先輩と後輩がダベってるだけ   作:ハトスラ

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※※※わたぬき※※※


If たとえばこんな終わりと始まり

 春。それは出会いと別れの季節。

 私の通う、ここ『愛川東星高校』でもそれは例外なく。

 

 体育館ではついさっきまで卒業式が行われていた。

 式が終わって生徒たちが三々五々に散っていく中、体育館近くで一人佇んでいる男子生徒を見つける。

 

「先輩。ご卒業おめでとうございます」

 

 まだ少し肌寒い風に身を震わせながら、私は目の前にいる先輩に声をかけた。

 先輩は、私の声に振り返ると少しだけ目を細めて口を開いた。

 

「……お前か」

「お前か、じゃないですよ。最後くらいちゃんと名前を呼んでください」

 

 今日で卒業だというのに、先輩の様子はいつもどおりだ。寂しげな様子も、特別うれしそうな様子も見せない。まるで明日からも今までと変わらない日常を過ごしていくかのような様子だ。

 たとえ生活に劇的な変化はなかったとしても、高校卒業なんて結構大きな節目だと思う。なのにこの無感動っぷりは……。なんていうか、一周回って尊敬すら覚えそうだ。

 

 その尊敬する先輩は、けれどほんの少し口端を吊り上げると、今まで聞いたことのない優しげな声色で言った。

 

「はいはい。……ありがとうな、桐原」

「……はい、先輩」

 

 一瞬、ドキリ、と胸が跳ねた気がした。

 優しいのは声だけじゃなくて、表情もで、普段のギャップから私は少しだけ言葉に詰まってしまう。

 

 そんな私の様子に気付いていないのか、次に口を開いた時には、先輩はもういつもの口調だった。

 

「ま、なんだかんだ卒業まであっという間だったな」

「先輩感情の起伏少なすぎません? 高校の卒業式なんだから、もっと涙と鼻水でグシャグシャになっててもいいんですよ?」

 

 先輩がいつもどおりなら、私も。と、努めて平静を装って言葉を吐き出す。内容は本音七割、疑問三割、みたいなところ。

 実際問題、先輩はもっと感情をぶちまけた方がいいんじゃないかな、と思う。デフォルト表情が怖めなせいで、本当はそうでもないのに誤解されている感もあるし。

 

「お前、俺にどんなキャラを期待してんだよ」

「期待してるとかしてないとかじゃなくて、最後くらい我慢しなくてもいいんじゃ? って話をしてるんですけどね」

「別に我慢とかしてねーよ」

「えっ、三年学んだ校舎に愛着とか、お世話になった先生への感情とか、こーんな可愛い後輩と会えなくなる寂しさとかないんですか!? このはくじょーものー!」

「うるせえよ。冗談でも可愛いとか自分で言うか、ふつう」

「や。はい。……自分で言ってて、ちょっと恥ずかしかったですけど」

「照れるくらいなら言うな。……ったく、最後までこんな調子かよ」

「それはお互い様なのでは……?」

 

 先輩にはそう言ったけれど、実際はきっといつもどおりなんかじゃない。今日で三年生が────、先輩がいなくなる。それはそれなりの喪失感を伴って私の内にある。

 いやまあ、先輩は本当に普段通りっぽく見えるんだけど。ブレないな、この人。

 

 ────なんて、そう思っていたのに。

 

「そうだな」

 

 また、優しい声。

 

「……そうです」

 

 もしかしたら先輩も、最後だからと思っていた部分があったのかもしれない。普段だったら、疲れたような、そんな気怠げな声が返ってくる場面なのに。

 

 いつもとのギャップを見せられると、本当に今日が最後なんだって、無性に寂しくなる。

 寂しさを紛らわせるように、私は明るく、それでいて割とどうでもいいことを口走った。

 

「それにほら。最後って言っても、まだバイトありますし。ええと、後三回?」

「ああ、お前とは今日抜いて後三回」

 

 あ、しまった。失敗した。どうでもいい話題なんて思ったけれど、全然どうでもよくなかった。自分から、あと何回先輩と会えるかだなんて、そんな悲しい話。

 

 そう思ってしまった私は、咄嗟に口を閉ざしてしまった。

 そのせいで先輩との間に不自然な沈黙が生まれてしまったけれど、でもしょうがない。今日の私は先輩の卒業を意識してしまって、どうしても話題をそちらの方向に向けてしまうみたいだ。

 

「……桐原」

 

 不自然な沈黙がどれくらい続いた頃だろうか。

 気まずい静寂を破ったのは、やっぱり私じゃなくて。

 

「はい?」

 

 無意識に俯いてしまっていた私は、先輩の声に顔を上げた。

 

「俺は……、」

 

 ゆっくりと、何かを噛みしめるかのように先輩が言う。

 今までに見たこともないくらいに真剣な目をして、まるでなにかを覚悟したような表情で、私に向けて声を発して────、

 

「レナー! 飯田先輩行っちゃうよー! 挨拶はー!?」

「あ」

 

 唐突に、遠くから聞こえた声で先輩の言葉は遮られた。

 声の方を見ると、私の友達数人がこっちに向かって手を振っている。その少し後ろには、今日卒業してしまう女生徒が数人。その中にお料理研究会でお世話になった先輩の姿を確認する。

 

「えっと……」

 

 正直、向こうにも行きたい。飯田先輩は私が中学生だった時からお世話になった、大切な先輩だ。

 でも風間先輩だって私にとっては大事な先輩だから、ここで無理矢理会話を切り上げて飯田先輩の所に行くなんてこと、私にはできない。したくない。

 

「いいよ、行ってやれ」

 

 と、私が内心でそわそわしていることに気が付いたのか、先輩がそんなことを言う。

 その顔にはさっきまでの真剣な表情じゃなくて、しょうがないな、とでも言わんばかりの優しげな苦笑が浮かんでいた。

 

「俺なんぞより、ちゃんと世話になった先輩に挨拶してこい」

「……えと、じゃあ私行きますね。またバイトで会いましょうね、先輩!」

「おう。じゃあな」

 

 

 

※※※

 

 

 

 それがもう、三年ほど前の話だ。

 女三人、ふらりと入った居酒屋でグラスを傾けながら思い返す。

 つい昨日のことのように思い出せる光景は、実際にはもう随分遠い昔になってしまっている。誰に咎められることなく、居酒屋でくだを巻いていられるのがいい証拠だ。

 

「レナっち聞いてるー!?」

「聞いてる聞いてる」

 

 向かいに座った友人がビールジョッキ片手にまくし立てる。

 大学に入ってすぐ意気投合した彼女は、普段から明るくて声が大きいけど、今日の声の大きさはいつもの比じゃない。アルコールが入ったせいかもだけど、でもきっとそれだけじゃない。

 

「ウチはね、もうちょっとダラダラこの関係を続けたかったっていうかね」

「うん」

「なのに三村のヤツさあ! よりによってみんなの前で告白してきやがるのよ!? しかもマジトーンだし……!」

「うんうん。見てた見てた」

「あんなんもうその場で答え出すしかねーじゃん! 混乱して思わず断っちゃったじゃん!」

「うんうん、そうだねー」

「大体、酒の席で言う!? マジトーンでも、酒飲んでるヤツからの告白とか本気にしていいんかわかんねーって!」

「でも嬉しかったんじゃないの?」

「嬉しいとかそうじゃないとか以前に、ちょっと引いたわ! 百年の恋も醒めるわ!」

「恋はしてたんだ?」

「してたかわかんないの! こっからゆっくり答えをみつける期間だったの! ウチにとっては……! それを、それを……!」

 

 うう、とテーブルに突っ伏して泣き真似する友人。や、これ泣き真似じゃないな。多分ガチ泣きだな。

 

 相づち打ちながらそう判断する。

 ちなみに私の返事が雑っぽいのは、飲み始めてからずっと同じ話を延々聞かされてるからだ。最初こそ真剣に聞いてあげられたけど、いい加減わたしもゲンナリしてきた。

 

「アンタさっきからそればっかじゃないか。結局どうしたいんだい?」

 

 と、私の斜め向かいに座ったもう一人の友人が、つまみの焼き鳥片手に言う。

 こちらも大学入ってすぐに出来た友人で、お酒も飲み会も大好き! な彼女は誘えばだいたい一緒にきてくれる。ついでに言うとザルなので、この子を呼んでおけば酔っぱらいだらけで死屍累々、なんて事態は避けられるという打算も少々。

 

「どうしたいって……、そりゃ前みたいに気楽に話せる感じに」

「そんだけなら簡単だろう? アンタから普通に話しかけりゃいい」

「うっわぁ……、簡単に言うなあ」

「簡単だからね。三村と付き合いたいってんなら、また話は変わるだろうけどさ」

 

 他人事だから気楽に、というわけではない。多分この子は本心からそう言ってて、そしてそれが出来る人種なんだ。そして何が悲しいかな、三村くんと前みたいに話したいって願望は、彼女のアドバイスを実行すればきっと簡単に叶う。

 それが出来たら苦労はしない、という点には目をつぶらなきゃいけないけど。

 

「んで? レナの方はどうなんだい?」

「私?」

「私? じゃ、ねーんだよ! レナっちだって筒井に告られてたじゃんか。ウチと同じよーな感じで!」

 

 と、ここで唐突に矛先が私に向いた。

 確かに筒井くんに告白されたのは事実だけども、それってもう二ヶ月くらい前の話だよ? 今更ここを掘り返すの? それにそもそも、

 

「なにもないよ? あの場で振って、それだけ」

「えー、ウソだぁ!」

「アンタと筒井も仲良かったろ? コイツみたいにうだうだしなかったのかい?」

「うーん……、そう言われてもねえ。ホント、私にその気がなかったから。後悔なんて微塵もなく、さっくり振らせてもらったケド」

 

 ウソだ。少なくとも半分は。付き合ってみてもいいかもしれないと、あの瞬間はそう思ったハズだ。

 私の理性はそう告げて。

 でも残りの半分は本当だから、まあいいでしょ。

 けれどアルコールで鈍くなった理性は、そう結論付けた。

 

「うーわー、悪女だー。あんだけ楽しそうにしてたのにー」

「あははっ! 悪女かどうかは知らないけど、意外ではあったね。ちったあ勿体ないとか思ってるかと思ったんだけど」

「友人として楽しかったけど、それで恋人になれるかは別でしょー? あとキッチリ考えて振ったんで、未練も後悔もまっっったくないです!」

 

 そうやって女三人でゲラゲラと笑った。

 筒井くんには悪いけど、彼を振ったことに対して、私は本当に未練も後悔もない。確かに彼は友達として一緒にいるなら楽しくていいと思う。思うけど、それだけだ。そこに恋愛感情を持ち込むと、きっとおかしくなる。

 

 そのことに気が付いたのは、筒井くんに告白されて『付き合ってみてもいいかな』、と返事をしようと思ったタイミングだったけど。

 普通に仲が良くて、一緒にいて楽しくて、向こうから好かれているのなら、付き合ってみてもきっと上手くいく。なにより、告白された時は嬉しかったし、だったら私から彼への感情も恋なのかもしれない。と、そう思った時に、ふと思い出したのは、三年前のあの卒業式の日で。

 

 

『お前、俺にどんなキャラを期待してんだよ』

『阿呆』

『本当にそういうとこだぞ』

『俺のせいみたいに言うんじゃねえよ』

『そうか。まあ好きにしろよ』

『またなんか妙な顔してる』

『……桐原』

 

 

 途端に風間先輩と過ごした二年足らずの時間がフラッシュバックしたんだ。

 楽しいこと、悲しいこと、嬉しかったこと、腹が立ったこと。明るい思い出ばかりじゃなかったけど、私にとってはそれも全部大事なもので。

 会いたいな、と思ってしまった。しばらく会ってないけど、先輩はどうしてるのかな。元気だろうか。私のことを、まだ覚えていてくれるだろうか。覚えていてほしい、と思う。

 

 それから────ああ、なんだ。なんてことはない。今の今まで気が付かなかったけれど、私は告白の返事をしようとするタイミングで、先輩との思い出を振り返ってしまうくらい先輩のことが好きなんじゃないか。

 

 そう思ったら、もう筒井くんへの返事なんて決まっていた。

 彼と一緒にいるのは楽しかったけれど、こんな風に『会いたい』『話したい』『声を聞きたい』『覚えていてほしい』なんて感情は、きっと筒井くんには抱けない。この感情が恋じゃないなら何が恋なのかわからなくなる程度には、私の心は風間先輩へと向いてしまっていたから。

 

「三年は、長いよね……」

 

 ふと、アルコールで軽くなった口から諦めにも似た言葉が漏れる。

 

「なんだい急に?」

「ううん、ちょっと……。昔の知り合い思い出して。もう三年も連絡取ってないなって」

 

 あの卒業式から三年。私が私の気持ちを理解するまでに三年。

 バカみたいな話だと思う。この三年で────いや、先輩と一緒にいた頃からだから多分五年ちょっと。私が自分から誰かに恋愛感情を抱かなかったのは、とっくの昔に先輩に恋をしていたからで、でも気付くのが致命的に遅れてしまっていて。

 

 受験。卒業。引っ越し。新しい学生生活。

 

 そんなものでいっぱいいっぱいになってた私には、自分の恋心に気付ける余裕なんてなかった。気付けば驚くほど時間は流れてしまっていて、先輩とは随分疎遠になっていた。最後に彼の声を聞いたのがいつだったのか、私には思い出せない。

 

 わかってる。でもこれは先輩が悪いんじゃないってことくらい。先輩と一緒にいたかったなら、私から必死に縁を繋がなければならなかった。それを怠ったのは私で、だから今こんな風に先輩を想いながらも、彼が今どこで何をしているのかすらわからないなんて状況になってるんだって。

 三年前のあの日、せめてあの卒業式の日に何かを言えてれば、きっと今とは違っていたと思う。でもそうすることを私は選べなかった。

 

 有り体に言って自業自得。

 結局わたしは、そういう感情を三年前のあの日に置き去りにしてしまったんだ。

 

「なんなんそれ」

「え……?」

 

 少し低くなった声色に顔を上げる。

 さっきまでガチ泣きしていた友人が、据わった目でこちらを見ていた。

 

「この流れで出てくる三年会ってない知り合いとか、彼氏じゃん!?」

「ええ……」

「レナっち彼氏いない歴イコール年齢って言うてたのに、彼氏やんそれ!? 元彼やんか、はぁー!? 羨ましっ!」

「ち、違う違う。ただの知り合いだって。あと方言漏れかけてるよ」

「うーるーせーえー! そら筒井も振られるわ、彼氏おったらなぁ!!」

「いや三年疎遠な彼氏とか自然消滅だろ? あの時点なら筒井もチャンスあったと思うがね」

「けど振られたってことはレナっちまだ元彼のこと好きなんやん……!」

「あのちょっと、二人とも私に彼氏がいた体で話すのやめてくんないかな!?」

 

 そもそも相手男とも言ってないし。あとこんな流れ前もどっかであった気がするなあ!?

 

「まあ、この流れで本当にただの知り合いってのは無理があるんじゃあないかい?」

「う、それはそうかもだけどさ……」

 

 アルコール回ってるとはいえ確かに迂闊だった。

 でも実際のところ、彼氏なんかじゃなかったし。少なくとも先輩にとっては、私は数いる後輩の一人にすぎなかったハズだ。

 

「きーりーきーりーはーけー。元彼か、そうじゃないんか」

「ほらほら、アンタもう飲むのやめときな。完全にウザ絡みするオッサンだからね。レナも、今の内さっさと白状しときな。後に回すほどめんどくさくなるよ、こういうタイプはね」

 

 はっきりと私を追い込んでくるタイプの友人と、遠回し風に結局私を追い込んでくる系の友人に若干引く私。

 けどうん、確かにさっさと本当のことを言った方が面倒なことにならなさそうってのは同意。白状するには、ほんとちょっと情けない事実なんだけど。

 

「彼氏とかじゃないよ、本当に。多分、ただの先輩と後輩だった」

 

 そこまで言って、記憶を辿る。

 最後に彼の声を聞いたのはいつだろう。その姿を見たのは? こんなにも好きだと自信を持って言えるのに、記憶の中の先輩の姿はもう随分あやふやだ。

 

 人は忘れる生き物だけど、その事実が単純に悲しい。

 

「彼氏だったって、言えれば良かったのにな……」

「…………」

「…………」

 

 吐き出した言葉には、これでもかってくらいの後悔が滲んだ。

 それを感じ取ったんだろうか。友人ふたりは無言のまま顔を見合わせると、それぞれに持ったジョッキを私に押しつけながらまくし立てる。

 

「飲め飲めー! 酒が足りないんよ! 三年前のことなんて笑い飛ばすくらいに飲めー!!」

「そうそう、酒の席で暗い顔は似合わないってもんさ。ガンガン飲んで、じゃんじゃん食って、気持ちよーく寝ちまいな! そんだけで救われるもんもあるってもんさ!!」

「二人とも……」

 

 暗く沈みかけた気分を、二人の声が引き上げてくれる。

 持つべきものは友人だ。あと楽しい気分になれる何かだ。

 そう。私はこの恋心を、三年経ってもまだ引きずってるけど、お酒の席でくらいはもっと笑っていたっていいハズだ。今だけはアルコールの力を借りて強がってみたっていいと思う。

 

 私は手に持っていたアイスティーサワーを一気に飲み干して、大声で店員さんを呼んだ。

 

「そうだねっ! 私、飲むよ!! すみませーん、生大追加でー!!」

 

 喧噪の中、目を閉じる。

 相変わらず先輩の姿は曖昧にしか見えない。いつかきっと、この姿も見えなくなって、そうした時に私は先輩のことを忘れてしまうんだろうな。

 それは仕方なくて、寂しくて、でもきっと希望のある話なんだろう。いつまでも昔の恋に囚われて生きていくのなんて、きっと悲しいから。

 

 ああ、でも。そうだな……。叶わないとしても、これだけは言っておきたかった。

 

 

『ねえ先輩。私、ずっと先輩のこと、好きだったんですよ』

 

 

 

 

 

※※※

 

 

 

「あたまいたい……」

 

 ふっ、と意識が浮上して最初に思ったのは、そんな身体の異常だった。

 頭が痛い。というか、なんかちょっと強めに頭部を握られて鈍痛を感じてるみたいな。ついでに身体の節々が痛いし、ふくらはぎが張ってる感じがする。あともの凄くのどが渇いてるし、髪がごわついてる気がする。

 

 うん、まあ飲み過ぎたんだよね。コレ。

 

「あ゛ー……」

 

 か細い上に、ガラガラにカスレたヒドい声が漏れた。

 

 とにかく、のどが渇いた。体中が水分を欲している。そのくせ胃の辺りがぐるぐると気持ち悪くて、食事なんてゼリーですらのどを通らない気がする。

 苦し紛れに声を出してみたものの、自分の声ですら頭に響く感じがしてそれすら苦しい。そんなだから、のどが渇いてても起きあがれない。ついでに目も開けられない。意識こそ浮上したけど、できればこのまま二度寝したいくらい。

 っていうか二度寝する。今日はバイトも講義も入ってないから、身体が楽になるまで二度寝する。起きてるだけで辛いもの。

 

「ああ、でもメイク……」

 

 落としたっけ? 記憶にない。

 足の圧迫感とか肩周りや腰回りの堅苦しさから、着替えてないことは確定っぽいから、お風呂に入ってないのも確定くさい。つまりきっと、家帰ってすぐベッドインしてそのまま寝落ちしたってことかな。じゃあこれメイクも落としてないし、服も皺になるやつだな。お酒飲んで家帰って寝落ちとか、典型的なダメな大人だよコレ。

 っていうか、そもそもどうやって家に帰り着いたのかも覚えてないんだけど。布団被って寝てる状況からして、多分誰かに送ってもらった? 昨日の女子会には化け物クラスの酒豪がいたから、彼女だろうか。

 

 うう、と呻きながら布団から手を伸ばす。出かけた以上、スマホはバッグの中だ。そして家に帰ってベッド直行なら、近くにバッグあるはず。

 布団を抱き込みながらしばらく手を振り回してみるものの、やっぱり当てずっぽうではバッグに辿り着けない。それどころか、なんか別の固いものに手が当たってじんじんするし。

 

「……?」

 

 しょうがなしに目を開けると、私の手にぶつかったのはどうやら目覚まし時計のようだった。ついでに言うなら、目に見える範囲にバッグはない。

 

 寝起きの低いテンションと、二日酔いの気分の悪さ。二重に重なると、ベッド付近にバッグがないなんて、こんな小さなことですらイラっときてしまうらしい。

 私はいつもの数倍荒く身を起こして────ソッコーで頭に響いてしばらくうずくまった後、ゆっくりと部屋を見渡した。

 

 途端、全身から血の気が引いたのを感じた。

 寝起きだの二日酔いだの寝違えただの、そんな小さなことなんかじゃない。たった今感じた恐怖に、私は(すく)み上がった。

 

「ここ、()()……?」

 

 知らない部屋だ。

 部屋の隅にある簡素なシステムデスクも、デスクの上に置かれているノートパソコンも、壁に沿って置かれたいくつかの本棚も、本棚の中身も、なんなら私が横たわっていたこのベッドでさえ、私の知るものは一つもない。端的に言って知らない部屋。つまりそれは、ここが他人の家だということだ。ついでに言えば、一緒に飲んでた友人のどちらの家でもない。

 

 ガクガクと、自分の手が震えていることに気が付いた。二日酔いとは別の意味で吐き気すらしてくる。悲鳴を上げなかったのは奇跡に近い。

 起きたら見知らぬ部屋にいた、なんて恐怖体験もいいところだ。昨日の最後の記憶は飲み屋であるからして、悪酔いして、そのまま誰かに連れ込まれたということだろうか……?

 

「……っ!」

 

 そこまで思い至って、私は慌てて自分の身体を改めた。

 

 着衣の乱れ……、ある。けど、これはそのまま寝ちゃって皺になっただけっぽい。セーフ!

 身体の違和感……、メッチャある。けど、これはただの二日酔いっぽい。セーフ!

 

 ふう、とひとまずため息を吐く。少なくとも、連れ込まれてそのまま致しちゃった、なんて展開にはなってないっぽい。

 いや、記憶ないからグレーゾーンではあるんだけど。こう、色々されたんならもっと身体に違和感あってもおかしくないと思うんだ。知らないけど。

 

 とにかく、今どういう状況なのかを確認しないと。

 昨日のことが思い出せれば一番てっとり早いんだけど、生憎と全く思い出せない。ならやっぱり、一緒に飲みに行ってた二人に聞いてみるのが早い。つまり、結局スマホを探さなくちゃいけない。

 

「あ。あった」

 

 と、スマホ────というより、スマホを入れてるであろう私のバッグはあっさりと見つかった。別にどこに隠されている訳でもなく、普通に部屋の出入り口近くに置いてある。

 私はそっとベッドから抜け出すと、ゆっくりとバッグまで近づいてスマホを取り出した。なにせこの部屋のドアを隔てた向こう側には、ベロベロに酔った女子大生を部屋に連れ込むような人間がいるかもしれないからだ。

 都合良く外出中だったりすれば、こっそりここから逃げ出すんだけど、このドアを開けて向こうを確認する勇気が今の私にはない。なのでせめて起きてると悟らせないようにコソコソして、隙を見つける所存。相手の姿を確認する勇気もないのに、とか言っちゃいけない。まだ精神的な動揺がヒドくて、悲鳴をかみ殺すことだけで精一杯なの。

 

 とにもかくにもスマホを入手した私は、さっそく友人とのグループトークを開いた。

 チャット上には昨夜(厳密には今日の未明に)の時点で友人たちからメッセージが届いていた。

 

 

『酔ったー。死ぬ。飲むんじゃなかった……、くっそぅ三村め』

『それで毎度わたしが家まで送ってってやるハメになってんだから、普通に飲みすぎなんだよ。三村のせいにしてやんな』

 

 

 前者がガチ泣きしてた方で、後者が件の化け物クラスの酒豪である。

 酒豪の方からは追加で、『レナも、煽ったのアタシらだけど、ペースは考えな。お陰でアンタん家まで運ぶの苦労したわ』とメッセージが添えられていた。

 ってことはやっぱり昨日は彼女に家まで送ってもらった、ってことだ。それがなんでこんなことになってるのか。

 

「そうか……。エントランスのロック」

 

 私の住んでるアパートは入居者以外入れないようにエントランスに鍵がかかってるから、送ってもらうにしても私が鍵を開けない限り、アパート前までしかムリなんだ。そして私が泥酔してたってことを考えると、鍵を開けられずにアパート前でぐだぐだやって、そこで放置されたってこと?

 いや、面倒見のいいあの子がそこで放置なんかするかな。最低でもエントランス抜けるとこまでは見守ってくれそうな感はある。ってことは、エントランス抜けて、自分の部屋にたどり着く前に誰かに連れ込まれたってこと? それはそれでアパート入居者にそういうことする人間がいるってことで恐怖が……。

 

 いや、そもそもなんで自分のことなのに推理物やってるのか。いや私が記憶なくなるまで飲んだのが悪いんですけどね!

 とにかく一番記憶しっかりしてそうな彼女に、どこまで送ってくれたのかメッセージ送って────、

 

 

「起きてるのか?」

「…………っ!?」

 

 

 スマホを操作していた手が止まる。ドアの外から聞こえた声に、必死に悲鳴をかみ殺した。

 

 男の人の声だった。

 ドアの外に私を部屋に連れ込んだ人がいる。目的不明で正体不明な誰かが。少なくとも昨日の内にはなにもされていないみたいだけど、今からもそうだとは限らない。むしろ今から『そういうこと』をされる可能性だってある。

 

 カタカタと奥歯が鳴った。必死で握りしめていないとスマホを取り落としそうになるくらい、身体に震えがきた。

 怖い。状況を確認しないと、なんて言ってられたのはただの現実逃避だったんだと、今はっきりわかった。本当に怖いと、身動きなんて何一つとれやしない。

 

「……入るぞ」

 

 向こう側からもう一度低い声。次いでガチャリ、とドアノブが捻られてゆっくりと扉が開いていく。

 私はそれを、何も出来ずに呆然と見ていることしかできなかった。

 

「お前……」

 

 呆れたような声とともに現れたのは、20代前半くらいの青年だった。

 短い黒髪と、やや鋭い目つき。Tシャツとジーンズなんてラフな格好で、こちらを見下ろすように立っている。

 

「起きてんなら返事くらいしろよ」

「あ……、え」

 

 まともな返事なんて出来るわけがなかった。

 さっきまでの恐怖と、現れた青年の衝撃にまともに口が────いや脳が働いていない。

 

 それでもなんとかして、私はカスカスにかすれた声を絞り出した。

 

「風間、先輩……?」

「そうだよ。なんで疑問系だお前。……ああ、いや。三年会ってなかったらそんなもんか?」

 

 はあ、と見慣れた────本当に随分と見慣れたため息の吐き方をして、先輩が言う。

 一方の私は、この状況に全く頭がついていかない。

 ベロベロに酔って記憶を失った後、気が付いたら知らない部屋で、その部屋には昔大好きだった先輩がいるとか。もう訳わかんない。

 

「え、あの。なんで先輩が」

「何でも何もここ俺んち。……つうか、その感じだとお前、やっぱ昨日のことなんにも覚えてないのな」

 

 待ってろ、と先輩は一旦部屋を出ると、すぐにペットボトルを持って帰ってきた。

 

「飲め」

「あ、ありがとうございます……?」

「だから首を傾げるな。どうせのど渇いてるんだろうが。心配しなくても未開封の水だよ」

 

 や、心配とかではなく。単純にまだ全然理解が追いついてないだけなんだけども。それはそれとして、お水は普通にありがたいのでいただきます。

 

 そうやって一口水を飲むと、途端に緊張で忘れていた、のどの渇きを思い出した。一気にペットボトルの半分ほどを飲み干して、ようやっと人心地つく。

 

「お前、怪我は?」

「……ないですけど?」

 

 そのタイミングで差し込まれた質問に、私は首を傾げながら答えた。身体に異常はあるけど、二日酔いで気持ち悪いだけで怪我はないと思う。

 

「じゃあ荷物は? それで全部か?」

「え? ……えっと、はい。これで全部」

「財布の中身は?」

「……それも大丈夫です」

 

 言われるがまま荷物と財布のチェックをする私。

 そんな私を見て、先輩はやや目線を逸らしながら、

 

「………………ことはされてねえか?」

「はい?」

 

 唐突に声の小さくなった先輩に聞き返すと、先輩はすごく言いにくそうに言った。

 

「……エロいことはされてねえか?」

「ふぇ!? あ、えっと……、はい。多分……。そういうことは、なにも……」

 

 先輩が照れると、なんていうか私も答えにくい。

 いや待って。そもそも何を聞かれてるのかな!? 色々ぶっ飛びすぎて混乱してるけど、状況考えたら私をここに連れ込んだの先輩なんだから、そういうことするのって先輩しかいないのでは!?

 

 あわあわと、私が一人脳内で混乱していると、先輩は息を長く吐いて、ついでにじとりとした視線を私に向けて口を開いた。

 

「お前は……、もうちょっと危機感を持て」

 

 ドスの効いた低い声。

 随分久し振りに聞く、先輩の怒った声。それもきっと、今まで聞いてきた中で一番怒っている声に、私は逸れかけた思考を先輩に集中させることになった。

 

「いい歳した女が、酔いつぶれてそこらに転がってるとか、どんだけ危険かわかってねえのか。荷物も財布も取り放題、ヤる目的で連れ帰る奴だっているかもしれねえ。それでなくたって、急性アルコール中毒やらなにやらあるだろうが……!」

「ひっ……。あの、えっと、でもですね……、いつもはこんななるまで飲まないっていうか」

「一発アウトに決まってんだろ阿呆。そりゃ酔いつぶれた女に何かする奴が一番悪いが、被害にあって苦しいのはお前なんだから自衛はしろ。隙を見せるなとは言わんが、隙だらけなのはどうにかしろ阿呆」

「うぅ……」

「無理矢理飲まされたってんなら、そんな連中は切れ。自分から飲んだんならキャパシティ越えるな。自分のキャパがわからんようなら二度と飲むな」

「それは、言い過ぎじゃ……」

「じゃあお前、ここに来るまでの経緯説明できるか? なんでこんなになってるのか、そもそも俺がお前襲ったら抵抗できるのか、寝てる間に俺に何にもされてない保証は?」

「……あう」

 

 立て続けに突きつけられる正論に、何一つ反論できない。

 それはそうだ。この部屋で目覚めて実際に感じた恐怖は、まさに先輩の言うこと全部だったんだから。

 

「……以後、気を付けます」

「マジ頼むぞ。自分の知らないとこで、知り合いが泥酔して好き勝手されてるとか本気で勘弁だからな」

「はい……」

 

 疲れたような声をあげる先輩。自分がメチャクチャ迂闊だった自覚があるだけに、シュンとするしかない。

 ……んだけど、でも、これはちょっと聞いておかなくちゃいけないっていうか。

 

「あの、ですね……」

「なんだ?」

「えっと、その。わたし結局、どうしてここにいるんですかね? っていうか、昨日いったい何があったのかなー、なんて……」

「……」

「あは、あははは……」

「はあぁぁぁぁ……。だよな、覚えてねえって言ってたもんな、お前」

 

 いやホント。先輩にこんな顔をさせるのも忍びないんだけど、やっぱりこれだけは聞いておかないとマズイんで。本当にごめんなさいって感じではあるんだけどね? 本当にね?

 

「帰ってきたら、部屋の玄関によっかかって寝てる女を見たときの俺の気持ちがわかるか? それもよく見りゃ、高校んときの後輩だぞ。酒臭いわ、荷物は散乱してるわで、なんかの事件に巻き込まれたんじゃねえかって気が気じゃなかったからな」

「えっと、つまり私は先輩の家の前で寝てたと?」

「揺さぶっても起きねえし、警察かなとも思ったんだが……。見たとこ外傷もないし、着衣の乱れもねえし、その辺に転がってた荷物にはスマホも財布もあったしで、ただの酔っぱらい認定した」

「う、そうです……。私がただの酔っぱらいです」

「まあ今思えば俺も動転してたんだな。普通に警察か病院でよかったろうに、家のベッドに放り投げてんだから」

 

 遠い目をした先輩に、若干の後悔を感じ取って申し訳なくなる。

 そりゃそうだよね。酔いつぶれた後輩を拾ったと思ったら、相手は何にも覚えてないんだし。しかも私を部屋に入れる所なんて見られたら変な噂立ちそうだし。面道事嫌いなイメージのある先輩にとっては、今回のこれは特大に面倒くさい出来事だったんだと思う。

 

「あの先輩。もしやベッドに放り投げた後輩に、なにかいやらしいことは……」

「ぶっ殺すぞ」

「すみません!!」

 

 暗くなりがちだった空気を入れ替えようと、軽口叩いてみたら見事に失敗した。いやうん。さすがに空気読めなさすぎる発言だったわ。自分でも軽く引く。

 

 私は居住まいを正すと、先輩に向かって頭を下げた。

 

「ご迷惑、おかけしました」

「本当にな」

「……今度お詫びを」

「いらん」

「えっとその、ところであの……、ここどこなんでしょう?」

 

 経緯はなんとなくわかった。先輩に迷惑かけてるのもわかった。

 でも結局そこのところがわかんない。いや、なんとなく予想は着いてるんだけど、念のためっていうか。

 

「俺の部屋」

「や、そうじゃなくてですね」

「メゾン棚町 202号室」

「あ、私302号室です……」

「んなこったろうと思ったよ……」

 

 つまりその、ここは私の部屋の真下で。私は昨日、階段を一つ上がり損ねて先輩の部屋の前で寝こけてたってことで。そして先輩は無防備な私を保護してくれたってことで?

 

 信じられないくらいの偶然。奇跡的な再会って言っても過言じゃないハズなのに、劇的とか感動的な出会いみたいに思えないのは、再会の経緯が情けなさすぎるせいかな。

 私個人としては十分衝撃的な再会ではあったんだけど、やらかしを自覚してる分、少女マンガ的思考に浸れない。そしてそれは先輩も同じだと思う。もともと少女マンガ的な考え方とは無縁そうなのに、私の醜態みた後だともう、感動もへったくれもないと思う。

 

「桐原。お前、今日予定は?」

 

 と、なんやかや働かない脳を必死に動かしていると、先輩が急にそんなことを言った。

 

「え、え? なにもないですけど」

 

 えっと、なんだろう急に。

 さっきも言ったけど、今日の私は完全オフだけど。でなきゃ、さすがにあんなにハメを外して飲んだりなんかしない。

 いや、それにしたってハメを外しすぎて失敗してるんだけどさ。

 

「そうか。……生憎、家にはメシがなくてな。コンビニまで行ってくるからちょっと待ってろ」

「へ? あ、あの私もっ」

 

 言い捨て、部屋を出ていこうとする先輩に、反射的にそう言った。

 いやもう本当、今この状況で一人にされるのが嫌すぎる。ここに至る経緯とか今の状況とか、説明はされても飲み込めてないし、そもそも先輩が出てきたことでとっくにキャパオーバーだから、せめて私の気持ちが落ち着くまで一人にはなりたくない。

 

 けど、そんなことは結局わたしの都合なワケで。

 先輩はものすごくめんどくさそうな表情を浮かべると、私のことを指さして言った。

 

「その顔と格好で行く気か?」

「……は?」

 

 顔と、格好……?

 

 問われて一瞬考え込む。

 いつもなら『容姿には少しだけ自信がある』と返すところではあるんだけど、そういえば今の私ってどんな格好してたっけ?

 

 ……。

 …………。

 ………………!?

 

 知らない部屋と、そこに現れた先輩って衝撃のせいで飛んでたけど、私泥酔からそのまま寝落ちしてたんだよね!? ってことは……。

 

 二日酔いできっとヒドい顔。皺だらけに乱れた着衣。ぼさぼさの髪と、崩れてしまってるだろうお化粧。端的に言って、人様にお出しできる姿ではない。

 

「~~~~~っ!?」

 

 声にならない悲鳴が上がる。

 今更のように沸き上がってきた羞恥心に、思わず自分の身体をかき抱いた。

 

「留守番頼むわ、じゃあな」

 

 先輩は、もはやこっちには一瞥もくれずに小さなため息を吐いて、その一言とともに本当に部屋を出ていってしまった。

 

 残された私はそのまま部屋の中でぷるぷる。

 あんまりな再会の仕方をして、あんまりな姿を見られてしまった。それもずっとずっと好きだった人に。もう、なんていうか……、死にたい。記憶を消して、再会からやり直したい……。そういう鬱々とした気持ち。

 

 ああ、もう。再会できるなら、なにもこんな形でなくたって。

 

 そう思ってため息を吐く。

 今更かもしれないけど、せめて先輩が帰ってくるまでに、ちょっとでも体裁を整えよう。

 バッグの中から手鏡を取り出して、顔面をチェック。

 案の定、二日酔いのせいで顔色は悪いし、メイクも崩れてしまっている。思ってたほどじゃないってのは不幸中の幸いではあるけども。

 

 と、うっすらと自分の口角が上がっているのに気が付いた。

 相変わらず身体はダルくて、先輩に醜態を見られて散々だっていうのに、口元は楽しそうに笑っている。

 

「なにそれ。これじゃ頭おかしい女だよ」

 

 自分で自分にツッコミを入れる。

 この最低な状況が楽しいだなんて、それはちょっと頭おかしい。

 

 おかしいんだけども、でも確かに楽しい。ううん、嬉しい。

 だって……、だって、二度と会えないと思っていた人に、また会えた。先輩に忘れられていなかった。会って話をすることが出来た。

 

「諦めなくても、いいのかな……?」

 

 もう一度。今度はちゃんと、好きだって伝えてもいいんだろうか。そういうチャンスを貰ったって、浮かれちゃってもいいのかな。いいよね? いいってことにする! だって先輩に会えたの、本当に嬉しかったもの!

 

「よっし、頑張る!!」

 

 気合い一発、決意表明。

 直後、自分の声が頭に響いて、先輩が帰ってくるまで悶絶する私なのでした。

 

 前途多難。先行き不明。

 でも、希望があるから頑張れるよ。




※※※
『先輩と日直』が起こらなかった世界線

いつものに輪をかけて、深く考えてはいけない。
※※※
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