『……いで』
何も見えない暗闇に、また誰かの声が聞こえる。
『おいで、瑠梨』
大人の男性の声……昨日の夢と同じ人?
ハッキリと聞こえた。私を呼んでる声。
『ほら早く、瑠梨!!』
今度は大人の女性が私を呼んだ。
もしかして……お父さんとお母さん?
瑠梨がそう思った時、暗闇が一瞬だけ明るくなった。
ほんの一瞬見えた景色。広い草原に立つ2人の人影。そして、2人とも瑠梨の方に手を差し出していた。
ちょうど、今日の妹紅と慧音のように――
「お……かあ……さん」
瑠梨は掴んでいた妹紅の服をギュッと握り、ボソッと寝言を呟く。
それに気づいた妹紅は瑠梨の方を向いた。
そう……瑠梨には外の世界に両親がいる。記憶が戻れば、必ず帰るのだろう。どんな夢を見ているのか分からないが、夢に出てくるくらいなのだから、瑠梨だってお母さんとお父さんに会いたいに違いない。
私が考えていた別れとは違う別れをしなければならないということだろう。
それは……仕方のないことだ。
ただ一言の寝言を聞いただけなのに、マイナスの思考が妹紅の表情を曇らせる。
未来のことを考え、危惧しても仕方がない。そう分かっているのに考えてしまう、妹紅のどうしても治せない癖だ。
「ん……」
モゾッと動いた直後、瑠梨が目を覚ました。
瑠梨にこんな表情は見せられない。すぐに今考えていたことを忘れ、「妹紅お姉ちゃん」の顔に戻す。
「おはよう」
「うん、おはよ……」
心なしか瑠梨に元気がない。目が覚めて妹紅を見た瞬間、ほんの一瞬だが、寂しそうな表情をした。
「顔洗って来るね……」
ベッドから降りると、トボトボと洗面台に向かう――
洗面台の前で、瑠梨は鏡に映る自分を見る。そして今日見た夢のことを思い返す。
記憶は無くとも、自分に両親がいることくらいは分かる。もちろんお父さんとお母さんに会いたいし、記憶だって戻したい。
でも昨日慧音先生から、幻想郷と外の世界を隔てる結界があることを聞いた。それ自体はそこまでの問題ではない。こっち側から外に帰ることは、博麗の巫女に頼めば出来るらしい。
でも、外の世界から幻想郷に来ることは容易じゃないと言われた。
お母さんたちには会いたいけど、私は妹紅お姉ちゃんとも一緒にいたい。別れるのは嫌だ。
私は……どうすればいいんだろう?
その場に立ち尽くし、俯きっぱなしの瑠梨。流れ続ける水に注意が行くことも無く、ただひたすらに下を向いていた……
「瑠梨?」
「ふぇっ!?」
突然聞こえた声に、思わずビクッと体を震わす。
振り返ると、その慌てた瑠梨を不思議そうに見る慧音がいた。
「朝ご飯できたぞ」
「あ……うん、すぐに行く」
慧音に悟られまいと、瑠梨は無理に笑顔を作る。
しかし、数多くの子供と接する慧音に対して、ごまかしきることなど不可能だ。慧音はまるで最初から知っていたかのように、その一瞬で瑠梨の異変に気づいた。
「……どうかしたのか?」
真剣な表情でそう尋ねられると、作っていた笑顔が消え、再び下を向いてしまう。
慧音先生に話してしまうべきだろうか?
相談すればきっと抱え込んでいた不安は少し和らぐはず。でも、相談しても答えが出ないことを私は知っている。
これはどれだけ周りの人に尋ねようと、最後には自分で決める問題だ。
深刻な表情を浮かべていると、頭の上に優しく何かが乗った。
それが私を頭の中の世界から呼び戻す。
瑠梨がフッと見上げると、慧音が頭の上に手を置いていた。
「大丈夫だ」
そう言いながら優しく微笑む。
何も解決しない、その場しのぎでしかないセリフ。それなのに、この言葉は不思議なくらい絶大な力を誇る。
瑠梨の心にずっと纏わりついていた不安が、少しだけ和らぐ。それは冷静な思考を取り戻すには十分だった。
確かにこの問題は今悩むことではないのかもしれない。
瑠梨の記憶が戻らなければ意味が無いわけだし、未来のことを気にするのも可笑しな話。
だから、瑠梨は「今」を楽しむことに決めた。
絶対に後悔したくないからこそ、精一杯今を楽しもうと――
「うん……そうしよう」
慧音に聞こえたかどうか、というくらいの声でボソッと呟く。
楽しむことを決意した瑠梨に、ついさっきまでの姿は無い。
「うん、ありがとうっ!!」
元気よく慧音にお礼を言う。慧音は、まさかこんなに早く立ち直ると思っていなかったようで、ポカンと口を開けている。
「あ、あぁ……そうか?」
「うんっ、もう大丈夫!!」
そう言い慧音の手を引っ張り、妹紅のもとへ戻った。
「ただいまっ」
満面の笑みを携え、妹紅に抱きつく。
ほんの10分足らずの時間なのに、どこか成長したように見える。一緒に戻ってきた慧音が何かしたのかもしれないけど、それにしても瑠梨を纏う空気が変わった。
もう心配はいらないようだ。
「ほら瑠梨、もうご飯出来てるんだから、早く席に着いてくれ」
「あ、は~い」
席に着き、慧音先生が用意した朝ご飯を食べる。今日はタケノコご飯と、お味噌汁だ。
昨日妹紅お姉ちゃんが作ってくれた、タケノコとご飯もおいしかったけど、慧音先生のご飯もすごくおいしい。
「ご馳走様でした!!」
ご飯を食べ終え、お皿を流し台に置きにいく。戻ってきてからは、寺子屋に行く時になるまで、まったりとした時間が流れた――
「――さて、そろそろ行こうか」
スッと慧音が立ち上がると、それに連れて妹紅と瑠梨も立ち上がる。
「そういえば、私何も持ってないけどいいの?」
ふと疑問に思ったことを慧音に問いかける。
勉強すると言っても、教科書も無ければ鉛筆なども持っていない。
「それなら大丈夫だ。ちゃんと用意してあるからな」
実は、昨日瑠梨を家に置いて寺子屋に行ってた時、そこで慧音は瑠梨の分の授業に必要なものを全部揃えていた。
その時はまだ今のような気持ちは抱いていなかったのだが、それとは関係なく寺子屋には通わせようとしていた。
子供の時から、勉強をしていて損することは無い。知識はどれだけあっても邪魔にはならないからだ。どれだけ才に恵まれていても、それを使いこなすためには知識が必要である。それを子供のうちに学び、誤った道に進まないようにする。それが寺子屋の役目――
慧音は心からそう思っている。
「そうなの?じゃあ早く行こっ!!早く早く!!」
自分のものが用意されている、いわばプレゼントだ。そう頭の中で理解したわけではないが、とにかく自分のために用意してもらえたことが嬉しかった。
一刻も早くそれを貰いたくなり、瑠梨は慧音の裾をグイグイ引っ張る。
急かしてくる瑠梨に少し困りながらも、慧音も妹紅の顔にも笑顔が生まれていた。
「お姉ちゃんも早く~!!」
1人先に家から飛び出し、ブンブンと手を振る。そして1人先に進もうとした。
「ちょっと待って瑠梨!!あんまり離れると迷子になるよ」
1人で歩き出す瑠梨を慌てて追いかけ、瑠梨の腕を捕まえる。妹紅に掴まれ、気持ちだけが先に進み、足は止められてしまった。
「むぅ~……私そんなに方向オンチじゃないよ」
好奇心が抑えられない瑠梨はちょっとムスッとしている。それでも、手を繋がなくてはならないのだ。
「分かってるよ。でも、この竹林は迷いの竹林って呼ばれるくらい迷いやすい場所なの。だから、必ず私と一緒に、ね?」
瑠梨の髪を撫でながら、優しく笑いかける。
幻想郷において、妖怪がいることなど当たり前。それを除くと、ただ迷いやすいだけの場所だが、だからと言って幼い子供を1人で歩かせていい場所ではない。
「……うん、分かった」
瑠梨は短い空白を挟んでからコクンと頷いた。
「ありがと。それじゃあ――」
そこまで言った時、瑠梨が妹紅の手をグイッと引っ張った。
「それじゃあ行こ!!一緒に早く行こっ!!」
「わっ!!ちょ、瑠梨待って!!」
不意に腕をひかれバランスを崩した妹紅は、もう為す術なく瑠梨に引っ張られるしかなかった。
大変そうではあるが、妹紅は笑っている。2人とも幸せそうに見えた。
「ふふっ、妹紅も大変だな」
その微笑ましい光景を作っている2人を、慧音は笑みを浮かべながら追いかけた――