登場人物、地名、団体はすべて架空の存在です。
六月ともなれば来る夏に向けて気温が日に日に増してくる季節であり、それに伴って高校では衣替えが行われる季節であり、そして梅雨である。
「……マジうっぜぇ」
バイト先のファミレスから出ようとした俺は、裏口の扉を開けた瞬間にそう呟いた。
目の前では、ざあざあという激しい音を立てて雨が降っている。端的に言って土砂降りという奴だ。降水確率10%とはなんだったのか。出がけに見た天気予報の女性キャスターに、呪いの言葉の一つでも吐き出したくなる。
これは傘さしても濡れるやつだな。傘持ってきてねえけど。
さて、どうするか、としばらく思案する。
ここから俺が利用する駅までの距離を考える。走ってもいいが、駅に着くころには全身ずぶ濡れだろう。加えて駅に着けば終わりという訳でもない。この分だと電車降りた先でも雨は降ってるだろうから、そっから自宅までも濡れるハメになる。
傘を差しても濡れてしまうような雨足だが、やはりあるのとないのでは雲泥の差があるだろう。最寄りのコンビニまで走って、そこで傘を買うのが一番現実的か。それでもびしょ濡れにはなるだろうが、ずっとノーガードとどっちがマシか、という話だ。
ふう、と一度深呼吸する。これ以外にどうしようもないとわかっていても、この雨の中に飛び出していくには多少の覚悟が必要だ。
制服はもちろん、鞄に入ってる荷物も濡れるだろう。すまん、大平、城島。お前らに借りたマンガは今日までの命だ。不可抗力だから許してくれ。
脳内で友人たちに謝りつつ、覚悟を決めた俺はいよいよ軒先から飛び出そうとして、
「へい、風間くん! 乗ってくかい!」
雨音をものともしないハスキーボイスに、動かしかかった足を縫い止められた。
※※※
「すんません、助かります」
「まー、困ったときはお互い様だから気にしなくていいよ」
乗り込んだ助手席でそう言うと、運転席に座った日向先輩はにこやかに笑った。
「つか、車なんて持ってたんすね。運転してるの初めて見ました」
「普段は電車とかバスとか使うからねー。ただ、せっかく免許取ったし、あるとあるで便利だから車買ったんだ」
「……」
「ん? どしたの風間くん?」
「いや、普段忘れがちになるけど、日向先輩ってちゃんと大人なんだなって思っただけです」
「悪口!?」
悪口言ったつもりはない。普通に感心しただけだ。
先輩は簡単に言ったが、免許取るにも車買うにも相応の金と努力が必要なハズだ。加えて、いくら金があっても年齢的にどうしようもないことだってある。普通自動車免許は18歳以上でなければ発行されない。
だから俺が今まで貯めたバイト代全部はたいて、車を運転できる環境を整えようとしても、そもそも免許取得の為の試験すら受けられない。だが先輩にはそれが出来る。
「先輩って、たしかユキ先輩とタメでしたよね」
「おおう。悪口に対してのフォローすらないよ、恐ろしいなこの後輩。
……ユキちゃんもアタシもいま20歳だよ。お酒飲めるし、選挙行けるし、法律で成人と認められているのさ!」
「選挙は20歳前でも行けるでしょ……」
ふっはははは、と高笑いしながらも、日向先輩の運転は安定したものだ。
普段からこうなのか。雨が降っているからか。それとも俺を乗せているからかはわからないが、加速も減速も丁寧で乗り心地がいい。普段、会話のジェットコースターを仕掛けてくる人間の運転とはちょっと信じがたいほどだ。
「これいくらくらいしたんすか」
「なに突然? えーっと、たしか80はいかなかったと思うから、ななじゅう……。いや、もろもろの費用で結局80万越えたわ」
80万。学生の身である俺にとっては、割と途方もない数字だ。
いや、日向先輩も大学生だからまだ学生ってくくりか。それなのによく車なんて買おうと思ったもんだ。たしか前に一人暮らしって言ってたハズだから、生活費にもバイト代回さなきゃならねえだろうに。
「よく買う気になりましたね。生活とか苦しくないんですか?」
「それはまあ迷ったけど。でも普段使いの便利さを思うと欲しかったんだよ。この辺って、微妙に不便なところあるじゃん」
「普段は電車とバス使うって言いませんでしたっけ?」
「電車通ってないところとか、バスの時間合わないところとかあるでしょ。地元民のクセに、さてはわかってて言ってるなぁ?」
「いや、先輩の活動範囲を把握してるわけじゃないんで。車いらない地域の人かと思ったんすよ」
言い訳がましく聞こえるかもしれんが、これは本当のことだ。
俺たちのバイト先があるこの辺りは比較的発展していて、市内には細かくバスの停留所があるし、鉄道も乗り換えが豊富で、新幹線の停車駅ですら数駅以内にあるアクセスのしやすさである。
一方でここから二駅離れた俺の中学の辺りでは、バスの運行はまばらで、電車も20分に一本程度。当然地下鉄やらなにやらへの乗り換えなんてない。自家用車とまではいわなくても、最低限家族の人数分のチャリが欲しくなる地域だ。
と、ほんの少し生活圏がズレるだけで、公共交通機関に依存出来るか出来ないかがガラッと変わってしまう。普段は電車とバスを使う、と言ってた日向先輩を、この辺りの発展した地域で生活してる人間、と判断した俺は間違ってはいまい。
「アタシはいま南の方に住んでるから。
「ああ、あの辺か。たしかに微妙に都市部から外れてますね」
「そうそう。大学へは電車で
先輩は笑ったが、俺としては少し笑えない。身に覚えがありすぎる。この辺りで活動していて、自宅がここらから南東にある奴あるあるだ。
ちなみにこっから北西に住んでる連中には首を傾げられるヤツ。なぜなら向こうはこの辺りより交通の便が良い。電車一本逃そうが、バスを見送ろうが、無計画に帰宅しようとしようが、だいたい待ち時間なしで目的地までスムーズに乗り換えしてたどり着ける。ヒドい格差だ。
「風間くん家はどの辺り?」
「赤井羽です」
「あー、結構遠いね」
「愛川東までたった二駅ですよ」
「一駅あたりの距離が違うでしょ。わかってるよ」
まあそうだ。電車で二駅と聞くと大した距離ではないと思われるが、実際は割と遠い。乗車時間にして10分ほど。距離換算だと多分10キロそこそこ。一駅あたり5キロちょっとある計算だ。
よくテレビやらなにやらで言う『運動不足なら一駅くらい歩いてみては?』が通用しない距離だろう。連中の言う一駅は距離換算で1キロほどのものであると考えられる。
「愛川から南東はホント、一気に田舎になるよねー」
「悔しいですけど、ぐうの音も出ねえですよ。赤井羽よりはまだ田原のが都会ですし」
「そのくせこっから北西はずっと都会なんだもんなー。格差あるよね。いやそのおかげで、家賃安い割に街までの距離が近いとこ住めるんだけどさ」
先輩の言う『愛川』はこの辺りの地名だ。愛川駅はここらでは多分一番デカい駅で、その次が愛川東駅。俺の通う高校の最寄り駅はこの愛川東駅になる。
そんで俺や先輩がちょいちょい言ってる通り、愛川東駅から南東はだんだん田舎になっていくワケで。俺の住んでる辺りは愛川東からさらに東に二駅。日向先輩の言う田原は、地下鉄で南に三つ、乗り換えてさらに一駅だったハズだ。ちなみに乗り換えまでしているのに、距離換算で行くと田原の方が近いあたりが笑うポイントである。
「ああ、ちなみにユキちゃんは西の方に住んでる。って言ってもすぐそこなんだけど」
「知ってますよ、前に本人に聞きました。今は愛川市役所の近くでしたっけ」
「そう。セントラルの人間! ひゃーっ、都会の女っ!」
「いやなんだそれ。確かに市の中心部に住んでるけど、普通に愛川市の人間でいいだろ」
「レナちゃんは、バイト先から徒歩圏内だよね。おおう、アタシの周りの女子が都会っ子ばかりな件」
「アンタも電車で数駅圏内でしょうが……」
「格差あるって話したばっかじゃん。アレだよね、レナちゃんに電車の時刻表確認しとかないと南東は苦労するって話した時のあの顔! なにを言ってるのかわからないって表情よ!」
「ああ……。まあ、なんとなく想像つきますよ」
いま話題に上がった二人の内、ユキ先輩はどうだか知らないが、桐原は生まれも育ちもこの辺りだ。豊富な交通網が当たり前の生活を続けてきた人間に、『油断すると電車がない』『バスもなければタクシー乗り場もない』とか言っても全く実感わかないだろう。それも遠い地域の話ならともかく、電車で数駅以内の地元地域の話だ。
「まあでも、風間くんが田舎民で安心したよ。アタシの苦しみをわかってくれるのはキミだけ……」
「気色悪いこと言ってないで運転に集中してください」
「ひっど!? もう少し言い方あるでしょ……。まあいいけど」
「信号変わりましたよ」
「見えてるよー、大丈夫。えっと、次右だっけ?」
「なんでですか。駅行くならこのまま道なりですよ、知ってるでしょ」
「や、赤井羽方面は東でしょ。なら次右曲がって、バイパスに出るんじゃないの?」
当たり前のように日向先輩は言うが、ちょっと待って欲しい。
道順自体は先輩の言うとおりで何も間違っちゃいないが、さすがにそこまでさせる気はこっちにはない。
「いや駅で降ろしてくれればいいすよ」
「いま田舎は電車なくて大変って話だったでしょ。こっから赤井羽なら20分も走れば着くし」
「この上、先輩に借りを作りたくねえんですよ」
「なにそれ?」
俺の本心からの言葉を冗談と受け取ったのか、ケタケタと愉快そうに笑った先輩は、そのまま容赦なくハンドルを切ってしまった。向かう方角は赤井羽方面で、もはや俺の主張は聞き入れられないことを悟る。
クソ、結局こうなんのか。
なんだかんだバイト先では助けてもらうことも多いってのに、駅までどころか自宅まで送らせるとかマジねーぞ。認めるのは
「……今度なんか奢りますよ」
「どしたの急に? はっ、まさか口説かれてる!?」
「ねーよ」
「ですよねー。
まあアレだ、風間くんは変なとこ気にしすぎじゃない? アタシは好きでやってるんだし。もしこういうのむず痒いって思うんなら、アタシじゃなくて後輩に返してあげなさい」
「……桐原に?」
「誰かに受けた厚意をその人に返すのは大事だけどさ。アタシとしちゃ、お返し欲しくてやってるわけでもないし、半分押しつけみたいなものだし? だったら、風間くんがアタシにされて嬉しかったことみたいなのを、他の誰かにやってあげる方が嬉しいかなー。
っていうか、健全な先輩後輩の関係ってそういうものでしょ。昔、先輩にお世話になった分を後輩に与えて育てて。そんでその後輩が、もう一つ下の後輩をお世話する、みたいな」
それはまた、いい循環というかなんというか。
そういう風に在れればいいとは思うが、果たして俺は桐原にとっていい先輩かどうか。少なくとも、俺にとっての日向先輩ほどいい先輩はやれていないとは思う。
……気難しい先輩、くらいに思われてそうだな、おい。いや、否定できる要素は一つもないが。
「まあとにかく、今回のこれはノーカンでしょ。そもそもアタシから声かけたし」
「はあ」
「うっわ、納得いってない感じマシマシじゃん」
なんでそんな頑なかな、と呟いて先輩は車を停車させた。
激しい雨音と、ワイパーが動く音。フロントガラス越しに赤信号が滲んでいる。
会話の間隙を雨音に埋められながら、少し考える素振りを見せた先輩は、信号が赤から青に変わった瞬間口を開いた。
「うーん、じゃあアレだ。次の土曜日、映画付き合ってよ!」
いいこと閃いた! と言わんばかりの提案に、俺は眉根を寄せる。
「映画? そりゃそんなんでいいなら付き合いますけど。それ、俺じゃないとダメなんすか?」
「おっと、妥協点を見いだそうという時にまさかの反応」
「嫌とかそんなんじゃなくて、単純な疑問なんですよ。俺じゃなくて普通にツレと観に行った方が楽しいんじゃねえの? っていう」
さっきからずっと気を遣わせているが、先輩のこれは一応今回のことに対する対価にあたるお願いのハズだ。
だってのに、結果的に先輩が楽しくない状態になるのなら礼の意味がない。それなら適当に飲み物なり食い物なりを奢った方が百倍マシだろう。
「やっぱ風間くんは変に気を遣うよね。大丈夫だよ。観たい映画ってのは、友達と観るにはちょーっとアレなヤツだから」
「……アレなヤツ?」
どんなヤツだ。ダチと観るのに適さないってえと、大衆向けじゃない作品ってことか? それとも血しぶきバリバリのスプラッターとか、娯楽要素とは無縁の歴史ドキュメンタリーとかそんな感じの好き嫌いの別れ方が激しい作品か?
「タイトルは『劇場版ゴッドシャーク対フロンティアホエール! 世紀の山間決戦。太陽は赤く燃えているかパートⅡ』っていうんだけどね」
「おいまて、なんだそのタイトルから漂うクソ映画臭!?」
とんでもねえタイトルが飛び出てきたな!?
だいたいなんだ、劇場版って付けるってことはTV版とかあったのか。シャークとホエールでなんで海じゃなくて山だ。あとパートⅡってことは確実にパートⅠがあったんだよな!? 聞いたことねえんだけど!?
「そうなのよー。劇場予告見たときから気になってたんだけど、さすがにこれを観に行くからって女友達は誘えなくてさ。たぶんパニック映画とかアクション系のバカ映画じゃん?」
いやそれ以前の問題だろう。タイトルからクソ映画確定じゃん。その上で観に行こうって、日向先輩どんだけ剛の者だよ。
それかよっぽどその劇場予告が面白かったのか。さすがにそれだよな? これが俺だったら、タイトル見た時点で観る気なくすし。そんな不安を消し飛ばすほど予告の出来が良かったんだよな。せめてそうであってほしい。
「……一応聞いておきますけど男友達誘うか、一人で観に行くって選択肢は?」
「アタシが男友達と一緒に映画とか、微妙な雰囲気にしかなんないでしょ。だから諦めて一人で観ようかと思ってたんだけど、風間くんは今回のコレ気にしてるみたいだし。じゃあ、ちょうどいいじゃん」
「男友達はダメで俺はいいんすか」
「アタシと風間くんで、そういう微妙な雰囲気になる?」
「100パーないです」
先輩の言う『微妙な雰囲気』ってやつが、恋愛感情とかそういう方面のことを指しているのなら、俺たちには無縁の感情だ。
少なくとも俺は日向先輩のことをそういう対象としては見れないし、それは向こうも同じだろう。
「清々しいまでの即答ありがとう。まあそういうことだよ」
聞き方によってはかなり失礼な俺の反応に、日向先輩はむしろ嬉しそうに笑った。
「ってことで、風間くんが納得してるなら次の土曜、午前中に映画ね」
「了解です。クソ映画すぎて、途中で寝ないように気をつけますよ」
「うんうん、頑張ってね。見終わったあとに感想言い合いたいからさ。一人で映画もいいけど、誰かと一緒だとその場で感想言い合えるのがいいよね!」
窓越しに流れていく雨の街並みを見ながら、せいぜいクソ映画でないことを俺は祈った。