通天閣の三階。この場にはたくさんの人が集っていた。そのことがこれから始まる一戦に対する注目度の高さを物語っていた。とりまく群衆の中心には将棋盤が一面鎮座している。
その将棋盤を挟むように二人の人間が向かい合っていた。上座にはタイトルホルダー。紺色の生地に大輪の朝顔が咲く振袖を纏った白銀の少女。そして対面には挑戦者。紅黒の地に薄桃の桜が密やかに咲く振袖に袖を通した漆黒の少女。いつも下ろしている艶やかな黒髪はポニーテールに結い上げ、対照的に白いうなじを晒していた。
姉弟子が自分のタイミングで駒を並べ始めた。追随する天衣の手つきにもよどみがない。実に堂に入った様だった。勝負への入りは互角。
「振り駒です」
言って、奨励会員の記録係が駒を振った。パララララ……と音を立てながら駒が転がり。
「歩が5枚です」
「ふがごまい。せんては……」
観戦記者の役を仰せつかっているあいが横でメモをとっている。周囲ではおぉっとどよめきが漏れる。先手は———女王、空銀子。
「時間やな。ほな始めてもらおか」
立会人の蔵王先生に促され、両者無言で頭を下げる。フラッシュが二人を照らす。そして先手の姉弟子が盤上に手を伸ばし、淡々と角道を開けると、飲み物を一口。口内を湿らせた。
◇
「いよいよ始まりましたねー」
両者が初手を指し終わり、俺たちは場所を対局室から大盤解説場に移した。姉弟子と弟子の対局とあって解説を頼まれていたからだ。そして俺と相対する聞き手は。
「へッ。銀子の次の手は飛車先の歩。意外性も何もねぇ居飛車戦明示か」
攻める大天使こと月夜見坂女流玉将だ。二人と因縁がある実力者だと言う理由から俺が指名した。それに理由はもう一つある。
対局室の中継映像では、両者角道を開けた後の三手目。姉弟子が飛車先の歩を突いたところが映し出されていた。
「おいクズ。黒髪チビがどんな戦型を選ぶつもりか聞いてんのか?」
月夜見坂さんは相変わらず口が悪い。本当にぶれないなこの人は。雑誌に掲載する手記なんかは綺麗な言葉遣いで書くのにな。
「ええ。一応は。月夜見坂さんに聞き手に来てもらったのはそれも理由の一つで」
「あん? そいつはまさか……」
月夜見坂さんが怪訝な顔で呟いたその時、観衆がざわめいた。映像の中で挑戦者が次の手を指したのだ。その手は———
「どうやらそのまさかが出たようですね」
「かッ———」
月夜見坂さんも会場のみんなも、みなが天衣の一手に驚愕する。そう。天衣のその一手は。
「「角頭歩ッ!?」」
角頭の歩を突く一手。まさかの奇襲戦法!
「……へッ。だからオレを聞き手で呼んだってか? 舐めた真似すんじゃねぇか?」
「女王がこの将棋、どう受けるのか。それで結果どうなるのか、気になるでしょう?」
月夜見坂さんの獰猛な笑みに、こちらも挑発的な笑顔を返す。それに対して、月夜見坂さんは大駒を掴み。
「少なくとも銀子がこの将棋をどう受けるかは分かるぜ。こうだ」
6八玉。左辺の守備陣構築を急ぐ一手。持久戦だ。観衆がほぉと唸る。さすが。俺と同じ読みだ。一度やられた以上は対策をしているか。映像の中の姉弟子も同じ一手を指した。
「後手番角頭歩は乱戦への誘いだ。それに銀子が乗らなかったときにどうすんのか。そのアイデアはアイツにあるのか?」
「あるから指したんでしょう。まあ期待して見守りましょう」
俺の一言に月夜見坂さんは面白くなさそうに腕を組み唸る。観衆は息を呑み映像を見つめる。会場が静まりかえった。天衣のその一手を心待ちにして。
けれど。先に会場の沈黙を破らせたのは天衣ではなく姉弟子だった。10手目2二飛と天衣が飛車を振った直後の11手目。
7七角。自陣角!
「ここで自陣角だぁ?……銀子のヤツ」
ギリリと歯噛みする月夜見坂さん。姉弟子のこの一手の凄みを即座に理解できるあたり、やはり彼女も実力ある棋士だ。
「ええ。7七角は後手の駒組みも牽制した積極的な一手です。これを放置はできませんので後手は3三角と自分も角を手放さずにはいられません」
けれど姉弟子。その一手。天衣の事前の想定範囲を出ていませんよ。
天衣は早々に角を手放す選択。そして互いの手は進んでいく。天衣から再度角交換を仕掛け、手損が解消されないまま駒組みが進む。そして運命の32手目。選んだ駒は銀。そして出現する局面はあの時と同じ。それは!
4二銀型———角交換向かい飛車!
◇
「これ、いいでしょ?」
指し終えた銀駒から指を離しながら、目の前の女に問いかけた。挑発の意味も込めて唇の片端を吊り上げて見せながら。
「あの人の好み……どんぴしゃですって」
「ッ……」
空銀子の鉄面皮がピクリと揺れた。角頭歩にはなんの反応も示さなかったけれどこれは効いたか。カオスを起こしてその中心でサーフィンするような、いかにも八一先生好みのこの局面。彼女にとって力の象徴である九頭竜八一を思わせるこの棋風に激発するか、あるいは萎縮するか。きっとそれは———
◇
「おいクズ」
「はい? なんです? 月夜見坂さん?」
「今、黒髪クソチビが何か言ってなかったか?」
「へ? な、何をです?」
「人の好みがどうとかって……」
「き、気のせいじゃないっすか?」
「チッ……適当抜かしやがる」
「とか何とか言ってる間に見てください!」
「あん……コイツは?」
36手目。4二飛。
「……千日手か」
「ですね。でそうな展開です」
37手目。4八飛。
38手目。2二飛。
「銀子が女流相手に千日手になったこと何かあったか?」
「……いえ。ありませんね。自ら打開して、その上で勝ってきたはずです」
先手番に置いての千日手は負けに等しいと言われる。先手の方が有利な立ち位置だからだ。後手にとっては有利に対局を再開できるため、千日手狙いも立派な戦術だが。
39手目。2八飛。
40手目。4二飛。
けれど、姉弟子は打開できない。そうすれば負ける。そう姉弟子が考えている証左だ。
「姉弟子は認めたんです。この局面で打開したら負けると。夜叉神天衣は今までの挑戦者の中で最も手強い相手だと」
41手目。4八飛。
周囲がざわざわし出す。あの無敗の白雪姫が先手番で千日手に逃げるなんて、と。
「灰被り姫が、白雪姫に灰色の星を付けた……ってか」
月夜見坂さんが面白くもなさそうに吐き捨てる。けれど本当の驚愕はこの直後に訪れた。
42手目。4五歩!
「「後手から打開したッ!?」」
俺と月夜見坂さんの、そして観衆の驚きの叫びが重なった。そう。この一手は俺にとっても驚きだった。千日手による指し直し狙い。先日の研究会では天衣の狙いはここまでだったはずだ。
その後の僅かな時間で後手から仕掛けて勝てるところまで持っていったって言うのか!?
◇
「……何のつもり?」
私の一手に空銀子が問いかけてくる。目つきは険しい。
「別に? オバサンをあまり苛めるのも可哀想かと思って。どうぞお気になさらず? 私はこのまま進めても問題ないから」
「ぬかせッ」
43手目。同歩。
空銀子は吐き捨てて手を進めた。貴女は打開できない。でも私ならできる。どちらが上かを格付ける一手。それに怒りを示して。
もちろん千日手を選んで手番を入れ替える方がより確実ではある。ここからの形勢はひどく際どい。私の大局観はそれでもいけると示しているが。けれどあの選択には意味があった。盤上真理を追う以上の意味が。これが女王戦を制するための最後のピース。
その怒りの表情。その裏にあるのは本当に憤怒だけかしら? 空銀子!!
◇
「———熱い」
思わず俺は呟いていた。
天衣が千日手を打開したその一手から盤上での争いは一気に激しさを増した。イニシアティブをとったのは後手の天衣だ。
46手目。4五飛。
飛車で敵陣を食い破りにかかる。姉弟子が銀を操って追い払うと、次は手持ちの角を敵陣深くに放り込んだ。
52手目。3九角。
姉弟子の飛車を咎める一手。飛車が身を躱すと歩を喰らって馬を作った。
54手目。6六角成。
かと思えばせっかく作った馬を手放すのを躊躇しない。
61手目。5七角
これに対してノータイムで同馬。切り飛ばして見せた。そしてまたも角を先に盤上へ打ち付ける。
68手目。3九角。
姉弟子の飛車が再度躱し、今度は天衣の桂馬が飛び込んでくる。
70手目。5七桂成。
金取りのこの手を姉弟子は手抜いて飛車を走らせ、最強の駒、竜を作る。天衣はこれを無視して金を取り込む。姉弟子はこれを同金。一旦天衣の攻勢を断ち切った。
75手目。1五角。
今度は姉弟子が天衣の飛車を咎めて揺さぶりをかける。けれど天衣は対策をとるどころか、1四歩として自ら角と飛車の交換を強要した。どこまでも強気だ。そして天衣の攻めが再開する。
80手目。5七金。
姉弟子の同金に対して同角成。本日三度目の馬の出現。姉弟子は守りを剥がされた玉の横に金を打って守りを固めるが、天衣も同じく金を打ち込んでプレッシャーをかける。金が交換され、馬が姉弟子の玉へ寄る。
87手目。7八金。6九金。7九香。5七角。
互いに手駒を密集地帯に打ち込んで激突に備える。先に姉弟子が仕掛けた。
91手目。6八金。同角成。
ここで再度駒が打ち込まれる。
92手目。4六角。5七金。7八飛。
「コイツは……どっちがいいんだ?」
月夜見坂さんが呟く。無理もない。形勢はひどく細かい。攻めが成立するのか、守りが支えきれるのか。けれど。
「現状、後手がいいです。けれどこの攻めだけでは寄せきれません。その先の手順を間違えると先手が巻き返します」
「……ッ」
解説しているうちに今度は先に天衣が仕掛けた。
◇
96手目。7九金。同飛。同馬王手。同玉。
双方の駒が対消滅を起こし、空銀子の玉周辺に空白地帯が生まれる。この攻防だけでは攻めきれなかった。でも問題ない。これも読み筋だ。大切なのは攻守のバランス。
100手目。5六金。
先んじて相手の攻めの基点となり得る角と銀に圧力を加える。たぶんここは手抜いてくる。
101手目。5四歩。
やっぱりね。銀を下げる。ここは固い。そうそう抜かれることはない。空銀子もそう判断したのか、桂馬を打ち込んで玉頭へプレッシャーをかけてきた。ここで手抜く余裕が生まれる。先ほどの金で角を取り込む。さあ、もう一度よ。
106手目。5七角王手。8八玉。5八飛王手。7八金。
そして、110手目。7五角成。
「角を切り飛ばした!? 桂馬と交換する形で!?」
歩の前に馬を晒した私の一手に驚く空銀子。問題ない。あの桂馬を取り去れるなら馬を捌く価値は十分ある。次は銀を落とす。攻守のバランスを維持する。この対局はまだまだ終わらない。
「さっさと倒れろ、なんて無粋なことは言わないわ。さあ。もっともっと踊り続けましょう?」
ほんの少しでもバランスを崩せばたちまち落命するタイトロープダンス。私が渡りきれなければ貴女の勝ち。でも…………渡りきれたなら私の勝ちよ?
「小童ァァァッ!!」
「来なさいッ!」
◇
姉弟子が逆撃を仕掛けた。竜を二段に降ろして横撃を示唆する。天衣はすぐさま4一へ歩を打って跳ね返す。金底の歩は岩よりも堅い。それは姉弟子も承知の上だろう。今度は歩を前進させて玉頭を脅かす。天衣は同銀としてこれを凌ぐ。
さらに姉弟子の攻勢が続く。
117手目。5三歩成。同銀。4三角。
竜からの壁になっていて動けない天衣の金の頭上に叩きつける大胆な角打ち。これに対して天衣は。角の道を塞ぐでもなくその進路から金をひょいっと横にずらして対処した。
「それで受かってるのか……!?」
月夜見坂さんの言うように一見手緩い対応に見える。後々に災いを招きそうな。できれば角の進路を塞いでしまいたくなるところだ。けれど。
「いえ。あの位置で対処可能です。むしろ側面・上方双方からの攻撃に睨みを利かせることができる積極的な一手です」
俺の解説に観衆が歓声を上げる。姉弟子は玉頭へ、そして次はまた側面へ。揺さぶりを続ける。けれど手が遠い。天衣も手抜いて攻撃を仕掛ける。
124手目。6六桂。
これを姉弟子も金を一マス下げるだけで凌げば、今度は天衣が玉の頭上へ歩を叩きつけていく。それを姉弟子が手抜いて逆撃。8筋で向かい合う二人の玉の間で壮絶な殴りあいが展開される。
127手目。8三歩王手。
天衣は7筋へ玉を逃がすだけで対処を終えた。その間に姉弟子は8六銀として頭上の歩を除く。
130手目。8五歩。同桂。7五銀。8七角成。8六銀。同馬。7五銀打。9七馬。8六香。8七銀。同香成。同角成。8六歩。同馬。同銀。同馬。
壮絶な殴り合いが続く。一進一退を入れながらも双方譲らない。二人とももう分かっている。7筋・8筋の四から六段にかけて。この領域を制したものが勝利を掴む。だからこそ。
◇
しぶとい……分かっていたことではあるけれど。いい加減嫌になるしぶとさだ。
空銀子の序盤戦術に光るものはない。だからこそ序盤の構想力の差で後手番の不利を跳ね返した。中盤にははっきりと緩手があった。そこで私が優位に立った。そこからずっと優位は譲っていないが押し切れてもいない。どころか、ともすればこちらの首を跳ね飛ばされかねない状況にある。
空銀子はその瞳を真っ青に染めながら、押し返そうと圧力をかけてくる。まるで心のない巨人のように。
けれど。
そうではない。彼女は決して無謬の存在なんかではない。無敵の巨人なんかでは断じてない!
過去の彼女の戦歴が、ここまでの棋譜がそう物語っている。
譲るな。一歩たりとも。
空銀子に分からせろ。刷り込め。私の方が上なんだと。
「……さっさと潰れろ」
「はッ。まだわかっていないの? ことここに至ってアンタに余裕なんかない。私たちはもはや対等、いいえ、私の方が上よ。前時代の遺物は道を空けなさい。空銀子」
「…………ほざけ」
吐き捨てて空銀子は手を進める。
145手目。同馬。
熱い。胸の奥で恒星が燃えさかっているよう。大きく息を吸い外気で体内を冷やす。
思考を回転させろ。読みを入れろ。勝負を急ぐな。相手が相手だ。楽に勝てるなんてない。
146手目。7五銀。7七馬。7六銀。7八歩。8六歩。
攻守で常にほんの少しの優位を保ち、地獄の底まで踊り続けろ。
151手目。8二銀。6二銀。5六歩。同金。9一銀。
相手が目一杯踏み込んできた。恐れるな。踏み出せ。最強の駒。玉自身を進めて火の粉を打ち払う。
156手目。8三玉。8九香。6五角。8四歩。同玉。9七玉。9三桂。
もっと。私はまだまだ踊れるわよ。貴女はどう、空銀子?
163手目。同桂成。
そう。まだ踊れるのね。貴女も。それじゃあもう一度いくわよ?
164手目。8七銀成。同香。同歩成。同馬。同角成。同玉。
読みが加速する。脳内将棋盤が最善手をはじき出し続ける。空銀子の守りは全てなぎ払った。互いの玉が二マス空けて向かい合っている。私の玉頭も露出しているが問題ない。
長かったこの対局も、先ほどから終わりが見えている。局面は詰みまでの手順を辿りだしていた。
さぁ。幕よ。
私は手駒から一枚の駒を摘まみ上げた。
◇
「———熱い……!」
あまりにも熱い対局だった。最後までどちらに転んでもおかしくないシーソーゲーム。双方の意地と全ての棋力がぶつかり合い、鎬を削りあった結果生まれた名勝負。けれどどんな勝負事にも最後には白黒がつく。
天衣が手駒から持ち上げた駒を盤上に打ち付けた。
170手目。8五香。
玉頭を串刺すその一撃に姉弟子は頭を垂れた。
女王戦五番勝負第一局。勝者、夜叉神天衣。
6,000字オーバー。これまでで最長の話。
正直書きすぎた感があり燃え尽き気味。
あと残りの対局……どうしよっか。
(まあ筋は決まっているのですが)