「ここで飛車を引いたのはちょっと甘いかな。ここは大胆に飛車を切って……」
「飛車切るの!?……ふんふん、でここが……ホントだ良くなってる。」
「ね。飛車切りは勇気がいるし、失敗した時のリスクが大きいけど、その分決まった時は大概優勢になるから一回は検討した方がいいと思うよ。」
場所は清滝邸、今俺と桂香さんは二人で研究会を行なっている。
9月になり、中学校が始まり、最近は銀子がいない日中に二人で研究会を行うことが多くなった。
研究会が終わると、桂香さんはすぐさまエプロンを着て、夕食の準備に取り掛かろうとする。
エプロン姿の桂香さんは可愛いなぁ。
桂香さんの持つ大人の女性の魅力と、母親のような安心感がエプロンによって、一つの線になっているまるで雀刺しのような破壊力がある。
「ありがとう、勇気くん。今日も夕ご飯食べていく?」
最近は桂香さんと研究会をした後、師匠と3人で夕食を食べていくのが定跡になりつつある。
「そうしようかな。」
「わかった。今から作るから居間で休んでて。」
師匠と桂香さんと3人で夕食を食べていると、八一や銀子が弟子入りする前に戻ったみたいでとても懐かしくなる。
あの時は純粋に将棋を指すのが楽しかった。
何も背負うものもなくただただ自分が強くなることだけを考えて将棋が出来ていた一番幸せだった時間。
「最近疲れてない?」
昔のことを思い出していると、台所からカチャカチャと料理をする音をさせながら、桂香さんが聞いてきた。
「え?特に大丈夫だけど……」
「本当に?勇気くんは昔から思い詰めると自分じゃブレーキをかけられなくなるから心配なのよ。今は銀子ちゃんがいるからそこまで心配はしてないけど……」
「そうかな?自分では自覚ないんだけど。」
「自覚ないから危険なのよ。」
桂香さんが少し怒ったように言う。
「うーん。わかった、気をつけるよ。」
釈然としないけど一応礼を言って忠告を受け取る。
「それより、桂香さんは大丈夫?緊張してない?」
桂香さんの運命の一戦まであと1ヶ月を切った。
「……してないと言えば嘘になるかな。」
台所から料理を作る音が途切れた。
「そっか……まぁ仕方ないよね。」
「うん。勝ちたい、どうしても勝ちたい。」
「うん。」
18歳の時から追い続けてきた女流棋士の夢があと一勝、すぐ目の前に迫っている。
勝ちたいという思いは俺が計り知れないほどだと思う。
「あ、あのね……勇気くん……もし私が女流棋士になったら……」
桂香さんが突然台所からボウルを持って出てきた。
その顔はどこか焦っているような、怒っているような、初めて見る桂香さんの表情だった。
「な、なに?」
思わず俺の声も裏返ってしまう。
「ただいま〜。ちょっと近くまで来たんで寄りまし……、兄弟子と桂香さんどうしたの?」
や、八一!?
「な、何でもないわよ。」
「なにもないぞ!うん、うん!」
「いや明らかに何もなくないんだけど……」
俺は目の前の将棋盤にバシバシと歩を叩きつけている。
うん、初手の練習だ!何も怪しくないな!
一方の桂香さんはボウルの中身をシャカシャカと目にも留まらぬ速さでかき混ぜている。……中身がもう完全に液体になってるんだけど。
「お、お帰りない八一くん。今から私達ご飯食べるんだけど、八一くんとあいちゃんも食べていく?」
桂香さんは軽く咳払いをして、何事もなかったかのように、いつもの桂香さんに戻っていた。
「あ、いいなぁ。あいにLINEしますね。」
「じゃあ、銀子も呼ぶか。」
俺も銀子に清滝邸に来るようにLINEを送った。
桂香さんは台所に戻りまた、カチャカチャと料理をする音が聞こえて来る。
「「……」」
き、気まずい。
八一も視線をあちらこちらに落ち着きなく動かしている。
竜王戦を控えたこの状況で、将棋の話はデリケートな話題になるからできれば避けたいよなぁ。
「あ、あの一つ聞いてもいいですか?」
唐突に八一が沈黙を破ってくれた。
「ん、なんだ?」
「兄弟子は名人との盤王戦、どんなこと考えてたんですか?」
予想外のことを聞いてくる。
まさか、八一が俺に将棋の質問をしてくるとは思わなかった。
「盤王戦……そうだなあの時は、正直一局一局指すのに夢中であんまり覚えてないなぁ。ただ今思うと初戦で完敗したのがよかったのかな。」
「完敗したから?」
八一が怪訝そうな顔をする。
短期間に同じ相手と5戦や7戦するタイトル戦で初戦に完敗すればある者は、自信をなくす、ある者は情熱を無くす。これが普通のことだと八一は思ってるんだろう。
「初戦で名人に完敗してから格が違う、この人には敵わないって思って逆に気負わなくなったんだよね。そしたら2局目から自分でも驚くほどにノビノビと指せて、何故か勝てた。」
「へー。」
「まっ、完全に勢いだけで指した若気の至りだよ。」
「ありがとうございます。全然参考にはならなかったけど……」
八一が苦笑している。
参考にならなくてゴメンな……
「ところで、準備は順調か?」
「正直わからないです。ただ、自分の中では最大限の努力をしてるつもりです。」
「そっか。」
八一は手に持った歩を力強く盤面に打ち込んで決意のこもった目でこちらを見た。
頼もしいな。
「俺も何とかしないとな。来月までには。」
「……」
八一が気まずそうに目をそらした。
「次の相手は神鍋くんだし、その次は……」
「於鬼頭先生ですもんね。」
「ああ。」
普段の俺なら絶対に他人に、ましてや八一に対しては話さない言葉、しかしこの時の俺は何故かその言葉をポロっと出してしまった。
「どうしたら、抜け出せるんだろうなぁ」
「あの……」
八一が口を開いてまた気まずそうに口ごもる。
「どうした八一?何か言いたそうだけど?」
「いや……その。」
八一は歩を手の中で転がして、右を向いたり左を向いたりなんだかせわしない。
「ん、なんだ言ってみろよ?」
「その……兄弟子は弱くなってると思います。」
「え?」
八一の口から出た言葉が理解できない、いや脳が理解することを拒否している。
「この前、姉弟子と話したんです。兄弟子の将棋は変わったって」
「……」
「昔の兄弟子は中盤にめっぽう強かった。いつも、誰も思いつかなような手順で形勢を自分のものして、子供の時の俺は、兄弟子が本当に魔法使いなんじゃないかって思ってました。そして、そんな兄弟子に憧れて、俺も努力して兄弟子の後を追い続けました。でも……」
八一は一度言葉を切ると、じっと俺の目を見る。
八一の目にもう迷いはなかった。
「今の兄弟子には憧れません!」
「……」
頭をハンマーで殴られたような衝撃を受ける。
俺が、弱くなっいる……?
俺の将棋は変わった?
今の一言は八一が俺の将棋を否定したことになる。
そして将棋指しにとって将棋を否定されると言うことは自分の人生そのものを否定されたのと同義である。
頭の中で八一の言葉がグルグルと頭の中を回る。
「あ、いやだから……もっと自分を大事にして欲しいって言うか……その。」
八一が我に帰ってオロオロと的外れなフォローをしてくる。
そんな八一を静かに睨みつけて、無感情に言い放った。
「黙れ。」
自分でも驚くほどに冷たい声音が出て驚く。
「あ、兄弟子……」
それは弟に始めて見せる兄の姿。自分の黒い感情をむき出しにした姿。
「勇気くん……」
居間の異変に気付いて桂香さんが台所から出てくる。
心配そうに俺と八一を見てくる。
今は桂香さんの顔も見たくない。
「帰る。」
とにかく今は清滝邸から1秒でも早く立ち去りたい。
立ち上がって逃げるように居間を出て行く。
「兄弟子、ただいま」
玄関で靴を脱いでいる銀子と会う。
コントロールできない感情は暴走し、関係のない銀子にまで八つ当たりをしてしまう。
「今日からうちには来るな」
「え?」
「ここでまた暮らせ。いいな。」
それだけ言って、足早に清滝亭を出る。
「な、ん、で……おにいちゃん!待って!」
銀子の言葉を無視してドンドンと清滝邸から離れて行く。
この日始めて俺は、八一と銀子と喧嘩した。
✳︎
深夜2時、真っ暗な部屋の中にはカチ、カチとマウスをクリックする音だけが無機質に響く。
コンピューターと検討を続ける。
一言も喋らずひたすら検討を続ける。
銀子が来る前はこの光景が当たり前だったんだ。
しかし検討には一切身が入らない。
昔の俺ってなんなんだよ?
八一の言葉がグルグルと頭の中を回る。
どこで狂った?
名人に負けた時か?
いやそれは結果的に俺の問題が表面化したきっかけに過ぎない。
原因はもっと前にあるはずだ。
いつだ?
細い糸を辿るように自分の記憶の針をどんどんと巻き戻す。
名人との盤王戦に臨んだ時、俺はどう思ってたんだっけ?
あの時の俺は何で将棋さしてたんだっけ?
長くなりましたね。
正直原作5巻は完成され過ぎてオリ主入る隙間ないし、八一と平行線で進む感じになります。
最近自分の昔の話を読んでいると、色々と直したい部分がたくさん見つかったので、少しずつ昔の話を加筆修正していこうかと思っています。
今のところ1話と2話だけ加筆修正が終わってます。
といっても内容ががらりと変わるほど変えるつもりはないので、読み返す必要はないと思うけど、気が向いた人は読んでみてください。