海を見下ろす斜面に建てられた墓所の奥。私は父と母の墓標に向かって話しかけていた。小一時間ほどお父さまに向かい話し続けた後、今度はお母さまに語りかけた。
「ご存じですか? 私は今『神戸のシンデレラ』って呼ばれているんですよ? 笑ってしまいますよね。私がシンデレラなんて……お母さまは嬉しいですか?」
黒い墓石に向かって問いかける。お母さまは……笑ってくれた気がした。あの時と同じように。
「そうですね。実は私も今ではこのニックネーム、割と気に入ってるんです。今の私は信じられるんです。たとえ灰に塗れても、その中から立ち上がってお姫様になれるって。そして王子様と出会って恋に落ちるような……そんな世界を」
そもそも私には人を好きになる気持ちが分からない。なんてそんなことを思っていた。自分の他は全て敵。それが勝負の世界で、私はそんな潔癖な部分を好いている。だから恋というモノを知らない。そんなふうに考えていたけれど。なんのことはない。恋は最初からこの胸の中にあった。
「お母さま。好きな人ができました。ううん。それどころかもうその人に思いを伝えて。受け入れてもらって。……付き合い始めています。報告が遅くなってごめんなさい。お母さまは喜んでくれますか?」
お母さまの笑顔がさらに深くなった……ような気がする。きっとそう。だってお母さまは恋とかそういうお話が大好きだから。娘の恋愛話なんて大好物だと思う。
「お父さまは私にはまだ早いなんて言うでしょうか。でも相手のことを教えたらきっと許してくれると思います。それどころか喜んでくれるかも。よくやったって」
そもそもお父さまがこの恋のきっかけなのだから。当時1歳だか2歳だかの私に散々八一先生のことを刷り込んだのはお父さまだ。少なくともお父さまに反対する権利はないと思う。間違いない。
「さあ、そろそろ行かないと。次に来るときには必ず……必ず、女王のタイトルをお供えします。私たち三人の夢を」
相手は歴史上最強の女棋士。けれどこの胸に不安はない。必勝を両親に誓った。
「恋をした女の子は強くなるなんて言いますけど。なら恋を実らせた女の子は無敵です。絶対に負けません。待っていてください」
私はそう言って、斜面を下りていく。振り向くことはしない。坂を上る時は背中を押してくれた風が今、風向きを変え、再び背中を押してくれていた。
◇
3月のとある日。女王戦開幕を目前に控え、天衣への開戦前最後の指導を行っていた。二人して盤に向かっている。
「それで八一先生。ここなんだけど」
局面は居飛車対抗形の最新の課題局面。が、俺はびっくりするほど集中できないでいた。それというのも。
「こういう展開はどうかと思うんだけど……先生。八一先生ッ」
「あ、ああ。すまんすまん。そうだなぁ。ならこう応じるとどうだ」
「ああ……なるほど」
俺の股間の上に乗っかった、ぷりぷりと弾力のある小尻のせいだった。
俺と天衣。二人とも将棋盤の前にいる。けれど挟んでいるのではなく、俺も天衣も同じ側にいた。どういうことかというと。あぐらをかいた俺の上に天衣が乗っかっているのだ。
密着した天衣の髪や肌からは男心をビンビンと刺激するいい香りがして、いつ俺の息子が目を覚ますか気が気でない。とにかくより高度な将棋の話をして、自身の意識を逸らす必要がある。
「そうだ、天衣。姉弟子との対局、どうしていくか既に構想は固まってきてるのか?」
「ん? そうね。例えば後手番ならこうかしら」
そう言って並べていくのは、これは———
「後手番角頭歩? 本気か?」
「ええ。もちろん」
天衣は俺を見上げながらにんまりと悪戯っぽい笑みを浮かべている。自信ありってことか。なら一つ試してみるか。
「供御飯さん相手に使わなかっただろ? 欠点は改良できてるのか」
代わって先手側を俺が持ち、持久戦になる手筋を並べる。天衣もスイスイと手を進めていく。やはり対策済みらしい。そして出現した局面は。
「どう? こんな形なんて八一先生の好みじゃないかしら?」
「…………さすが彼女。俺の好みどんぴしゃだよ」
「嬉しい」
そう言って花のような笑みを浮かべる天衣。けれど嬉しいのは俺のほうだ。だってこんなの奇跡だろ? 棋風なんてのは千差万別だ。師弟ですら棋風が共通なんて事例を俺は知らない。それがどうだ。恋人で弟子の彼女と俺は。
「いいものを見せてもらったお礼じゃないけど、これを見てくれ」
今後は俺が最初から手を並べる。まもなく最強の振り飛車党に挑む俺のとっておきの一振り。そして出現するある局面。
「ああ……素敵。すごく素敵だわ。八一先生」
「だろ?」
天衣は恍惚とした吐息を漏らした。
それからしばらく。二人で研究を進めた。俺たち二人共通のテーマである、とある局面からの展開を煮詰めていく。あらゆる展開を試し、変化を試み、問題点を洗い出していく。気付けば数時間が経っていた。そして。
「おなかすいたわ」
「そうか」
「おなかすいた!」
足をバタバタさせる天衣。珍しく子供っぽい仕草だ。でもまあそうか。夢中になって気付かなかったけどもういい時間だ。
「それじゃ出前でも取るか」
だが、バンバンと足を叩かれる。そうじゃないらしい。
「ん!」
そう言って自分の口を指し示す天衣。ああ。なるほど。
「こうか?」
「んぅ」
天衣の口に一つキスを落とす。そろそろ将棋の時間は終わり、求めていたのは恋人としての時間だったらしい。
「どうだ。うまいか?」
俺の問いかけに、天衣は頬を染め上げ、ほぉっと溜息を着きながら頷いた。その様がずぎゅぅぅぅぅうんっっ!! と胸を締め付ける。可愛すぎやろ。こんなの。
「んむ? んむぅぅぅ!?」
この後、天衣の唇を無茶苦茶貪った。辛抱たまらんかった。
◇
「天衣、じゃなかった挑戦者はまだ体も小さいですからね。もうちょっと小さい盤の方がいいんじゃないですか?」
女王戦第一局前日。明日の舞台となる通天閣に見聞のために訪れた俺は用意された将棋盤を見てそう提案した。本因坊秀埋が提供してくれたというその盤はどう見ても8寸盤に近い。足を含めて30cmは10代の女の子、特に天衣には過剰だ。だからそう提案したのだが。
「そうね」
先に同意したのは天衣ではなく姉弟子だった。が、もろもろ残念なことに大人としての発言ではなく。
「いっそ子供用の盤を用意してもらったら? 『どうぶつしょうぎ』とかちょうどいいんじゃない?」
単なる挑発だった。これに限った話ではなく、見聞の始めから嫌みの連発だ。タイトルホルダーとしてもう少し鷹揚な態度は取れないものなのだろうか。非常に大人げない。
それに対して天衣は。
「そうですね。それじゃあお言葉に甘えて。さすがに『どうぶつしょうぎ』とは言いませんが、七寸盤とか、できれば六寸盤に変えていただけますか」
「はい。夜叉神先生。すぐに用意します」
この態度。姉弟子も見習って欲しい。15歳と10歳のはずだが、これじゃどっちが大人かわからんぜ。
「……いやに素直じゃない」
「そうですか? せっかく師匠が気遣ってくださってるので」
そう言ってふんわりとした笑みを浮かべて俺を見上げてくる天衣。かわいい。
「なにロリにニヤニヤしてんだクズ。ぶち殺すぞわれ?」
こえぇぇ。触らぬ神に祟りなし。とりあえず無視しておこう。
「七寸盤しかなければ、明日は少し厚めの座布団を用意してもらうということで」
「承知しました。竜王」
が。さらに突っかかってくる姉弟子。
「どうせなら座布団の他に子供用のイスも用意してもらったら? それとも優しい師匠のお膝に乗せてもらって対局する? 私は構わないけど」
おいこら銀子。さっきから毒吐きすぎだろ。なぜか俺のことも刺しに来てるし。
「いいんですか?」
「は?」
姉弟子の挑発にけれど天衣は意外な反応を返した。ってえぇ!?
「それじゃあお言葉に甘えて、そうさせていただこうかしら」
「……あんた何言ってんの?」
「何言ってるも何も、空先生が言い出したんじゃないですか。八一先生の膝に座って対局しても構わないって」
「…………正気?」
「ええ。最近の指導ではいつもその体勢で指しているのでリラックスして対局できるかなって」
瞬間、対局室となるこの場、通天閣の三階がざわついた。
「……今、指導の時はいつも膝の上に座ってるって言ったよな……?」
「JSをいつも膝の上に乗せている……だと……?」
「『神戸のシンデレラ』にそんな……完全に職権乱用だろ……」
「……夜叉神先生のお尻の感触を味わいながらの指導……許せん…………!」
「速報打たないと(使命感)」
誤報ゥ——!! ……じゃないけど、らめぇぇぇ!!
そして時間差で出現する殺気。その主がギヌロンッと睨んでくるが必死に視線を逸らす。背後でも「し~しょ~う?」という声とともに殺気が発生してるので目のやり場に困るが。
そして、この混乱を巻き起こした天衣はパンッと一つ手を打ち鳴らして注目を集めると。
「冗談です」
否定してくれた。場は沈静化に向かう。けれど止せばいいのに追求する姉弟子。
「……どっちがよ?」
「さぁ? 少なくとも明日、師匠の膝に座って指すというのは冗談ですが、もう一つの方はどうでしょうか?」
「八一?」
「き、揮毫に行きましょう揮毫に! 女王と挑戦者には、今日の前夜祭でお客様にプレゼントするための色紙を書いていただきまーす!」
必死に場を流す俺だが、これは悪手だったらしい。姉弟子の中で疑惑が事実に格上げしてしまった。
「頓死しろ、ロリ王!」
二人の前に筆と墨が用意され揮毫の準備が整う。それぞれ筆を握り墨に浸すと姉弟子は荒々しく叩きつけるように。天衣は一画一画丁寧に走らせていった。
『駆除』 女王 空銀子
『絆』 女流二段 夜叉神天衣
姉弟子ェ。そして意外な天衣のチョイス。この後の前夜祭ではそれぞれ意図する所を聞いていいくことになる。正直、姉弟子のは聞きたくないんだが……。
◇
「もうすっかり春ですね。暖かくなって小バエが湧いてきたので、さっさと駆除したいと思います」
やっぱりねぇ……。実にげんなりさせられる。対して天衣は大人だった。臨時で前夜祭の司会をさせられてる俺の心のオアシス。マイスイートハート♡
「本格的に将棋の道に入ってまだ1年経ちませんが、このような場まで来ることができました。これもここに集まってくださった方を始め、私を応援してくれたみなさんのおかげです。このタイトル戦は、それら私に差し出された有形・無形のたくさんの手をしっかりと握って絆として結実させるものとしたいと思います」
天衣のファンとして駆けつけた人もそうでない人も、弱冠10歳の、けれど大きな才能を眩そうに眺めている。天衣の眼差しが俺に注がれていることがとても心地良い。話を進める。
「絆といえば、空女王は夜叉神さんの同門に当たるわけですが、その辺りはどのようにとらえられていますか?」
「そうですね。やりづらさみたいなものは本当になくて。ポジディブにとらえています。偉大すぎる大先輩ですが、胸を借りるつもりで———」
そこまで言ってチラリと姉弟子を見る天衣。
「いえ。必ずタイトルを奪うという気持ちで戦います」
「おい。なんでそこで言い換えた?」
天衣の立派なスピーチに何か気にくわないことがあったらしい姉弟子。
「対局する以上は例え上手相手であっても必勝を期して戦うのが礼儀だと思いましたので」
「……本音は?」
更なる姉弟子の追求に天衣はニッコリと笑って———
「借りるほどなかったので」
毒を吐いた。
周囲爆笑。姉弟子大激怒。
「ぶち殺すぞ、小童ァァァァ!!」
「姉弟子! 姉弟子落ち着いてくださいィィ! 前夜祭! 前夜祭だからァァ!!」
あわや大惨事となりそうだったので対局者二人は即時撤収。両対局者挨拶直後には主役がいなくなるという前代未聞の前夜祭となった。
胃が痛ぇ……
来週は山に自然破壊に行かないといけないのでおそらく休載となります。
まあ、今週いつもの倍近く書いたので許してクレメンス。