キチキチ、キチキチ。
何かが軋む音が聞こえている。
ミチミチ、ミチミチ。
何かが歪む音が響いている。
既知と未知。軋み歪んで、壊れる音が奏でられた。
既存の常識では太刀打ちできないような未知が襲う。
見たこともない未来が在りし日より信じられた言葉に圧迫される。
どちらもこの世の常。既知は未知により更新され、未知は既知により塗りつぶされる。
なぁに、別に難しい話をしようってわけじゃないんだ。これは当然の摂理。社会の常識。世界のあるべき姿。何もおかしなことはない。常識は非常識で、非常識な常識が蔓延するような魔術の世界の話。振るい振るわれた賽を手に、神様が笑うようなお話。
狂狂と回る歯車。
殺殺と転がる賽子。
笑い話にもなりえない喜劇のお話。
では、この物語の冒頭をこう始めよう。
――――これは、目が覚めたら、レフ・ライノールになっていた青年の物語だ。
――――――…………
「………………これってあれだよね、私が自殺を選ばなかったら、人理焼却が行われるっていう……あれだよね?」
鼻が高く、ぼさぼさの赤みがかった髪の若い男が、ベンチに腰掛けながらうなだれていた。見てくれだけなら紳士な外見という決して悪くない優男だったが、どこか死にそうなまでの陰鬱な雰囲気が、近寄りがたい印象を思わせた。
「いやいや、待て待て、そう気を急くことはない。そもそも私のことについて情報を整理しよう」
青年の名前は、レフ・ライノール。年齢は祝われることが少ないせいか、忘れた。趣味は帽子集め。最近では、シルクハットを好んでいるが、まだ若さが目立つせいか似合わないため、もう少し年齢を重ねてから似合うような男になりたいと願うジェントルメン――――というのが、つい今朝までの記憶。正直、三重人格とか、魔術師とか、ほかにも重要なところはある。
だが、それゆえに今の状態が危うい。
「で、現在。三重人格であるレフ、ライノール、フラウロスはもろもろ消えて、今しゃべっているのは、しがないフリーターだった■■■■という名前の日本人。FGOプレイ歴としては中堅プレイヤーで、プレイスタイルとしては、お気に入りのサーヴァントを中心にゆっくりと育てていくスタイル。ちな、一番のお気に入りはエウリュアレ――――だったはずだよなぁ……」
ベンチに背中を預け、鬱陶しいくらい眩しい青空を見上げる。紳士な雰囲気はどこえやら、万年休日の無職男が公園で黄昏ているかのような雰囲気すら醸し出す。もはや読者諸兄諸君には、言うまでもないだろう。この男、あのレフ・ライノールである。
「レフっていやぁ、あれだよなー。所長殺しに、裏切り者に、節穴の三重苦を背負った憐れな男……」
そして、かの王に仕える魔神柱の一柱にして、2015年担当の魔術師である。ifとして存在する可能性のある「2015年の時計塔」において、自身が自殺することで人理焼却を防ぐことに成功した――――らしいけど。
「そもそも私が自殺しただけで破綻する計画立てんなよ、魔術王……」
おそらく、魔術王的に成功率としては限りなく百パーセントに近い確率の計画だったのだろうが、逆に言えば、一つでも歯車がズレてしまえば、破綻するような物語だったというわけだ。そして、現在は2005年だったはずだ。
つまり、魔術王の計画が始まるまである程度の猶予はある。
「よし、裏切ろう。だいたい、私が自殺しただけで破綻する計画なんだし、そういう行動に移さなければ、きっと何も起きないだろう、うん」
この男、ノリが軽い。
「そうと決まれば、ロマニでもからかいにいこう。どうせあいつのことだ、研究室にでも引きこもって碌に食事もとらずに勉強しているはずだ。よし、優しい私が食事を届けにいってやろうじゃないか」
――――――…………
「やあ、我が学友。食事を届けにきたぞ」
「ん? ああ、レフ。もうそんな時間なのかい? と、確かにお腹が減ってるや。ありがとう」
レフの持ってきた食事、簡素なサンドイッチや果物を片手にいまだに手を止めない青年の名前は、ロマニ・アーキマン。レフとは学友である桜がかった髪色の優男だ。これまでのレフのロマニに対する印象としては、『凡人』という言葉につきるだろう。
己に努力と無理、無茶を強い“今”をつなぎ止めようとしている努力家であり、レフにとって数少ない友情を感じている相手だ。そして、それは今でも変わらない。たとえ、それが一方的な友情だとしても、だ。
「相変わらず汚い部屋だ。いくら君が集中力があるからといって、これはあまりいただけないな」
「いやー、ボクもわかってはいるんだけどね。どうしても仲のいい友人が片付けをしてくれるから、甘えてしまうのさ」
「おい、君はまさか私のことを体のいい家政婦だとでも思っているのか?」
「まさかまさか、ボクにとっては身に余るほどの友人だとも」
そんな軽口を投げかけながらも、レフは心の中で嘘をつけと呆れていた。ロマニが人を信じないことをレフは知っている。誰にも寄り付かず、すべてに距離を置き、己の正体を隠している男。確か、レフに対する友情もロマニにとっては仮面のうちの一つだったはずだ。
「君が開発した近未来観測レンズ・シバのおかげで、カルデアスの観測がうまくいってるんだ。教授の名前は伊達じゃないだろう?」
「そういうロマニこそ、カルデアの医療を担当しているじゃないか。聞いたぞ? 今度、医療部のトップになるそうじゃないか」
「ボクには過ぎたものだって言ったんだけど、マリスビリー当主が決めてね。やれやれ、これじゃあ、満足にマギ☆マリの更新もチェックできないよ」
「真面目なのか、怠惰なのか、君は本当に変わった男だな」
サボるのか、勉強するのかどちらかにしてほしいものだ。この男は、
時系列を整理しよう。
まず、近未来観測レンズ・シバをレフが開発したのが、1999年。つまり、この時点でレフはカルデアに所属していた可能性がある。
次に、冬木での聖杯戦争が行われたのが、2004年。ここでロマニ・アーキマンという存在が人間として誕生したことになる。だが、彼の願いは受肉と違い、人間として生きることだ。
そして、原作におけるレフのロマニに対する学友という言葉。もしかしたら、レフとロマニはカルデアにいる前に知り合いだったという過去が存在しているのではないか、というのが当時プレイヤーだった青年の考察である。もっとも、それを確認する術は存在していない。
なぜなら、今のレフ・ライノールに過去は存在していないのだから。ここにいるのは、レフの皮をかぶったどこかの世界の青年であり、その青年にこの世界での過去はないのだ。つまり、このレフは思い出らしい思い出を持ち合わせていない。
ロマニとこうして話しているのも、肉体に残った郷愁のような感覚だった。
「レフー!」
「おや?」
突然、研究室の入り口が開くと、飛び出してきたのは、銀髪の少女だった。
「レフ、今日は魔術を教えてもらう約束だったじゃない! どうしてロマニとお話しているの!?」
少女の名前は、オルガマリー・アースミレイト・アニムスフィア。原作における悲劇の少女、所長であり、現在は教授であるレフの愛弟子のような立ち位置にいるアニムスフィア家のご令嬢である。根は気の弱い小心者な少女なのだが、次期当主という立場と偉大なる父という存在が、彼女の傍若無人さを作り出している。
「ああ、すまない。つい、このダメ人間の世話をしてあげたくなってね」
「レフはロマニのことを甘やかしすぎなの! ダメな人がもっとダメになっちゃうじゃない!」
「ねぇ、君たち? 当人を前にその言い方はないんじゃないかな……?」
さしものロマニも少女からのダメ扱いでダメージを負ったようだ。意外と繊細なのだろうか、ようやく研究に対する手が止まったようだ。
「マリー? 年上は労わってあげなきゃダメなんだぞ?」
「そういうセリフを自分から吐くから、ロマニはダメダメなのよ」
「クハハハッ、一本取られたな、ロマニ!」
「うっ、うるさい! ボクだって色々と頑張ってるんだぞ!?」
「いや、それは知ってるけど、あなたのダメな部分はたぶん、人としてダメな部分なんじゃないかしら? ほら、この部屋だってレフが片付けてるんでしょ? それに、今日の朝のミーティングだって寝坊したらしいじゃない、あなた」
この少女、さすがに父親がまだ生存しているおかげか、なかなかのことを口走っている。そして、それらすべてが当てはまっているのが、このロマニの残念なところだろう。
「うぅ……十歳以上年下にダメ扱いされた……」
「ふむ、では私がダメ扱いしてやろうか?」
「断る! 君のはなかなか傷つきやすいんだ! いくらなんでも言っていいことと悪いことくらい、わかってくれよ! ボクだって、凹むときは凹むんだぞ!」
この男、すでに成人ほどの年齢でありながら、泣き顔である。さしものレフも少しだけ引いた。
「もう、ロマニはいいから、レフは魔術を教えてよ、魔術!」
「ああもう、君たちはボクの邪魔をしにきたのか!? レフ、サンドイッチありがとう、おいしかったよ!」
「君は怒るのか感謝するのか、どちらかにしたまえ……」