艦隊これくしょん -apprivoiser-:軍艦・球磨、始まりの海、最果ての空 作:AyLsgAtuhc
――――1520、国防海軍警備施設、執務室。
『もう少しで死ぬところだったクマー!』
そう叫んでいたのは、以前、命の危機を救った駆逐艦娘小隊が所属する鎮守府司令官から、その感謝の印として贈られた鳳梨酥(パイナップルケーキ)を栗鼠の様にぷっくらと頬を張らせながら食べている、艦娘・球磨であった。
先週、遭遇した姫にこっ酷くやられた球磨は、帰還後、有無を言わさず艦娘用入渠ドッグで高速修復材を用いた集中治療を受けた。
その後、球磨の傷は綺麗さっぱり癒えたものの、酷使しまくった艤装のダメージが思った以上に大きかった為、艤装の修理が完了するまでの数日間、後援救助部隊の旗艦は多摩に任せ、執務室で秘書艦業務に精を出す結果となった。
「まったく……」
そして大きな安堵の溜息を吐き捨て、湯呑を片手で持ち、同じく感謝の印として贈られた烏龍茶を渋い顔で啜る提督は、執務室の一角に備え付けられた応接机に球磨と対面して座り、球磨曰く「ゆとりの行動」を取っていた。
つまるところ、3時のおやつの休憩時間である。
球磨と提督は、球磨が着任した際に買い揃えた中々にして上物の茶器揃で、のんびりと一服していた。
「……確かに、姫級があの海域に展開しているとは思わなかったし……そこは僕のミスでもあるよ……でも正直なところ、球磨だったら、適切かつ妥当に攻撃をいなして、さっさと離脱するかなと思ってたから、そこまで心配はしてなかったんだけどさ……」
鳳梨酥をにっこり嬉しそうにモグモグと食べる球磨を見ながら、提督は烏龍茶を一口啜り、言葉を紡いだ。
「まさか姫級に対して単騎で突貫仕掛けるとは思わなかったよ……しかも僕の再三の呼び掛けを一切無視してさ……本当、勘弁してくれよ……」
「……ごめんなさい」
申し訳なさそうにしゅんと上目遣いで謝る球磨の姿を見て、提督もこれ以上怒るに怒れず、溜息をもう一つ吐いて、球磨に問いかけた。
「それにしても本当……何時もの球磨らしくないよ。どうしてそんな考えに至ったんだい?」
「……正直、球磨にもよく分からないクマ」
しょんぼりとした顔の儘、鳳梨酥を摘まんだ球磨は、頭の上に疑問符を浮かべながら答えた。
「……だけど姫と対峙した時、球磨は名状しがたい感情に支配されてたクマ」
「名状しがたい感情?」
そして球磨は、重苦しい顔を浮かべ、その時の出来事を回想した。
「……怒り、恐怖、嫌悪、悲しみ、そして憐れみ……それらがグチャグチャに入り混じった様な感情……球磨にもその感情が何処から来たのか分からなかったクマ……そうして、球磨はある考えに至ったクマ」
一つ一つの感情を紐解く様に語っていく球磨に対して、提督は訪ねる。
「ある……考え?」
その問いかけに、球磨は一呼吸の後、重い表情で答えた。
「あの姫を何が何でも倒さなければならない、と」
その球磨の言葉を聞いた提督は、烏龍茶をまた一口啜り、自分の首に手を添える。
「……」
そしてこれ以上、話を続けるべきか悩み、言葉を探していた。
その様子を察した球磨は、先程の表情とは打って変わり、悪戯な笑みを含んだ表情を、提督へと投げかけた。
「それにしても……普段、冷静沈着な提督があんなに叫んでる姿を見たのは球磨も初めてだクマー」
「……僕だってあんなに叫んだのは本当、久しぶりだよ……まぁ、何はともあれ、人死には無かったんだ。これで良しとしよう」
そう言ってほっと胸を撫で下ろした提督。
それに対して球磨は、まるで「この場に居るのは間違いなのではないか」とでも提督に言いたげな表情を浮かべた。
「……でも、艦娘以前に、球磨たちは軍人だから、死ぬ事は当たり前だクマ。まだ人死にが出てないとは言え、提督はもうちょっと慣れた方がいいクマ」
「……軍人だから死ぬ事は当たり前とは言ってもなぁ……それは十二分に理解してはいるが……自分が居なくなる事よりも、球磨に限らず、見知った顔がある日突然居なくなる事の方が、ずっと辛いんだよ……」
そう答えた提督は、机に肘を置きながら、こめかみを手で押さえた。
そして唇を悔しげに噛み締めた提督の表情は、重く、苦しそうであった。
恐らく昔の出来事を想起しているのか、目が潤んでいる。
提督の過去に何があったのか、球磨には分からなかったが、話の流れから察する限り、恐らくはそう言う事なのだろうと思った。
球磨は小さく吐息を洩らし、物優しげな表情を浮かべ、提督に対して穏やかに諭した。
「本当、提督は軍人に向いていないクマ。何で提督が未だに軍人をやっているのか、球磨にも分からないクマ」
「……以前、所属していた降下救助員や特警隊の奴らにもよく言われたよ。『お前は優秀だが、如何せん優しすぎる。お前の精神がぶっ壊れる前に辞めた方がいいぜ』ってね」
提督は大きく溜息を吐き、残りの烏龍茶を一気飲みしてから、頭を抱え、球磨に愚痴をぽいぽいと投げかけた。
「こんな事だったら司令官なんて引き受けなきゃよかったよ……誰だよ、地位が上がれば役得が増える何て言った奴は……地位が上がれば上がる程、役損ばかりが増えていくじゃないか……あの時点で退職しとけば良かったんだ……そもそもあの時、海軍に入隊しなきゃ……」
――そこまで言うなら辞めればいいのに。
球磨は純粋な親心からそう思ったが、それが口に出される事は無かった。
何故なら、そう毒づきながら話す提督の目は、とても言葉では言い表せない程、激しく熱く輝いていたからだ。
―― そのように提督が紡ぐ言葉とは相反する表情を伺いながら、球磨は思った。 ――
提督が言っている事は、恐らく本心だろう。
だけど、それを差し置いた「何か」が提督の心にあるのも確かだ。
第一に、いくら後詰の司令官とは言え、司令官という地位を得るには、数々の難易度の高い課程や試験、それをパスするだけの資質や才能と努力、そして相応の実績が無ければ、決して得られる地位では無い。
そして、これ程の信念と熱量を纏った眼差しを掲げた人物を、球磨は知らない。
これ程、ギラギラと血潮を滾らせた様な目を抱いた人物が、果たしてこの世にどれだけ存在するのだろうか。
―― 恐らく提督には提督なりの、己が精神、ましてや命さえも厭わない想いがあるからこそ、今この場所に立っているのだろう。 ――
………………………………
一通り仕事の愚痴を溢した提督は、ふう、と溜息を吐いた後、呆れ顔の球磨を見据え、申し訳なさそうに口を開いた。
「ごめんね、色々愚痴っちゃって……司令官って立場上、こんな弱音を吐けるのは球磨ぐらいしか居ないからさ」
「なぁに、気にするなクマ。これも秘書艦業務の内だクマ」
だが球磨の呆れ顔には、不思議と優しさが混じっていた。
「なぁ、球磨。変な事を聞くようだけどさ」
その表情を見た提督は、ふと、思い出したかの様に尋ねる。
「球磨には、軍艦の時の記憶ってあったりするのかい?」
以前見た「軍艦・球磨」と「少将」の夢。
それが只の夢なのか、何かの意味を孕んだモノなのか。
提督は気になり、「艦娘・球磨」へと尋ねた。
「……艦娘に引き継がれているのは、あくまでその艦艇に宿った『魂』だけクマ。だから『記憶』がそっくりそのまま引き継がれているって訳じゃないんだクマ。それでも、そうした『魂に刻まれた断片的な記憶』なら思い出せるクマ」
そして球磨は、その提督の質問に少々訝しげな表情を浮かべながら、提督に答えた。
「そっか……なら、聞いてもいいかい?」
「別にいいけど……」
球磨は、恥じらいの朱を顔に掠めながら、提督に告げた。
「……正直言って球磨の歴史(過去)なんて聞いてもちっとも面白くないクマよ? 他の艦艇みたいに『沈んだ敵艦の水兵を助けた』みたいな美談も無ければ、『艦体が真っ二つになっても最後まで勇猛果敢に戦った』なんて武勇伝もない。ましてや『相次ぐ激戦をほぼ無傷で生き延びて武勲を立てまくった』みたいな伝説めいた幸運譚もないクマー」
薄紅に頬を染めた球磨は、もじもじとしながら、提督に言葉を繋げた。
「それでも……聞きたいクマ?」
「うん、それでも僕は聞きたいんだ。そうした歴史舞台の裏側で、球磨が一体何をしていたのかをね」
その球磨の言葉に、提督は即答した。
その提督の言葉に、球磨は真ん丸と目を見開き、そして嬉しそうな笑みを浮かべた。
「……分かった、それなら話すクマ」
「ありがとう」
「ちなみに球磨自身もうろ覚えの部分があるから、もし間違ってたりしたらごめんクマ。それと、最初っから話すとなると、ちょっと話が長くなるクマー」
「それでも構わないよ」
「まぁ、まだお茶も残ってるし、茶菓子の足しにでもすればいいクマ」
そして艦娘・球磨は、さながら竪琴を奏でながら叙事詩を語る様に静かに、提督へと話し始めた。
己が生きた激動の時代、その歴史の一幕を。
………………………………
「球磨が生まれたのは1919年頃、丁度、大正の真ん中ぐらいだったクマ。『八四艦隊案』で産み出された球磨は直ぐに『シベリア出兵』の為、シベリアへの軍の上陸を掩護したり、中国沿岸の哨戒をしていたクマー。『シベリア撤兵』の際にも旅順を拠点として中国沿岸の哨戒任務に従事していたクマ。この頃の球磨は、意外どころかメチャクチャ優秀だったクマ! 向かうところ、敵なしだったクマー。でも、撤兵の翌年……『関東大震災』によって世の中の常識が全てぶち壊され、国内は未曾有の大混乱に陥ったクマ。あの当時はもう本当、しっちゃかめっちゃかだったクマ。まぁ、そんな時代に球磨は生まれたクマ」
――――球磨の生まれた時の事。
「海軍の迷走はこの時から始まっていたのかもしれないクマ……陸軍との方向性の違いによる不仲、海上航路(シーレーン)保護の理解不足……極めつけは『八八艦隊計画』。知っての通り、戦艦8、巡洋艦8、第二線の主力艦8の計24隻を8年周期で補充する計画だクマー。正気の沙汰とは思えないクマ。そんな大艦隊を平時に持っていたら、日本経済が傾くどころか、国庫が吹き飛んで、然る後ペンペン草も生えないレベルだクマー。日露戦争でバルチック艦隊を撃破した事にどれだけ浮足立っていたのかクマー? 東郷提督も『勝って兜の尾を締めよ』とあれだけ口を酸っぱくして言っていたのに……いや、よくよく思い返してみたら、あの当時は他国も頭のネジが全部吹き飛んだ様な計画を立てていたクマー。だから共倒れになる前に『ワシントン軍縮条約』で主力艦の保有制限が設けられたクマ」
――――海軍の迷走。
「そういえば俗に言う飴と鞭の法律『普通選挙法』と『治安維持法』の制定も、それから数年後の出来事だったクマ。世の中が段々とキナ臭くなり始めたのもこの頃だったクマ。そして……球磨の名付け親でもある『大正天皇』が崩御され、また時同じくして、当時の文豪が自ら命を絶ったクマ。『ぼんやりとした不安』とはよく言ったものだクマ。超個人的な理由で自ら命を絶ったとはいえ、これから先の出来事を考えると、そうした動乱の時代を予感した様に思えなくも無かったクマ。そうして『大正』の時代が終わったクマ」
――――激動と混沌の「大正」の終焉。
「混沌の『大正』が終わり、『昭和』に入って球磨を待っていたのは『世界恐慌』という混迷だったクマ。ニューヨーク株式が大暴落を起こし、世界経済は地に落ちたクマ。一度目の大戦で景気を良くしたのを良い事に、加減も知らずバカスカ投資しまくるからこんな事になるクマー。……あれ? 昨今にも似た様な話があった気がするクマー?」
――――そして動乱と混迷の「昭和」の始まり。
「これにより日本経済も地に落ち、更に追い討ちをかけるように昭和東北大飢饉が発生。農家経済は東北地方を中心に自分の子を身売りする状況まで疲弊するなど、そうした深刻な社会不安が、国内に鬱積していったクマ。そして『ワシントン体制』と『中国ナショナリズム』の挟撃に対する現場の憤懣が頂点に達し、関東軍が政府決定なしに中国の鉄道を爆破、自衛という名目で攻撃を行い、同地を占領。知っての通りこれが『満州事変』だクマー。この事変による他国との一悶着により、結果として日本は『国際連盟』からの脱退を表明したクマ。そして日本世論がそうした軍部の行動を受け、社会不安を払拭する一つの解答として軍部支持に傾向した事により、文民統制が完全に崩壊、軍国主義に走り出したクマ。ちなみにこの時の球磨は、高雄だったり馬公だったり旅順だったり、中国沿岸を行ったり来たりしていたクマー」
――――「満州事変」という種火、国際社会からの孤立。
「これもあり、日中関係は緊張を増し始め、そして偶発的とは言え『盧溝橋事件』が発生、『日中戦争』が始まったクマ。たった数発の銃声から始まった戦争が、次第に全面戦争へ、そして泥沼化していったクマ。そうした中、先の第一次世界大戦後に敷かれた『ベルサイユ体制』に対しての不満が爆発したドイツ世論、ひいてはちょび髭のアドルフおじさんこと総統閣下がポーランドに侵攻、英仏による宣戦布告よって『第二次世界大戦』が始まったクマ。また日本、ドイツ、イタリアが『三国同盟』を締結した事によって、日本は完全に『枢軸国』陣営に就いたクマ。そして日中戦争の長期化の原因の一つである米英の中国に対する物資支援、後は『ABCD包囲網』などによって、ここからどんどん日・米英関係が悪化していったクマー。……はてさて、この頃の球磨はと言うと、日中戦争始めの頃は、第三艦隊所属として日中戦争に従軍したり、第四艦隊隷下の潜水戦隊の旗艦として活躍したりもしていたけど、既に艦齢は20年近く経っていたクマ。流石の球磨もここまでクマ、後は予備艦生活でのんびり余生を過ごそうかと思った矢先に……」
――――「日中戦争」の泥沼化、「第二次世界大戦」の始まり。
「『太平洋戦争』が始まったクマ」
――――そして「太平洋戦争」の始まり。
「第三艦隊の『第十六戦隊』に配属された球磨は、『真珠湾攻撃作戦』直後、『比島(フィリピン)攻略作戦』に参加して部隊の上陸を掩護したクマー。その後、新編された『第三南遣艦隊』の旗艦として戦線に立ったクマ。フィリピンの海で球磨は、敵艦をちぎっては投げまくったクマ。やっぱり球磨は、意外に優秀クマー! また上陸作戦の時、球磨に搭乗していた特別陸戦隊がサンボアンガに上陸して、取り残されていた同胞を救出したクマー。流石、海兵団の古強者が多いだけあって、そのお手並みはとても鮮やかだったクマー! 球磨も見習いたいクマー!」
――――帝国の快進撃、栄光の半年。
「……だけど、それは泡沫の栄光だったクマ。開戦から6か月後、突如告げられた『ミッドウェー海戦』の大敗によって、これ以降、日本は敗退の道を辿る事になるクマ。それでも、その裏で球磨は、来る日も来る日もせっせと働き続けたクマ」
――――歴史の分岐点、日出る帝国、その斜陽の始まり。
「部隊の仲間には『足柄』や『長良』が居たクマ。それに馬公で丁度一緒になった『摩耶』とも出撃した事があるクマ。第三南遣艦隊の旗艦の後は、再び『第十六戦隊』へと戻り、『鬼怒』とも一緒に戦ったクマ。後は『北上』と『大井』とも一緒になった事があるクマ。そう言えば……北上と大井はこの基地に居るとして、確か皆は提督の知り合いが指揮する鎮守府に所属していた筈だクマー! 久々に会いたくなったクマー!」
――――共に海原を駆け抜けた戦友たち。
「比島(フィリピン)攻略作戦が一段落した安堵からか、球磨は『水雷艇・雉』を連れて夜な夜なノロノロと航行していたクマ。だけど、それがいけなかったクマ。未明道中、米魚雷艇に遭遇、それにいち早く気付いた水兵はサーチライトを照射、同時に奴さんの雷撃が始まったクマ。そして……反航戦で衝突すれすれまで接近された球磨に対して、奴さんは魚雷二発を発射。そこで一発が艦首に当たったクマ! この球磨をもってしても、ここまでと覚悟したクマ……だけど何故か魚雷は爆発しなかったクマ。なんと命中した筈の魚雷は、ぽきりと真っ二つに折れて沈んでいったクマー。恐らくあの場に居た全員が首を傾げていたクマ。まぁ、そんな訳で球磨は九死に一生を得たクマー。あの時は本当、もう少しで死ぬところだったクマー」
――――幸運を味方に付けた一戦。
「ある日シンガポールにイタリア巡洋艦が停泊していたクマ。だけどそのイタリア艦は、言ってしまえば裏切る可能性があったクマ。何故なら既にその時、イタリアの降伏は時間の問題だったからだクマ。そしてイタリアが正式に降伏した直後、シンガポールに停泊していたイタリア巡洋艦が突如として行方を眩ませたクマ。直ぐに球磨はその巡洋艦を追いかけたクマー。だけど……奴さんがどんな手を使ったかは知らないけど、結局目標を発見できず、そのまま逃げられてしまったクマ……あの時の出来事は本当に屈辱だクマ……! その四日後には、サバンに停泊していたイタリア潜水艦の連中とも一悶着起こしたし……そもそも向こうの態度が、滅茶苦茶いけ好かなったのが悪いクマ……! ……あんのヘタリア人ども……今思い返してみても腹が立つクマー! クマー!」
――――イタリア人に二度も酸苦を舐めさせられた事。
「……その後は、うん……相変わらず増援輸送と哨戒が主な任務だったクマ」
まるで祖母が孫に昔の事を話す様な、優しく温かな口調で球磨は、時に笑い話を交えて、過去の出来事を語った。
それは提督が知っていた紛れの無い、光と闇が交差する「大正・昭和史」のほんの一握りの出来事であり、その激動の時代を見据え続けた「軍艦・球磨」の歴史の一幕でもあった。
………………………………
「まぁ、こんなところだクマ」
一渉り話し終えた球磨は、一呼吸の息を置いた。
球磨は自身の湯呑の内側へと視線を落とすが、いつの間にか底の文様が見え、お茶の雫がその表面を潤すばかりであった。
それに気付いた提督は、机の上に置いてあった急須の横手を持ち、球磨の湯呑へと残りの烏龍茶を注いでやる。
「ありがとクマ」
そして懐古主義的な頬笑みを浮かべてお礼を言った球磨は、桜文を散らせた高田焼の湯呑をお淑やかに両手で持ち上げると、水へ落とした様に艶やかな青磁色の焼き物へと一つ、接吻けした。
――あれ?
その様子を見ていた提督は、提督が一番聞きたかった事が、まだ球磨の口から提示されていない事に気付いた。
――まだ、件の「提督」の事を聞いていない。
そして提督は尋ねた。
「ちなみにだけどさ……艦長の事は覚えていたりするのかい?」
「……正直、覚えていないクマ。入れ替わりが激しい軍艦で一々覚えてられないクマ。それにさっきも言ったけど、あくまで球磨が覚えているのは『軍艦・球磨の魂』に刻まれた、大まかな歴史(過去)が殆どクマ」
提督の言葉を聞いた球磨は、ちょっと困った様な表情を浮かべながら提督へと言葉を返した。
「そっか……」
――やっぱり気になるな。
そう思った提督は、更に球磨へと言葉を紡いだ。
「……でも流石に、一人ぐらいは覚えているんじゃない? 印象深い艦長は居なかったのかい?」
提督は、この時向けられていた球磨の表情。
「……」
艦娘・球磨の「これ以上は聞かないで欲しい」という信号を、提督は察するべきであった。
それが「艦娘・球磨」の奥深く、その心の深淵に触れてしまう話題であったという事を、この時の提督は理解してなかった。
「……」
暫く困り顔で考え込んだ球磨は、その後、椅子から立ち上がり、消え惑いながら部屋の中央まで歩く。
そして振り向き、提督に対して笑みを振り、意を決した様に言葉を投げかけた。
「……一人だけ、今でもしっかり覚えている艦長は居るクマ」
「へぇ、それは誰なんだい?」
その提督の問いに球磨は、一呼吸置いた後、答えた。
「杉野修一海軍大佐」
その言葉を皮切りに、先程まで球磨が浮かべていた笑みに影が差した。
球磨のその笑みを見て、そして球磨が口にした名前を聞いた提督は、自分自身の浅はかさを呪った。
提督は、自身が今まさに目の前に居る「艦娘・球磨」の深淵を覗こうとしているのだと、直感的に気付いた。
提督は直ぐに別の話題へと切り替えなければと、直感的に理解する。
そう、提督は、球磨がこの先語るであろう、この娘の「最期」を聞きたくなかったからだ。
そしてその言葉の重さに耐えられる自信が、提督には無かったからだ。
今ならまだ、何とでも言い訳をつけて、話を逸らして、逃げる事だって出来る。
――今ならまだ、引き返せる。
「……」
しかしあろうことか、言葉には出さずとも。
その言葉を発した球磨本人のその目が、「最期」まで聞いて欲しいと、提督に懇願しているのが、提督には痛い程受け取れていた。
――ここで逃げたら、この先、僕は一生、この娘に顔向け出来ないだろう。
――ここで逃げたら、この先、一体誰が、この娘の深淵に光を当ててやれるのだろうか。
提督は球磨のその目を見て、球磨の懇願に応えるべく、話の続きを聞く事を躊躇うもう一人の自分を心の中でぶん殴り、球磨に悟られない様、自身の太腿を血が滲むほど強く抓り、そして現実を見据える決心をした。
話題を振った以上、「最期」まで話を聴くのが自分の責任であると自身に対して命令を下す。
そうして提督は、椅子から立ち上がって球磨を真摯に見据えると、自身の勇気を絞る様に、球磨へと話の続きを促した。
「その人って……確か……」
夢で見た「少将」以上に、提督はこの人の名前を史料で知っていた。
何故ならこの艦長、「杉野修一海軍大佐」は、「杉野はいずこ」で有名な日露戦争の旅順港封鎖作戦で戦死した杉野孫七兵曹長の息子、また「戦艦・長門」の最後の日本人艦長でもあり。
「……球磨が1944年1月11日」
そして、1944年1月11日。
「――――沈むその瞬間まで艦長を務めていた人だ」
艦長として、「軍艦・球磨」が沈むその瞬間まで、乗艦していた人の名前だったからである。
「艦長だけじゃない、その時一緒に居た水兵たち、あの人達の事は一人一人、今でもしっかりと覚えている。あの日の出来事は、今でも鮮明に覚えている」
球磨はズボン裾をぎゅうと握りしめながら提督に言葉を連ねた。
「その日のインド洋の空は、雲一つない快晴で、絶好の訓練日和だった……以前から『敵潜水艦がマラッカ海峡で目撃された』という情報が入っていた為、それに備えるべく、マレーシアのペナンから『駆逐艦・浦波』と出港、対潜戦演習を行っていた……その訓練中、見張員の一人が潜水艦の潜水鏡が一瞬、海に出ていたのを発見した……直ぐにその事を上官である曹長に報告したが、曹長はそれを『見間違え』で済ませてしまった……それが運命の分かれ道だった……その判断を下した曹長も、悔やんでも悔やみきれないだろう……それから40分後、潜水艦から魚雷が発射された……直ぐに戦闘を告げるブザーが艦内に鳴り響き、球磨は取舵一杯で回避を始めたが……間に合わなかった……」
重苦しく、唯静かに嗚咽を洩らす様に、球磨は言葉を紡いだ。
「右舷艦尾に魚雷が二発命中……今度は、爆発した……後部機械室と艦尾は一瞬にして火の海に包まれた……皆一様に『諦めるな』と叫んで、懸命に消化活動を行っていた……でも予想以上に火の回りは早く、甲板に搭載していた爆雷に誘爆、そして大爆発が起き、杉野艦長は直ぐに『総員退艦』命令を下した……その時の球磨は、自分が沈む事なんかよりも、ただあの人達が皆無事に脱出できる事を、ひたすら神さまに祈っていた……でも幾ら球磨が祈っても、時間は待ってくれなかった……命令の直後、球磨は艦尾から沈んでいった……それが、たった12分の出来事だった……あっという間だった……脱出に間に合わず、球磨と運命を共にした人も居た……」
冷たく震え、唇を噛み締め、悲しみを押し殺しながら、球磨は言葉を連ねた。
「そして球磨は……沈む直前まで、あの人達が抱いていた想いを……今でもしっかりと覚えている」
球磨が自身の過去を語っている姿。
提督の目に映る球磨の姿は、提督が知っている元気で勝気で一途な球磨の姿では無い。
「あの人達は、戦いに負けると分かっていながら必死に訓練をしていた……後援部隊とはいえ、あの人達は、必死だった……あの人達は、希望を抱いていた……戦いの先が大敗だとしても、愛すべき親兄弟、愛すべき郷、自分たちにも護るべき世界があると信じて、あの人達は必死に戦っていた」
艦娘でも無く、ましてや一人の女性でも無い。
「大げさかもしれないけど、自分たちが相手に大打撃を与えれば、きっと相手も嫌になって、戦争を止めてくれる……それで自分たちにも護れるモノがあるんだ、と……例え自分たちが死んでも、きっと残された者たちが、自分たちの意思を継いでくれる……戦争に負けて退廃した世界を、きっと戦前や戦時中よりも良い世界にしてくれる……そして、自分たちが必死になって祖国を護ろうとして戦った想いがきっと引き継がれる、と……そんな希望をあの人達は抱いていた」
どこか虚ろげで儚く、今にも砕けてしまいそうな、脆弱な心を抱いた一人の少女の姿であった。
「それでもし、生きて終戦を迎えたら、戦死した仲間に花束を手向けよう。遺品や遺骨があれば、包んで故郷の家族の元へと帰してやろう。そして、それが済んだら、祖国の復興に尽くそう、と……あの人達は毎晩、夜遅くまで、将来の期待や展望、希望の想いを抱いて話をしていた」
戦禍のうねり、歴史舞台の裏、唯独り消えていく少女の姿。
人々が沈み行くその光景を、成す術なく眺めていた少女の姿が其処にはあった。
「そんな想いを乗せた中、球磨は沈んでいった」
そして球磨は、提督へと笑顔を投げかけた。
「その時一緒に運命を共にした138人の魂……その想いは、今でも球磨の魂の中に生き続けている」
球磨のその笑顔。
どこか空っぽで、重く、悲しげなその笑顔は、とてもではないが年端の行かない少女が浮かべて良いものではなかった。
「……」
提督はその球磨の笑顔を見て、無意識に球磨の元へとふっと歩み寄る。
「……提督?」
そして、そっと球磨の身体を抱きとめた。
「……」
「てーとく……」
繊細で純白な絹織物でその身を覆い隠す様に、提督は己が純黒の軍衣で唯、一人の少女を抱きとめた。
少女の悲しみを掬い取る様に両の手を添え、少女の心が壊れない様に両の手で包み込んだ。
提督は唯、目の前に在るモノ、少女の心を、両の手で受け止めていた。
そして提督は、神さまに祈った。
願わくは、この少女の歩んだ赤黒い道程、そしてこの先、この少女が歩むであろう青黒い道程に、光あれ、と。
………………………………
「……ごめん」
暫くの後、提督は球磨の身体を離した。
そして赤く腫れ上がった目で提督は、球磨を見据えた後、球磨に対して頭を下げた。
「何を謝っているクマ?」
「いやさ……嫁入り前の女性に気安く触るもんじゃないし……」
「いい歳した男が何を生息子みたいな事を。流石に抱き付かれた程度では、何とも思わないクマー」
球磨は呆れる様に提督へ言葉を返したが、提督はばつの悪そうな顔の儘、言葉を続けた。
「でもさ……僕みたいなおじさんに抱き締められたって嬉しくないだろう」
「確かに、歳もちょっと離れすぎているクマ。まぁ、球磨は提督なんかよりも魅力と才能に溢れる男性を見つけて、提督をアッと言わせてやるクマー」
球磨の言葉に提督は、自然と零れ落ちた懐かしくも温かい頬笑みで、球磨の言葉を受け入れた。
「楽しみにしているよ」
球磨は目を細めてうんうんと頷き、執務室を後にしようと提督へと背を向け、扉に向かう。
しかし数歩の後、球磨はその場に立ち止まった。
「球磨……?」
「でも……」
その言葉と共に球磨は振り返ると、提督に向けて一つ、笑顔を投げかけた。
提督に投げかけられた球磨の笑顔。
その時の笑顔は、提督の心に焼き付き、この先決して忘れる事はないだろう。
「さっきは本当にありがとうクマ。正直、凄く嬉しかったクマ」
そう言って提督に投げかけられた球磨の笑顔には、真綿の様な貞潔が含まれていた。
「提督は人一倍優しいクマ。それだけは本当に誇っていいクマ」
そう言って提督に投げかけられた球磨の笑顔には、聖母さまの様な慈愛が含まれていた。
「球磨はそんな提督の事が一人の人間として尊敬できるし、球磨はそんな提督の事が大好きだクマ」
そう言って提督に投げかけられた球磨の真雪の様な笑顔で、提督は何かとてつもない存在に許された様な気がした。
【参考文献】
○木俣滋郎『日本軽巡戦史』(図書出版社、1989)
○原 為一ほか『軽巡二十五隻』(潮書光人社、2015)