「レフ教授、何を書いているのですか?」
マシュはこの時間、レフとオルガマリーと一緒にいた。彼らと一緒に勉強をしているのだ。ここでいう彼らというのは、今回、レフのことも含まれる。というのも、普段は教鞭をとるレフが、机に向かってノートを広げ、何かを書き記しているからだ。
「もしかして、新たな魔術の研究でもしているのかしら?」
「ははっ、先祖が代々と研究を重ねた魔術をノート一冊完成させることはできないさ。何、ちょっと筆を動かしていただけさ。ほら、見てごらん」
マシュとオルガマリーがノートを覗くと、そこには確かにレフの言う通り、ただの言葉だったり、単語が書き詰められていた。ほかにも意味もなく、線が引かれたり、きれいな丸、様々な図形が描かれていた。なるほど、確かに“筆を動かしていただけ”という言葉がしっくり来るだろう。
「これに何か意味はあるのかしら? マシュ、わかる?」
「う、うーん、私にはさっぱりです。でも、レフ教授のことですから実はすごいことだったり……?」
「いやいや、深読みはよくない。私がやっているのは、本当にペンの感触を確かめているにすぎないんだ。ああでも、ここから絵を描くというのも面白いかもしれないね」
「絵……ですか?」
「レフって、絵が描けるの?」
オルガマリーが問うたことは、無理からぬことだろう。オルガマリーの知るレフ・ライノールという男は、生粋の魔術師だ。なんせ、魔術師らしい魔術師である父、マリスビリーと話ができるのだから。ただし、最近どこか違った印象を見せるのも事実だった。
例えば、食事に日本のレトルトカレーを食べたり、日本のことわざを引用したりする。ほかにも、以前あったプラネタリウム、これも以前のレフなら思いつくことはなかっただろう。
(いえ、ちょっと待ちなさい)
「マリーさん? どうかしましたか?」
「え、ええ、大丈夫。なんでもないわ。ええと……そう! レフは絵が描けるのかどうかって話だったわね!」
杞憂だろう。それこそ、気のせいという言葉がふさわしいのかもしれない。オルガマリーはそう思った。そう信じた。それがのちにどういった結末を呼ぶのかは、今の彼女の知るところではない。だが、一つだけ言えることがあるはずだ。
オルガマリー・アースミレイト・アニムスフィアは、ここでの選択を必ず後悔をする。しかし、彼女が後悔するのは、自分が選んだ選択肢にではない。彼女が後悔するのは、ここで選択肢に“向き合ったこと”だ。あるいは、出会ってしまったこと。
違和感を違和感として認識したことが彼女の始まりだ。ここで目を逸らしたところで、ここで目を向けたところで、世界の結末は変わりはしない。この世に、後悔しない選択肢はないのだ。どれほど最良の結果を選んだところで、もう一つの結末を知りえないものに、最良という言葉はありえない。
だからこそ彼女は救われるのだろう。
ただし、今はそのときではない。今はただの過程に過ぎないのだから。
「それで、レフは絵なんて描けるのかしら? 基本的に不器用には見えないのだけど、実際どうなの?」
「ふむ、私は絵をたしなんだことはないが――まあ、物は試しだ。やってみようじゃないか」
そういうと、レフはペンを動かし始めた。本当にやったことはないのだろう、ある程度そういった教養を持つオルガマリーには、そういった拙さが理解できた。だがまあ、真剣に取り組む姿というのは、むしろ絵になっていた。
「ねえ、マシュ。ちょうど休憩の時間なんだし、少しだけ私たちも絵を描いてみない?」
「絵……私は描いたことがありません。それに、モデルもいませんし……」
「大丈夫よ、所詮は休憩時間の落書きと一緒よ。そんなに気張ることはないわ。それに、モデルならちょうど手以外、動かしそうにない男が目の前にいるでしょう? 今のうちに、ささっと描いてしまいましょう」
「は、はい!」
そうして、二人もペンを動かし始めた。題材は目の前の帽子をかぶった男。よほど集中しているのか、ペンの動きに迷いがない。負けじと二人も一生懸命やってみる。もともと記憶力のいいオルガマリーは、数度レフを見上げ、迷うことなくペンを走らせる。一方の真面目なマシュは、何度も見つめては書き足して、消して、書くということをしていた。
どれほど時間がたっただろうか、部屋には静寂が訪れていた。そして意外にもその静かな空間を破ったのは、マシュだった。
「できました! あっ、すみせん。つい……」
マシュは思わず嬉しさからそう声を出したが、周りの静けさにハッと、口をつぐんだ。
「大丈夫よ、レフも集中しているようだけど、一応私も完成したわ」
そういって、オルガマリーはマシュに自分の描いた絵を見せた。そこに描かれていたのは、まさしく人物画と言える絵であり、絵をあまり詳しく知らないマシュでも、上手だと思えた。上半身だけを写実し、丁寧にレフが描かれている。短時間で描くには、精細な絵だ。
「え、えーっと」
「言っておくけど、マシュ? ここで隠すのはなしね」
「うぅー、わかりました……」
オルガマリーが描いた絵に対して、マシュのは絵はデフォルメがされていた。特徴を特徴と捉え、それを印象強く表現する絵は、どこかマシュらしいとオルガマリーは思った。
「あら、上手じゃない。謙遜することはないわ。初めてという条件を含めても、立派な絵になっているわ」
「そうですか? でも、ありがとうござます」
「で、肝心のレフはどうなっているかしら?」
オルガマリーは、集中しているレフの邪魔にならないようにと、背後から覗き込んだ。その絵を見たオルガマリーの感想は、普通に上手だと思った。オルガマリーほどの繊細さはなくとも、可もなく不可もなく、少なくとも落第点を下すような絵ではないだろう。
だが、オルガマリーがレフの描いた絵に対して抱いた感想は、それだけではない。
「これは――なんの絵かしら?」
いや、何が描かれているのかはわかる。家族の絵だ。夕日に包まれているかのような道を、手をつないで歩く三人の家族の絵だ。
右手には母親が立っている。女性ということを計算しても背は低いが、浮かべている横顔は素敵な大人をしている。左手には父親だろう男が立っていた。こちらは横顔は映っていないが、それでもまっすぐと歩く背中は、どこか男らしさを描けている。
だが、中央にいる子供。少年の絵だけがおかしかった。
何が? と問われても具体的に答えられない。だが、どこかおかしいと感じた。オルガマリーは、違和感の正体を探る。そして、その事実に気づいた。
「――――手首が――ない?」
手は両親と繋がっている。はっきりと、間違いなくその手を両親の中になる。だが、あったはずの手首の場所が僅かに消しゴムで消されたように消えていた。いや、実際、手首を描いたあとに一度、消したのだろう。そこにはペンの筆圧だけが残っていた。
「レフ、これって――――?」
オルガマリーは、訊ねようとした。だが、言葉を止めた。レフの顔を覗いたときに、表情に浮かんでいたのは、寂しさだったからだ。
「両親がいたんだ」
「え――?」
レフが答えた。先ほどのオルガマリーの問いの答えだ。
「この絵の話さ。この子には両親がいて、それでいて手を繋いでいたんだ。だが、ある日を境に、この子は両親のもとを離れて、残されたのは手を繋いだという事実だけが残った。両親は手を繋いだことを忘れないだろう。当たり前だ、こんなにも幸せそうなんだから。だから、この手はまだ握られている。だけど、子供はそうはいかないんだ。大人になってしまえば忘れてしまう。手を繋いだことは愚か、そこに自分がいたという幸せさえも――ね」
それは、とても悲しい話だった。まるで、この子供は両親に二度と会えないと言っているようだった。そして、いつかはこの絵の子供自身が消えてしまう。思い出を忘れてしまうように、この絵の中にいる子供も消えてしまうのだ。
「じゃあ、こうすればいいんですね」
「――――マシュ?」
マシュがそういった。こうすればいいと、そういって掴んだのは、レフの手だった。
「ご家族の思い出がつなぎ止められないのは、とても悲しいことだと私は思います。でも、この子供は旅立ったんです。離れてしまったけど、忘れてしまうかもしれないけど、消えたわけじゃない。だったら、誰かが旅先で手を繋いでしまえばいい。代わりの思い出にはなれなくても、重なった思い出にはできます。その絵の中にいることだけが、子供の幸せでありません。幸せは一つじゃないと、私はそう学びました。だから、私は手を繋ぐんです。いつか、その人の誇れるような思い出になれるように、ずっと、その人のそばにいられるように。きっと大丈夫です。だから、いつかその人にこう言ってもらうんです。僕は幸せだぞーって! そう言わせられるくらい、私はその人と幸せを分かち合いたい。それが、私の願いです」
どうして――オルガマリーは思った。
たかが絵の話だ。どうして、そこまで真剣に語れるのだろう。どうして、まるで絵の中の子供に語り掛けるようにそうやって話しているんだろう。
じゃあ、
「だから、マリーさん、泣かないでください」
どうして、私はこんなにも涙が止まらないんだろう。
「ねぇ、レフ。いなくなったり――しないよね?」
「ああ、私がいなくなる? そんなことは――――」
「違うの。本当に、ちゃんと約束してほしいの」
「――――」
ああ、違うの。私はあなたを困らせたくてそう言ったんじゃない。ただ、安心したくて、ちゃんと言葉にしてほしかったんです。なのに、あなたは困ったような顔をする。難しい難題に立ち向かうわけでもなく、ただ子供のわがままに悩む大人の顔をする。
それが、その顔は私が嫌いな顔です。嘘を吐くときの、大人の顔です。
「大丈夫さ、私はいなくなったりしないよ?」
ほら、嘘を吐いた。わかっている。何がどうして、どうなるのかはわからないけど。ここにいるあなたが、これからのあなたが、約束を拒んでいることをわかっている。
「嘘よ」
だから、私はわがままを言い続ける。
「嘘じゃないさ」
だから、あなたは嘘を吐き続ける。もうやめてしまえばいいのに、私は駄々をこねる。お父様にもこんな姿を見せたことはないのに、私は失いたくないものにしがみついている。
「お願いよ、レフ。私、頑張るから! これからも頑張っていくから! お願いだから――――」
「――――――…………まいったなぁ……さすがにこいつは想定外だ」
レフの声だ。だけど、違う。違う人の声。
「あー、くそっ。やっぱロールプレイとか、無理。あれだよね、やっぱTRPGは四人以上でやらなきゃね」
「レ、レフ?」
「レフ教授?」
違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。――――ああだけど、わかっている。これが、この人が素なのだと。この人がレフで、レフはこの人じゃない。多分、もっとずっと前からわかっていた。
「で、どうするよ、お嬢ちゃんたち。“俺”はこうしたけど、おそらく、
この人はそう言う。あの人じゃない顔で、どこかお茶目な表情で。
まるで、肩の荷が下りたかのように、どこか答え合わせをするように。
この日、ようやく、私たちの