矢部くんと新太と別れた俺は、一年二組の教室に入った。 教室ではすでに半数以上の受験生達が席について勉強している。
どこにでもあるようなごく普通の教室だが、机や椅子にどことなく高級感がある。 空調設備も整えられており、床や窓ガラスも綺麗に拭き上げられていた。
流石は名門校。 入試があるからとはいえ、細かいところにも気をつかってるなぁ。
「っと、俺の席は……」
ぼんやりと考え事をしている暇はない。 俺は指定された席を見つけ、そこに座る。
ロープウェイに揺られる中でも参考書を開いていたが、最後にもう一度見直しておきたかったのだ。
しばらくパラパラと参考書をめくり、要点をもう一度見直していると、試験開始まであとわずかとなる。 ふと隣の席から可愛らしい唸り声が聞こえてきた。
「むぅ〜……」
ちらりと声の方を確認すると、艶やかなライトイエローのロングヘアをリボンで結んだ、どこかおっとりした雰囲気を持つ少女がいた。
彼女は形のいい眉を下げ、眉間にシワを寄せている。 俺はその顔にどこか見覚えのあるような気がした。
「まいったなぁ……どうしよう……」
何となく聞き耳を立てていた俺は、彼女が漏らす声を聞き取る。
どうやら彼女はシャーペンを忘れているようだった。
「誠に借りてこようかな……でも、もう時間もないし……」
彼氏の名前だろうか? それにしても『誠』とは、変な縁もあったものだ。
俺達星空ボーイズが最後の夏、地区大会決勝戦で戦った相手のエースの名前も、『誠』だった。 とはいえ珍しい名前ではないし、彼女の顔に見覚えがあるのも、単なる偶然だろう。
「う〜ん……」
まぁ、これも何かの縁だし、困っているのを聞いたからには放っておけない。 少しおせっかいな気もするが、俺は自分の筆箱から予備で持ってきておいた鉛筆を二本掴んだ。
「あの、すみません」
「ふぇっ?」
声を掛けられるとは思ってもいなかったのだろう。 彼女は気の抜けた声を出していた。
「驚かせてごめんなさい。 これ、もし良かったら使って下さい」
「あ、えっ? いいの……じゃなくて、いいんですか?」
「はい。 一応もう一本予備は持ってきてますし。 試験官の方に借りればいい話ですが、迷惑じゃなければどうぞ」
受験というのは初めてだが、筆記試験は初めてではない。
何か忘れ物をして、試験官に申し出るのは意外と勇気がいるものだ。
特に受験となれば尚更だろう。 そんなことはないと思うが、忘れ物をしたことにより、受験結果に影響が出るのではないかと考えてしまうものなのだ。
彼女は俺が差し出した鉛筆をおずおずと受け取る。
「ありがとう……ございます」
「いえ」
俺は彼女から視線をそらし、最後にもう一度要点を一瞥して参考書をカバンにしまった。
その間も何故か彼女はこちらに視線を送っており、首を傾げていた。
「……あれぇ? どこかでみたことあるような……」
彼女の呟きは、現れた試験官の声により俺に届くことはなかった。
✱
「終わったー……」
吐息混じりの呟き。 もちろん落胆の要素はない。 問題自体は確かに難しかったが、勉強していた点が集中的に出ていたし、自慢じゃないけど俺はそこそこ頭がいい。 自慢じゃないけど。
「矢部くんと新太はどうだったかな……」
俺は二人の出来具合を聞くため、そそくさと帰宅の準備を始める。
今日は筆記試験のみで、面接試験は明日行われる予定だ。
「あの……」
声をかけてきたのは、隣の席に座っていた例の少女である。
「鉛筆、ありがとう。 助かりました」
「ああ、そういえば。 いえいえ」
俺は差し出された鉛筆をカバンにしまう。 今の今まで彼女に鉛筆を貸したことをすっかり忘れていた。
「それと……いきなりなんだけど、お名前聞いてもいいかな?」
「ん? えっと……」
これはもしかするともしかするのか? なんて考えるほど、俺は甘くないぞ。 いくら可愛い女の子に突然名前を聞かれたからって、そんな期待を抱くほど俺は恋愛体質じゃない。
矢部くん辺りだと、こういうことは有頂天になって報告してくるんだろうな……。
「天川蓮太です」
「やっぱりー! どこかで見たことあると思ってたんだー! 何ですぐに気が付かなかったんだろ」
美少女のふわりとした微笑みと、おっとりとした砕けた口調に、俺は一瞬だけドキリとしてしまう。 これじゃあ俺も矢部くんのことは言えないな。
まぁそれは置いといて、彼女の口ぶりから察するに、俺のことを知っているらしい。
「あーそっか! 帽子被ってたし、雰囲気も違うし、そんなに近くで見てたわけじゃないものね」
「へ? んと、どういうこと?」
一人で納得しているらしい彼女に、俺は首を傾げて問いかける。
「気付かない? 私達、一応双子なんだけどな。 あ、そういえばまだ名前言ってなかったよね」
彼女は気恥しそうに笑い、
「私の名前は――」
「おーい、姉さん! 帰るよ!」
彼女の言葉は、教室のドアから一人の少年が呼びかけたことにより遮られた。
「あ、誠。 ねぇねぇ、ほら! 天川くんがいるわよ」
彼女がいうより前に、金髪の少年は俺をみとめて、驚きをあらわにしていた。 かくいう俺も、目の前の少年――虹谷誠と同じような表情をしていたことだろう。
「なっ……なんで君がここにいるんだっ!! 天川蓮太!!」
「憶えていてくれたんだ。 質問にそのまま答えるなら、天空中央高校の入学試験を受けに来たからだけど。 俺も驚いたよ」
とはいいつつ、よくよく考えてみれば予想できない話ではない。
虹谷誠くんは強豪シニアのエースで、最後の大会は全国大会のベスト4まで上り詰めいてる。 野球に関しても名門である天空中央高校を受験することは、なんら不思議ではない。
「忘れるわけがないだろう! というより、キミほどの者を知らない選手はこの地区にはいない!」
「光栄だけど、それは虹谷くんの方だよ。 地区どころか全国区の選手じゃないか」
「ま、まぁボクくらいの大投手を知らない者は、全国にもそうはいないだろうね」
「あかつきには行かなかったんだね」
「ボクのようなあざやかな人間には、こちらの学校の方が合っているのさ……って! それはこっちのセリフだ! キミの方こそ何故あかつきに行かなかったんだ! 噂ではあの
まくし立てるように喋り出す虹谷くんに、俺は思わず苦笑いした。
そんな様子を見ていたあの少女が、
「誠、めっ! 天川くんが困っているでしょ!」
「うっ……姉さん。 そ、そうだ! 第一キミは、なぜ姉さんと仲良さげにしている! 面識はなかったはずだぞ!」
「天川くんは困っている私を助けてくれたの。 私ったら、筆記用具を忘れちゃって……」
俺が話し出すより先に、少女が話し出した。
ここまでくれば流石に、彼女が虹谷くんの姉なのだということは理解出来た。 先程の会話では双子という単語が出ていたので、彼女達が同学年ということにも納得だし、俺自身が彼女に見覚えがあったのも、虹谷くんを知っていたからということで頷ける。
「く……姉さんのドジっ子がこんな所で発揮してしまうなんて……」
「こ〜ら〜、誠。 聞こえてるわよ! いつもはこうじゃないのよ? 今日はたまたまなんだからね!」
「そうなんだ……」
後半の言葉は俺に向けられたものだった。
照れ隠しのように頬をプクッと膨らませ、人差し指をビッと立てている。 何とも可愛らしい仕草である。
「あぁ! 信じてないでしょ! ホントなんだからね? 昨日は遅くまで勉強してて、ちょっとだけぼんやりしてただけなんだよ?」
グイッと顔を近づけてくる少女。 くっきりとした二重瞼と、赤みがかった紫の大きな瞳。 目尻が垂れた、怒っていても隠せない柔らかな印象は、母性に満ちた姉というステータスにぴったりに思える。
なんて冷静に分析しているが、流石にこの距離まで女の子に近付かれると、否応なしに緊張してしまう。
「わ、わかったから。 そ、それより、まだ名前聞いてないよ」
俺は無理やり話題をそらすことにした。
「あっ! いけない、忘れてた! ごめんね、うっかりしてて……」
やはり、虹谷くんが言っていた「ドジっ子」という表現は的を得ているような気がする。 初対面である俺にも、なんとなくそれが理解出来てしまった。
「私の名前は
「うん。 よろしく。 彩理さん」
「彩理さん……かぁ。 うん! 天川くんにそう呼ばれるとしっくりくるし、今はそれでいいよ!」
彼女はもう完全に砕けた口調になっていたので、俺も敬語をやめることにした。 とはいえ、いきなり呼び捨てには出来ない。 彩理さんもそれを容認してくれたらしい。
そんな俺達のやり取りを、虹谷くんは面白くなさそうに見ていた。
「まだ受かるかも分からないんだ。 それに、姉さんとよろしくさせるつもりはないよっ!」
「もうっ! 誠はどうしてそう天川くんに突っかかるの! いつもは優しい子でしょ!」
「で、でもっ!」
「でもじゃないの! 最後の大会で完全に抑えられたことと、ホームランを打たれたことをいつまでも根に持たないの!」
「べっ、別に根に持ってなんかないさ! ボクは過去の事は引きずらないタイプなんだ!」
「……ホントに?」
彩理さんが虹谷くんに疑惑の目を向ける。 恐らく根に持っているんだろうな。 もちろん勝負の結果とは別に、俺自身が理由で……。
「うっ、姉さん! 試験も終わったんだし、もう帰るよ!」
「むー。 分かったわよ。 それじゃあ天川くん、またね!」
「あ、うん。 二人とも、またね」
風のように去っていく虹谷くん、とそれに引っ張られるような形の彩理さん。
入学したら、何かと騒がしい毎日になりそうな予感がした。