱えた天衣がやってきた。食卓に二人分の食事が並ぶ。白米、味噌汁、サラダそして肉じゃが。サラダ以外はどれも湯気を立てている。
配膳し終わった天衣が隣に座る。
「それじゃあ、食べましょうか」
「……えっと。その前にいろいろ疑問があるんだが」
「何よ、いったい?」
「それじゃあまず……これ、天衣が作ったのか?」
「それ以外に誰がいるのよ? 晶は今日は付いてきてないし、あの子もまだ帰ってきてないわよ」
「あー。えっと天衣って料理できたんだな」
「何よそれ。私だって料理の一つくらいできるわよ。小学校で家庭科の授業もあるんだし」
「そ、そうか」
そりゃそうか。お嬢様のイメージが先にたって、天衣が料理できるなんて思ってもいなかったけど。
「まあ、人に振る舞うのは初めてだけどね。家でも家事なんてすることないし」
「え、それじゃあなんで?」
「なんでって、その。……八一先生の昇級祝いもしたかったし。こういう時は手料理がいいのかなって。たいしたものが作れるわけじゃないけどね」
「天衣……」
「さあ、召し上がれ」
「ああ。いただきます」
肉じゃがを口に運ぶ。
「うまい」
「そ」
天衣からの反応は素っ気ない。けれどどれだけ思いを込めて作ってくれていたのかはよく分かる。野菜の形は不揃い。味付けはレシピに忠実に。あいのようにとんでもなく美味しいということはない。けれど料理に不慣れな女の子が俺のために苦労しながら作ってくれた。その光景がありありと浮かぶ料理だった。
その気持ちはとても嬉しい。だけど。だからこそ昨日の対局の結果が情けなかった。ほぼほぼ食べ終わったところで口を開く。
「すまん。こんなにしてくれたのにダサい上がり方で」
「そうね」
自分から言っておいて天衣から肯定が返ってきたことに傷つく。けれど慰められれば慰められたで反発する。
「まあでもいいんじゃないの。昇級できたんだから」
「いいわけあるかッ! あんな情けないッ!」
「…………」
「……あ、いや、すまん。急に大きい声出して」
「いいの。気にしてない。それより私としてはさっきの寝言のほうが気になるわね」
「寝言? ………………寝言!?」
まさか!? さっきの夢の内容、寝言で口にしてたのか!?
「あのー。天衣さん? 俺の寝言って……俺、何を口にしてた?」
「そうね。『今日は天衣の気持ちに応えたいと思って。ずっと待たせて悪かったな』って。何を待たせていたのかしら?」
「………………」
おうふ。これはまずい。いや、最後の辺りのとんでもない部分よりはよかったのかもしれないが、これもまずい。
きっとあんな夢を見た根源がここなのだろう。もともとこの前の天衣の告白に対する答えは決まっていた。けれど弟子同士の直接対決の前にどちらか一方を特別な扱いにすることは師匠としてできなかった。それにどうせならついでに昇級してからという気持ちもあった。
それがこのざまだ。
天衣の気持ちに答えようという思いはしぼみきっていた。情けなさばかりが募る。
「天衣はどうしてそんなに、俺のことを……」
「仕方ないじゃない。好きになっちゃったんだから」
「……あんだけイキっておいて、あっさり負けるような情けないやつなんて好きになるなよ」
「私が情けない男を好きになって何が悪いのよ」
「悪いよ。こんな格好悪い奴。お前に相応しくなんて———」
「そんなの知らないわ。私は先生の採点係じゃないもの。そもそも八一先生が格好悪いのなんて今に始まったことじゃないでしょ」
「んなッ!?」
「まだ一年も経ってないのにもう忘れてしまったの? 八一先生に初めて会った時なんて11連敗中だったじゃない。それに較べれば1敗くらいなによ」
開いた口を閉じられない。
「何よ、その顔? え? まさか八一先生、自分が格好いいから私が惚れたとでも思ってたの?」
思ってたよ。
「冗談でしょ? 正直ぜんぜん好みの顔じゃないし、女関係はだらしなさすぎるし、将棋バカだし服のセンスに至っては最悪だし、何より鈍感だし———」
もう止めてあげて。師匠のライフはとっくに0よ。
「けど、今も八一先生のことを思うだけで——熱い」
「ッ!」
天衣は滔々と、けれど思いを込めて語る。
「私にも理由なんて分からないわ。お父さまからの刷り込みのせいかもしれないし、貴方が竜王だからかもしれない。貴方が
「…………………」
「もう何がきっかけだったのかも分からないけれど、少なくとも貴方が完璧な存在だったから好きになったのではないわ。それどころか完璧からはほど遠い存在よ。貴方は。負けたら悔しがって、泣いて喚いて、それでも前を向くのを止めない。根っからの挑戦者」
「……………」
「そして、私が世界で一番憧れている棋士で…………初めて好きになった人」
「…………」
「たった10年しか生きていない小娘の戯言だけれど、きっとこの思いは一生ものよ。これ以上の恋なんてない。そう確信してる。だからこんな失敗くらいで冷めたりしないわ。諦めなさい」
「……天衣」
「だから聞かせて。寝言の続きの言葉を。いつぞやは逃げを許したけど今日はダメよ。今言いなさい」
詰んだ。俺の完敗だ。だけれどこのままじゃ師匠として、男として情けなさ過ぎる。亭主関白を志す俺としてはせめて形作りが必要だ。
「…………………………天衣。俺もお前のことが好きだ。俺の、恋人に“なれ”」
「——————はい。八一先生」