「…………ふぅ」
「おい、ロマニ。何があったかは知らんが、わざわざ私の部屋に来てため息を吐くのはやめてもらおうか。というか、人が仕事を片付けているときに黄昏たその表情が腹立たしい」
「君、ボクに対しては問答無用でキツいよね!? 少しくらい何があったか気になる態度を見せろよ!」
ロマニは、レフの部屋に来ていた――のだが、まさかここまで辛辣な態度をとられるとは思っていなかったのか、早くも相談することに心が折れそうだ。しかし、ここでくじけてはいけない。ロマニの相談は、レフだからこそできる話だった。
「はぁ……君もなかなか面倒な案件を抱えていると見える」
「じゃあ、ボクの相談に乗ってくれるんだね?」
「だが断る!」
「断るのかよ! ここは友人として相談に乗るところだよね!?」
「冗談だ。とはいうものの、私も仕事の最中だ。少々片手間になるが、まあ、話くらいは聞いてやろう」
この「やれやれ、仕方ない」という完全に上から目線の態度に思うところがないわけでもないが、とにかく今回ロマニが抱えている問題について考えるなら、そういうことに気を取られている場合じゃなかった。
「…………ばわれた」
「は? よく聞こえん。もう少しはっきり言うんだ」
「だから! 童貞を奪われたんだよ!」
ロマニは顔を真っ赤にして脱童貞を宣言した。それを見つめるレフの表情と言ったら、笑いをこらえきれないといった今にも噴出してしまいそうな顔だった。ロマニは今更思う。この外道に相談するのって、そもそもが間違いなんじゃないか? と。
「くっ、ぷっくくっ、あーっははははっ! そ、そうか! ようやくあの天才が本気を出したか!」
「わ、笑うなよ! ボクは真剣に相談しているんだぞ!?」
「い、いや、すまない。つい、な。それで? どんなシチュエーションだったんだ?」
「…………笑わない?」
「失笑くらいはしてやろう」
「笑うこと前提じゃないか!?」
そうは言いつつも結局話すのが、このロマニ・アーキマンという男だ。ロマニは今にも頬から熱を噴出しそうな顔で回想を廻らせる。そう、それはいつものようにロマニが部屋に戻った時のことだ。
『あー、やっと終わった。レオナルドー、ちょっと話が――――』
『すぅーすー』
『って、なんだ。眠っていたのか』
ロマニが部屋に戻ったとき、ダヴィンチはソファーで眠っていた。外見は美女として間違いないが、中身は男。彼女は自分の研究のためならと自分のラボは綺麗にしたりするが、肝心の自分自身のことに関するとズボラなところは隠しきれていなかった。
『まったく、こんなところで寝ていたら風邪をひくよ』
ロマニは、寝室から毛布を持ってきてそれをダヴィンチへとかける。どうせ、自分も色々とやらなければいけないことはある。ある程度したら起こして、ベッドにでも向かってもらおうと思っていた。そう思っていたのだが――。
『――ロマン』
『……寝言……か。まったく、どんな夢を見ているんだか……』
ダヴィンチが小さく呟いた自分の呼び名に反応して、立ち去ろうとしていた足を戻した。見れば、かけた毛布が少しだけはだけていた。それを戻すついでに、彼女の顔を眺める。自分でもどうしてそうしたのかはわからない。でも、気が付けば、彼女の顔をじっと眺める機会なんてそうそうないと言い訳をしていた。
見れば見るほどに整った顔立ちだと思った。世界三大微笑にも入るモナ・リザの姿をして限界した英霊。
『…………レオナルド。ボクは君に感謝している』
手を伸ばす。均整に整ったその表情を見つめながら、優しくその頭をなでた。身じろぎもせず眠っている彼女に、ロマニは静かに感謝の言葉を告げる。でも、言葉はそれ以上続かなかった。自然と見入っていた。自分の鼓動と彼女の吐息だけが静かに流れる心地よさの中、ロマニは彼女に見惚れていた。
そして、徐々にその顔を近づけ――。
『――――いや、ダメだな』
でも、ロマニはそうつぶやくとそのまま立ち上がり、部屋を去ろうとする。自分のやったこと、やろうとしたこととの境界線の中をさまよいながら、歩くように。
だけど――――。
『なにがダメなんだい、ロマン』
彼女はそんな彼に手を伸ばす。
『寝たふりか。さすがにこれはズルいと思わないかい、レオナルド』
『別に魅了を使ったわけじゃあるまいし、そんなことを言われる筋合いはないね。でもってロマン。君は何がダメだと思って立ち去ろうとしているのかな?』
ダヴィンチは問う。何がダメで、何がいいのか。ただし、それは境界線を探るためではない。境界線を砕かんとするために、彼女は訊ねた。
『いやいや、寝ている女性に不埒な真似をしようなんて、レフじゃなくてもわかる紳士のマナーだってば』
『ほう、では君は私に何をしようとしたのかな?』
『おっぱいを揉もうとしていたんだよ』
『違うな。君は私の胸を見ていなかった。君が近づいたのは、私の顔だ』
『あー、それは君をからかうために顔に落書きをしようとね』
『でも、ペンはもっていなかっただろう?』
『ええっと、そう! きれいな頬だったから、摘まんで遊ぼうかと考えたんだ!』
『そうしたら私の目が覚めて怒ってしまうかもしれないよ?』
『そ、そうだね。でも、モナ・リザの顔にいたずらをするなんて、それくらいで許されるならいいと思うんだ!』
ああ、言い訳だ。何を慌てているのか、ロマニは焦ったようにそう口にする。でも、わかっている。自分が彼女に何をしようとしていたのかくらい、わかっている。だから、言い訳をしているんだ。目を逸らしているんだ。
『ふむ、じゃあ私はいたずらをしようとした君に怒らなくてはいけないね』
『あ、ああ! 望むところだとも! でも、できれば優しめにお願いします……』
『そうか、では――――』
――――チュッ。
唇が重なった気がした。
『――――は?』
『おい、動くんじゃない。うまくできないじゃないか』
『え、いや――――』
――――チュゥッ。
今度は、さっきよりも確かに分かる柔らかい女性の感触だ。
『ロマン、先に宣誓しておこう。私は天才だ。天才とは、強欲であり、わがままなんだ。別に嘘が嫌いだとか、なよっとしているのに腹が立つとかそういうんじゃない。ただ、私にも我慢の限界というものがある。こちらがそういう気持ちの準備をしているというのに、躱されるとイラっとくるしね』
『な、何を言って――んっ、ちょっ、まだ話してっ』
『ちゅっ、はぁっ…………まあ、正直、天才だからと言って人の心が読めるわけじゃない。先日もそういうことを知ったばかりだからね。でも、だからと言って頑張る君の姿に何も思わないわけじゃない。君の苦しみは君にしか理解できないし、君の背負っているものを私が肩代わりすることもできない。ただ――――』
ダヴィンチは言った。彼らしくない、彼女らしい女性のような表情で、こう言った。
『私は君を支えたいんだよ』
殺し文句としてはどうだろうか? 決まっている、控えめに言って――――最高の一言で片づけられるような陳腐なありふれたセリフだ。ロマニ・アーキマンの覚悟は揺るがない。彼は決して人理焼却を止めようとして生きているわけではない。彼は決して人理焼却の果て、人類を救うために孤独に戦っているわけではない。彼には彼なりの責任があった。
自分が人間になったから視えた人理焼却という未来に対し、彼は最後までともにいるという覚悟を持っていた。彼は、決して救うための戦いをしていたのではない。そもそも、救う手段があるのかさえわかからない。だから、彼の覚悟は生きることに集約されていた。
ゆえに、彼の覚悟は揺るがない。
『ハァー、まったく、レフもレオナルドも人の言うこと聞かないんだから。何? 天才っていう生き物は、そういうものなの?』
そう、覚悟が揺らぐはずはない。
でも――。
『本当、ちゃんと最後まで付き合ってよね』
新しい覚悟に変わることはあっていいはずだ。
――――――…………
「と、いうわけなんだけどさ。とりあえず、そのブラックコーヒーを笑いながら差し出すのはやめてくれないかな?」
「い、いや、なんというかもう、ごちそうさま」