携帯中継でその対局を観戦していた私は、序盤から驚きに打ちのめされた。
「なん……なの? この将棋は……?」
居飛車党の八一が振り飛車を指し、振り飛車党の生石さんが居飛車を指す。それだけでも異様なのに———
『九頭竜の飛車は5筋を越えて3筋へ。手が滑って進めすぎたということはないだろう』
『十万局以上にのぼるデータベース上の前例からは既に外れている』
「こんな無茶苦茶な戦法でどうするつもりなの、八一……?」
棋譜コメントには棋士室では八一が形勢を損ねていると評価されているとの記載があった。私もそう思う。奇抜な戦法。ただそれだけで生石さんに通用するはずがない。あの最強の振り飛車党に。
理解ができないまま局面は進んで、そして———その瞬間がやってきた。
10手目4二銀。
この一手で八一の狙いが見えた。…………見えてしまった。絶望とともに。
4二銀型角交換向かい飛車。
私にはこれが優秀な戦法だなんてとても思えない。けれどこれによってあの夜叉神天衣に敗れ、そして今、八一が最強の振り飛車党に対してこの戦法で挑んでいる。つまり二人は同じ感覚を共有しているということ……だ。私には理解できない世界を。
八一と生石さんの対局は進んでいき。ついに逆転。そしてそのまま生石さんの投了で幕を閉じた。あの戦法で最強の振り飛車党を打倒してしまった。
スマートフォンを床に投げ捨てる。ベッドに身を投げ嗚咽した。何か自分でも分からない感情に胸を灼かれて。そのまま無為に時間を過ごす。どれくらい経っただろうか。こんな時間にも飽いて立ち上がった。
部屋の中にポツンと置かれた鏡に向き合う。陰気な顔をしたちっぽけな女がこちらを見返していた。
「もっと……もっとたくさんのものを捨てないと」
悲しむための涙も。弱音を吐くための声も。逃げるための足すらもいらない。
「私には将棋があればいい。考えるための頭と、駒を動かすための指先だけがあれば」
その代わりに私が欲しいもの。それは——力。
「強くなりたい」
圧倒的な強さが欲しい。どんな挑発にも動揺しない、水の心が欲しい。どんな相手にも読み勝てる、鋭い感覚が欲しい。どんな絶望の中でも将棋が指せる強さが欲しい。絶対に折れない心が欲しい。お姫様になりたいなんて思わない。私がなりたいものはこの世界でただ一つ。
「プロ棋士になりたい」
———なんのために?
「うるさいッ!!」
この期に及んで心の中から出てきた弱音を握りつぶすように、吼えた。
◇
「第二局の大盤解説会は不完全燃焼だったんで、またまた登場☆たまよんで~す! 九頭竜先生と一緒にもりもり盛り上げていきますんで観客のみんなも盛り上がっていこうゼッ!!」
おお——ッ!! と拳を突き上げるお客さんたち。地下アイドルのライブみたいな雰囲気だ。神聖なチャペルで……。
ここは『サン・アンジェリークKOBE』360度あらゆる景色が一望にできる展望室が自慢の結婚式場だ。天衣の地元である神戸へ場所を移しての女王戦第三局。その舞台に選ばれたのだった。
その結婚式場のチャペルに設置された会場で俺と鹿路庭さんが大盤解説会に臨んでいた。祭壇にプロジェクターと大盤を置いての解説だ。前代未聞過ぎる……。
「ってなわけで早くも大盤解説会場は温まって来てるんですけど、対局の方はどうなりそうですかね? 姉弟子さん、連敗で落ち込んでません?」
「挑戦者の地元ではありますが、3連敗は是が非でも阻止しようと防衛側も気合いが入っているはずです。前局では力を出し切れていない印象がある女王ですが、続けてそうも簡単にいくとは思えないですよ」
そうして対局が始まる。先手番の姉弟子は無表情のまま初手で無難に角道を開けた。
「いやー、銀子ちゃんブレませんね。二連敗して追い込まれた先手番でも安定の塩オープニングです。さてさてタイトル奪取に王手をかけた挑戦者は何をやってくれるんでしょう。まさかまた角頭歩かー?」
鹿路庭さんが会場の期待を煽る。それに乗せられみな中継が映し出されるプロジェクターのスクリーンを見守って。そして。天衣が盤上に手を伸ばした。
「え? ……ええーッ!? 初手1二香!?」
天衣は左端の香車をすっと前へ突いていた。
「九頭竜先生……これって」
「ええ……明確すぎるほどの居飛穴宣言ですね」
「お弟子サン穴熊、そんなに指したことありましたっけ?」
「いえ。天衣は普段から重い囲いより軽快な指し回しを好みますので、穴熊を公式戦で指したのは挑戦者決定戦での供御飯さんに続いて二局目ですね」
「なるほど。これは面白くなってきましたよ! 挑戦者、まさかの意表を突く初手穴熊宣言だーッ!!」
鹿路庭さんの煽りに乗って会場全体も盛り上がる。が、これは違う。奇襲などではない。会場の中でそのことを唯一知っている俺は、先日のことを思い起こしていた。
◇
「おめでとう。タイトル奪取までこれであと一勝だな」
「……ええ」
俺のねぎらいに、けれど天衣の反応は冴えない。女王戦第二局の翌日、俺の家でのレッスンの最中のことだった。
「どうした? 何か心配事があるのか? 今日は完勝譜だったのに」
「…………ええ。八一先生に隠し事をしてもしょうがないわね。そう。計画が狂ったわ。これからの展開が見えなくなった」
「計画?」
天衣は深刻な顔をしている。
「空銀子打倒のための計画よ。……そうね。最初から話しましょう」
「あ、ああ。うん」
「女王位奪取を狙うに当たって、私はまず、空銀子とはどんな棋士なのかを考えたわ」
「姉弟子がどんな棋士か?」
天衣の話に相づちを打つ。天衣は頷いて話を進めた。
「八一先生の姉弟子を語るに当たって一つ象徴的なものがある。『女流棋士と50戦以上して無敗』先日崩れたけれどはっきりと異常な結果ね。プロ棋士高段者ですら稀に女流棋士に負けることがあるというのに」
「まあ、そうだな」
「じゃあ空銀子はプロ棋士高段者より強いのか? これははっきりとNoと言える。奨励会での記録がそれを裏付けてもいる」
「……うん。それで?」
「空銀子には二面性がある。対女流に対しての絶望的なまでの強者としての顔と奨励会の中で勝ち星を上げることに苦しむ普通の棋士としての顔が。もちろん女流と奨励会でレベルが違うことを考慮しても、そのことは顕著に出過ぎている」
天衣の話はどんどん核心に近づいていく。そして。
「ここで一つの仮説が成り立つ。空銀子は格下の棋士にはめっぽう強い一方で同格あるいは格上の棋士には力を発揮できないのでは、と」
俺は相づちを打つのも忘れ、息を呑みながらただただ聞き入っていた。
「そういった視点から空銀子の過去の棋譜を見ていくと、仮説を裏付ける論拠をたくさん見つけることができたわ。対女流や格下相手の棋譜については全て完勝譜。一つのミスもない。けれど奨励会での同格あるいは格上の棋士に対しては、勝負の別れとなる部分で弱腰な手、はっきりと緩手を打つ傾向が見て取れる。これが精神的な弱さ故なのかは分からないけれど」
そして天衣は人差し指を立てながら言って見せた。
「だから私は空銀子に勝つための計画の第一歩として、空銀子自身に私の方が格上かもしれないと思わせることに注力することにした」
それはこれまでの天衣の道のりだった。
「研修会入会試験では直接対決を挑んで、彼女自身には思いも寄らない変化を見せつけることで、私の才能を強く意識させた」
「マイナビの道中で、女流帝位を、女流玉将を撃破して私の才能を見せつけた。彼女より私の方が才能は上なんだと、彼女自身に格付けさせるために」
「そして直前の挑戦者決定戦で山城桜花を彼女の得意戦型で料理して見せた。彼女に今の実力ですら私に追いつかれているのではないかと疑念を持たせるために」
天衣は、あの弟子入り直後の時点から、この女王戦に向けて布石を打ち続けていた。長期間に渡る壮大な計画、何局にも渡る圧倒的な大局観だった。
「そして女王戦第一局。後手番からの千日手、さらにその打開。これで完全に彼女の中で私は同格以上の存在となった。結果は知っての通りよ」
そしてその計画の通り無敵の白雪姫に土を付けて見せた。どころか今やその座を奪おうとしている。
「素の殴り合いなら勝てる確証も得られた。後はこのままたたみかけるだけ……だったはずなんだけどね」
「……何か不安要素があるのか?」
けれど、天衣の計画には何か狂いが生じたらしい。
「第二局での空銀子の様子、おかしかったでしょう?」
「ああ……でもあれは、天衣の有利に働いただろう?」
第二局での姉弟子。何が原因かは知らないがはっきりと精彩を欠いていた。
「このまま消沈してくれてるならね。でもあれは劇薬よ。あまりにショックな出来事過ぎて、これまでの彼女の中での序列が全て吹っ飛ぶことになりかねない。そうなったらせっかく積み上げてきたものが白紙だわ」
参ったとばかりに手を掲げて見せる天衣。どうやら彼女は姉弟子のあの様子の理由を知っているらしい。
「姉弟子の不調だった原因ってなんだったんだ?」
俺の問いかけに対し、天衣は微妙に困ったような顔をし。
「女だけの秘密の話よ」
そう誤魔化した。言いづらそうなその表情。女だけの秘密の話。つまり。
「なるほど。生理か。……ツルツルの姉弟子にもついに二次性徴が……桂香さんに赤飯を頼んでおくべきか」
「……止めておきなさい。違うから」
「そうなの?」
「そうよ」
そうらしい。呆れ顔の天衣は頭を一つ振ると話を戻した。
「とにかく空銀子の今の状況を早急に見極める必要があるわ。そのためには———」
「そのためには?」
「次の対局は見に回るわ。最悪その一局は捨てる」
「いいのか?」
「私の先手番はもしかしたらもうその次の一局しか来ないかもしれないのだもの。勝負を急ぐよりそこで勝率を上げることを選ぶわ。地元で決められないのは残念だけどね」
◇
事前の宣言の通り、天衣は徹底して受けに回った。それに対し姉弟子は暴力的なまでに分厚い攻撃を的確に叩きつけ続ける。天衣が危惧したとおり、そこに手緩い失着はなかった。
猛烈な攻撃をひたすら鎬続け、天衣の目はただただ姉弟子に注がれ、その一挙手一投足を見守っていた。いったい姉弟子の中でどのような変化が起きているのか見極めるように。冷徹な視線を送り続けた。
やがて、天衣の抵抗も尽き、姉弟子が寄せきるのだった。
女王戦五番勝負第三局。勝者、空銀子。