今日も今日とてまじめに働き終わった私は、着替えを済ませて更衣室を出た。
そのまま荷物を持って事務所に足を向けると、手早くタイムカードを打刻して休憩室に向かう。従業員が使う裏口はいくつかあるけれど、私が使うのはもっぱら休憩室のものだった。
理由らしい理由は特にはない。強いて言うなら、私を送って帰ってくれる先輩が、だいたいいつもその裏口を使うから、だろうか。釣られてその出口を使っているうちに、私も使い慣れてしまった、みたいな?
そんなワケでいつも通りに休憩室の扉を開くと、そこには思いも寄らぬ先客が一人。すらりとしたスタイルの美人が、休憩室の椅子に姿勢良く身を預けている。
「あ、ユキちゃん先輩」
つい先ほどまで一緒にホールに出ていた先輩の名を呼ぶ。
「…………レイナちゃん」
私の声に反応した彼女────ユキちゃん先輩こと
「ごめんなさい。邪魔しちゃいました?」
「ううん……。そんなことは、ないのだけれど」
ぱたん、と文庫本を閉じて、一拍二拍。
「……レイナちゃんは、今から帰り?」
「はい。今日は午前中までなので」
「そう。お疲れさま」
そう言って、彼女はふわりと笑った。
途端、胸の奥がきゅん、とする。
私は別に
日本人離れした色素の薄く、きめ細やかな肌。小首を傾げた時に、さらりと流れる光沢のある長い髪。形の良い細い眉に、澄んだ瞳、長い睫毛。やや高い鼻梁の下に、淡く色づく艶やかな唇。
それらが合わさって、いっそ暴力的な美をかもし出している。
そしてそういう暴力的な美から放たれる微笑みが、誰であろう私一人に対して向けられているのだ。
これはヤバい。語彙が溶ける。私が男だったらイチコロでした。ユキちゃん先輩と会話した男の人なんて、この微笑みだけでみんなコロコロされちゃうでしょ。ヤバい。
なんて、そんな風に私が固まっていると、何故かユキちゃん先輩が私のことをじっと見つめているのに気が付いた。
「え、あの、どうかしました……?」
まさか私の脳内を覗かれた、なんてバカな話じゃないよね? え、もしかして思考ダダ漏れのだらしない顔をしてました? ヤダ、そんなの恥ずかしくて居たたまれないんだけど!
硬直からの動揺。なんて、内心で上がり下がりの激しいことをやっている私に対して、ユキちゃん先輩は落ち着いた表情のまま首を振った。
「ごめんね。別になんでもない……。その、ただ……」
「……ただ?」
内心でドキドキしながら聞き返す。きっと動揺は顔には出てないと思う。出てないといいな。
「レイナちゃんと、あまりお喋りできなかったなあって。その、せっかくシフトが一緒だったのに」
「……っ!」
「少し残念だなって。それだけ。あまり気にしないで。お疲れさま」
はうっ!? え、なにそれ? 可愛すぎか!?
見た目完璧超絶クール美女が、少し恥じらいながらアナタとお話したかったとか、前世でどんな徳を積んだら言ってもらえるの!? ちょっと羨まし過ぎるんですけど、言われた奴出てこい。
「私だ」
「?」
「すみませんなんでもないです」
いけない、いけない。訳の分からない思考が外に漏れかけてた。
我ながらちょっと気持ち悪いから自重しないと。
心を落ち着ける意味で、ふう、と一度大きく深呼吸。
それから休憩室の椅子を引くと、私はユキちゃん先輩の前に腰掛けた。
「え?」
「ユキちゃん先輩がいいなら、少しお話しましょう!」
「……でも。せっかくの土曜日なのに。レイナちゃん、これからお休みでしょう?」
「いえいえ。問題ないです、大丈夫です」
困惑するユキちゃん先輩にそう返す。
ホントは午後から友達と遊ぶ約束があるんだけど、まだ余裕あるし。まあユキちゃん先輩の休憩時間分くらいは大丈夫だよね。
そうと決まれば、と私は口を開いた。
「ユキちゃん先輩はいま、休憩中なんですよね? 読書中でした?」
ここでサクっと話題を提供しないと、ユキちゃん先輩は私に遠慮しちゃいそうだし。名付けて『先手を取って、うやむやのまま会話を始めてしまおう』作戦。実際コレは、なかなか頭悪い割に、呆れるほど有効な作戦だと思う。
案の定ユキちゃん先輩は、困惑した様子で口を開いた。
「ええと。読書……、うん。読書ではあると思うけれど」
「けれど? なにか違うんですか?」
「勉強の一環というか……、趣味?」
んん? ユキちゃん先輩の言うことがよくわからない。
読書も、あるいは勉強にしたって、大ざっぱに趣味に分類できるものだと思うんだけど。趣味は勉強です、とか、読書です、とか。
単純に言い切れないっていうなら、なにか普通の読書とかとは違うんだろうか?
疑問符を浮かべた私に、ややあってユキちゃん先輩は机に広げた大判の本の表紙を見せながら口を開いた。
「……レイナちゃんは、このシリーズ読んだことある?」
「ありますよー。外国で映画にもなった有名シリーズですよね! 小学生の頃に読みました」
ユキちゃん先輩の質問に答えつつ、私は彼女が見せた本の内容を思い出していた。
平凡な男の子だった主人公が、ある日突然「お前は偉大な魔法使いだ」と言われて魔法の学校に進学。そこで友人を作ったり冒険したり、宿敵と戦ったりする小説で、たしか原作はイギリス人作家の全7エピソード。その全部が映画化されてて、世界中で大ヒットになった超有名作だ。
テレビで映画の放送とかもやってるし、原作を読んでなくてもなにかしらの媒体で触れたことがある人が大半だと思う。
で、ユキちゃん先輩の手の中にあるのは、そのシリーズの二作目。内容は……、ええっと、なんか隠し部屋の話だっけ? 読んだの小学生の頃だからうろ覚えだぞ。
「うん、そう。これのね、原作版をいま読んでて」
「原作版……っていうと、小説ですか?」
「……うん。これなんだけど」
そう言ってユキちゃん先輩が次に開いたのは、彼女の手の中にあった文庫サイズの本の方だった。
ページをのぞき込むと、そこには英語の文章がびっしりと詰まっている。私は思わず「うわ」と声を上げてしまった。
「翻訳前の!?」
「ええ……。読書は好きだし、このシリーズも好きだし、息抜きがてら良い勉強になるかなって」
「はえー……」
はっ! いけない、素で変な声が漏れてる。
いやでも、息抜きがてら原文を読もうだなんて、本気の本気で関心しちゃうワケで。私なんかは特に活字が苦手だから余計にそう思う。
「大変じゃないんですか?」
「大変だけど、結構楽しいかな? ……自分の訳とプロの訳を見比べたりもできるし」
なるほど。そのための日本語版……。いやそれにしたってスゴいよ。まず自発的に翻訳前の文章を読もうって思えることが既にスゴいよ。
っていうか、もしかして……、
「あの、ユキちゃん先輩」
「……なあに?」
「大学生って、みんなそんな感じの知的な趣味を……?」
おそるおそる尋ねる私に、ユキちゃん先輩はさして表情を変えないまま首を傾げた。
「……どうかな? 知り合いで同じようなことしてる子には会ったことないけれど。それにこれは、面倒くさいだけでそこまで知的ってほどでも……」
「知的! 知的です! 私からしたらとっても!」
「そうなの……?」
再び小首を傾げるユキちゃん先輩。その動きにあわせて長い髪がさらりと落ちる。
お、おおう。い、いったいどんな手入れをしたら、あんなさらさらの髪が手に入るっていうの!? さらさらなだけじゃなくて、ツヤツヤだし! あ、あー! その落ちてきた髪を耳の上にかき上げる動作! いけません、あーいけませんお嬢様! 何気ない仕草が色気を振りまいていていけませんぞー!!
「レイナちゃん、どうかした?」
「ふぁいふ!!」
「ふぁいふ?」
「あ、あー。ごほん! なんでもないです。大丈夫」
「……そう?」
「そうです!」
いけない。また変な方向に思考が迷い込みかけた。ユキちゃん先輩が美人過ぎてつい。
なんとか立て直さないと、私ただの変態女子高生だぞ。
「いま読んでるのが二巻ってことは、一巻はもう読み終わったってことですか?」
「……え? ええ、うん。そうなの。そろそろ二巻も読み終わるから、今度三巻の英語版を買いに行こうかなって、アキラとも話してて……」
なんとかまともな質問をできた私は、ユキちゃん先輩の返答に、思わぬ人の名前を耳にして目を丸くした。
「アキラさん? アキラさんもそれ読んでるんですか?」
ユキちゃん先輩が呼び捨てにするような仲で、『アキラ』という名前の人物なら、まず間違いなくこの人だろう。
アキラさんは、ユキちゃん先輩とはちょっと違うタイプの美人さんというか。小柄でちょっと童顔で、明るく活発な『ザ・太陽』みたいな先輩だ。ユキちゃん先輩が、すらりとして大人びていて物静かな美人さんだから、ちょうど対になってる感じ。そういえばアキラさんとユキちゃん先輩の写真を見た友達にも『属性的に隙がない』って言われたっけ。
たしかアキラさんはユキちゃん先輩とは同い年で、同じ大学で、うちのバイトを始めたのも同じくらいの時期だったそうだ。
で、このアキラさんなんだけど、私の中でさっぱり読書している姿がイメージできない。
いや、失礼な話だと思うんだけど。ホントにあの人が読書────それも日本語じゃない本を訳しながらとか、全然想像できない。
私が思わずユキちゃん先輩に聞き返してしまったのは、まあそういう事情からなんだけど。
そんな私の心情を知ってか知らずか、ユキちゃん先輩は事も無げに「アキラは読んでないよ?」と答えを返して、
「アキラとは買い物の約束をしてただけ。その時に、本屋にも寄ろうねってそれだけだよ」
「そうですか。……なんか、アキラさんと読書が結びつかなかったからビックリしちゃいました」
にゃにをー、失礼だなー! とか、アキラさんが叫んだ気がするけど、気のせいだと思うことにする。うん。ここでの会話とか、聞こえるわけないし。
「そうだね。アキラはあんまり、読書とか好きじゃないみたいだし」
と、ここでまさかの援護射撃。
ユキちゃん先輩にまでそう思われてるってことは、実際にアキラさんは読書とかしない人なのかも。
「レイナちゃんは」
「はい」
「読書は好き?」
「あー……、活字苦手で。あはは。マンガとかならよく読むんですけどね」
あ、これ、言ってて虚しくなるやつだ。
英文を訳しながら読書しちゃう人の前で、読書対象としてマンガあげるとか恥ずかしいにもほどがあるぞ?
「マンガか……。ちなみにどういうのを読んでるの?」
「へ? えっと、はい。最近だと『しろくろ同盟』とか『忍闘伝』とかですかね」
「……『しろくろ同盟』は少女マンガだよね。にんとうでん? の方はよく知らないんだけど」
「あ、『忍闘伝』は少年マンガです。バリバリの忍者アクションもの」
あれ? 意外にも興味ありな感じ?
バカにされるかも、とは微塵も思ってなかったけど(ユキちゃん先輩だし)がっかりはされるかなって思ってただけに、ユキちゃん先輩のこの反応は意外だったり。
「アクションものかあ。そういうの読めるんだ。スゴいね、レイナちゃんは」
「ぴゃっ!? す、スゴいって何がですか?」
唐突な褒め言葉に呂律が死んだ。恥ずかしい。
一方のユキちゃん先輩は、やっぱり表情を変えないままに言った。
「マンガはほら、情報量が多いから。わたしは読むのに時間かけちゃうし、疲れちゃって……。嫌いではないんだけど、気楽に読むには少しハードルが高いの」
「ハードル高い、ですか? マンガが?」
「……よくそういう顔される」
「あっ! ご、ごめんなさい!!」
「いいよ。なんとなく、理解されづらい感覚らしいっていうのはわかっているから」
ユキちゃん先輩はそう言ってくれたけど、私はもしかしてとんでもない失礼をかましてしまったんじゃないだろうか。
得意不得意なんて人それぞれなのに。私だって『英文を和訳しながら読書するのってそんなにハードル高い? え、ウソー。信じらんなーい』とかいう顔をされたら、正直かなりショックだし。
けれどユキちゃん先輩は、相も変わらず表情を崩さないままで、
「マンガはね。絵と、キャラクターの台詞、あとコマの順番があるでしょう?」
「へぁ、あ。はい、ありますあります」
「うん。まず誰が何を話しているのかを理解して、そのキャラクターがその時どんな顔をしていたか。その表情なら言葉の裏にどんな心情があるのか。身体はどう動いているのか。ヒトコマだけでこれだけ読みとらなきゃいけないじゃない?」
「……そうですね」
言われてみれば、確かにそうかもしれない。なんだか、意外とコマの一つに物凄い情報量を詰め込まれている気がする。
「それに加えて効果音。ギンッ、って音を脳内で金属音に変換したりとか、効果線っていうのもあるし。で、そういう情報を複数コマ使って、最終的に静止画が動きを持っているかのよう脳内で変換して、一つの映像にする。
マンガを読むってそういうことだと思うの」
「なんかそう聞くと、マンガ読むのってスゴく大変な作業な気がしてきました」
「うん。だからレイナちゃんはスゴいねって。マンガを気楽に読める人は、そういうことを無意識のうちにできちゃうから、あまり意識しないだろうけど。マンガをすらすら読めるのって、才能だとわたしは思うよ」
ふわりと、口元を緩ませてユキちゃん先輩が笑う。
なんだかそんな風に言ってもらえると、自分が本当にスゴい子のような気がしてくるから不思議だ。
「でもあの」
「うん?」
「小説とかもこう……、文章から映像を想像しなくちゃいけなくて、そっちの方が大変じゃないですか?」
「……んー。小説は与えられてる情報が文字だけだから。絵と台詞と効果っていう、種類の違う情報から一つの映像を想像する方が、わたしには大変かな」
「そういうものなんですか?」
「そういうものです。与えられる情報が多すぎても、上手く処理できない人間もいて、わたしはそのタイプ。レイナちゃんは、上手く情報を処理して映像に組み替えられるタイプ。繰り返しになってしまうけれど、それは普通に才能だと思うよ」
それを聞いて、なんだかスゴいな、と私は思った。
活字を読む人とか、たくさん読んでる人のことを褒めたりっていうのはよく聞くけれど。マンガを読む。読めることを才能だなんて言ってくれた人は目の前の、このお姉さんだけだったから。
そういう風に、本人でさえも『なんてことない』って思ってたことを、『スゴいね』って思える。『スゴいね』って褒めてくれる。この人こそが、スゴい人だなと私は思った。
「ユキちゃん先輩は」
「……うん?」
「カッコイイですねっ!」
「うん。……うん?」
ユキちゃん先輩が首を傾げたタイミングで、『ピコン!』と通知音。
咄嗟にスマホを見ると、友人から『はよこい』と私の到着を待つ旨の催促メッセージが届いていた。集合時間にはまだ少し余裕があるけれど、催促されてるってことはみんなもう待ってるってことだ。そして彼女らを必要以上に待たせすぎると、後がとっても面倒くさい。
「……あの、レイナちゃん」
「あ、ごめんなさい。ユキちゃん先輩! 友達に呼ばれてしまったので、そろそろ行きますね!」
「あ、うん」
「それじゃあ、また次のバイトで! 午後からも頑張ってください!!」
バタバタと荷物をまとめて、慌ただしく休憩室を出る。
午後からの友人たちとの約束と、ユキちゃん先輩とのお喋りのおかげで私の心はすこぶる晴れやかだった。