「次の奨励会で勝ったら2段なんだよね。スゴイなーカッコイイなー。」
「頑張ってね、お兄ちゃん。家で待ってるから。」
「うん。頑張ってくるよ。」
これは俺がまだ小学生の頃のお話。
この日の例会に勝てれば俺は、2段に昇段できることになっていた。
八一と銀子の応援を背に気合い十分で将棋会館に向かった。
✳︎
「次は絶対に昇段できるよ!」
「そうだよ。だっておにいちゃんは最強なんだから。」
これは勇気くんがまだ小学生だった頃のお話。
勇気くんは今日の例会に惜しくも負けってしまって昇段を逃してしまった。
ここまで一度も立ち止まることなく昇段してきた勇気くんは始めて足踏みすることになった。
「ありがとう。次は絶対に昇段する。」
「うん。応援してるよ!」
「私も応援してる。頑張って!」
正直もっとショックを受けていると思っていた。
勇気くんは大人びているし、しっかり者だとはいえまだ小学生だ。
普通の小学生なら大泣きしながら帰ってきてもおかしくないような状況だ。
なのに勇気くんはいつもとまるで変わらない様子で帰ってきてこうやって八一君と銀子ちゃんと話している。
時々この子は本当に人間なのか、そんな風に思ってしまう。
いつも通り賑やかに話している、勇気くんと八一くんと銀子ちゃんを見て、お父さんが珍しく重苦しく言った。
「勇気、今日は対局で疲れとるやろ、もう寝なさい。」
「……はい。」
立ち上がろうとする勇気くんに八一くんと銀子ちゃんがすがりつく。
「えー、もっと話したい。」
「おにいちゃん、今から1局指そうよ〜。」
まとわりつく八一くんと銀子ちゃんにお父さんが一喝した。
今日のお父さんは珍しく威厳がある。
「コラッ!銀子、八一、お前ら最近たるんどるんちゃうか?どれ、儂が稽古つけてやろう。」
「今から指してくれるんですか!?」
「お願いします。」
八一くんと銀子ちゃんは急いで盤を取りに行った。
それを横目に勇気くんはゆっくりと立ち上がり居間を出て行く。
お父さんが私に耳打ちをする。
「桂香、勇気の部屋に行ったれ。」
「勇気くんの部屋?どうして?」
お父さんは少し困った表情をした。
「まぁ、ええから行ってき。」
「……はい。」
お父さんの真意がわからないけれど、取り敢えず勇気くんの部屋に向かう。
襖をノックして入る。
「勇気くん、入るねー。」
部屋に入ると勇気くんが部屋の中央にポツンと座っていた。
目が合う。
勇気くんの目には涙が一杯溜まっていて今にもこぼれそうだった。
「どうしよう……どうしよう。昇格できなかったよぅっ。」
勇気くんの目から一筋の涙がこぼれた。
「勇気くん……。」
予想外の光景に思わず固まってしまう。
目の前の男の子は確かに人間だった。
悔しくて悔して仕方がなかった、でも決して八一くんと銀子ちゃんの前では決して弱いところを見せまいと我慢していたんだ。
「誰だって上手くいかない時はあるよ。」
私は居ても立っても居られず、勇気くんを抱きしめて頭を撫でる。
「どうしよう。カッコよくなきゃ強くなきゃいけないのに……。」
「大丈夫だよ。勇気くんはずっとかっこいいお兄ちゃんだよ。」
「負けちゃったよ。応援してくれてたのに……なのに……。」
この子はこの若さで既にとても多くのものを背負っている。
師匠の期待、八一くんと銀子ちゃんの期待、メディアの期待。
それらはたかが小学生の子が背負うにしては余りにも重すぎる。
「大丈夫だからね。私の前では甘えてもいいんだよ。だって私は勇気くんのお姉ちゃんなんだから。」
頭を撫でながら泣きじゃくる勇気くんを慰める。
この日私は決心した。
勇気くんの支えになりたいとーー
✳︎
「懐かしい夢だったな。」
2016年の初夢はまさかの過去の事であった。
桂香さんの前で号泣しちゃって、慰めてもらって……あぁ恥ずかしすぎる。
恥ずかしさに身をよじりながら、『指し初め式』に向かう準備をしていた俺の元に一本の電話がかかって来た。
「勇気くん。今大丈夫?」
「はい。大丈夫ですけど、なんですか?」
電話の相手は桂香さんだ。
桂香さんとは後の指し初め式で会えるのにわざわざ電話してくるのは何か急用があるのだろうか。
「あのさ、今から家に来てくれない?」
「師匠の家?いいけど、なんで今?」
「あのね、なんか懐かしい夢を見ちゃってね……」
「そうなの?」
夢?桂香さんも懐かしい夢を見てたのか。まぁ俺の夢とは多分違うだろうけど。
「女流棋士になったから、約束通りお願いを聞いてもらおうと思ってね。」
「……そういえばそんな約束してた……ね。」
すっかり忘れてた。
記憶の中を検索すると確かにマイナビ一斉予選の前に言ってたような気もする。
「忘れてたの!?」
「いや、ちゃ、ちゃんと覚えてたよ。」
「はぁ……。まぁいいわ、取り敢えず家に来てね。」
「うん……。」
✳︎
居間には俺と桂香さんと師匠の3人だけがいる。
なぜが居間は重苦しい雰囲気に包まれていた。
「勇気くん……いや山橋先生。」
「は、はい!」
今までの桂香さんの表情や、やり取りを俺なりに検討した結果、俺は桂香さんの次の一手を予測した。頭の中に告白の二文字がチラつく。
落ち着くんだ俺、それはあまりにも都合のの良い展開なのではないか。何か他の狙いがあるはずだ、いやでも……。
ソワソワする俺と対照的にいつもと変わらないエプロン姿の桂香さんは正座をして俺の真向かいに座る。
桂香さんはゆっくりと慎重に一枚の紙を懐から取り出して、俺の目の前に置いた。
まさか、婚姻届だと……!?
いくらなんでもそれは指しすぎではないか!?
親の前でいきなり結婚申し込むなんて。
いや、あえて師匠に知らせることで外堀を埋めるということか。
考えれば考えるほどこの一手は好手に見えてくる、桂香さんいつの間にこんなにいい手を指すようになったんだ……!
「勇気くん……?勇気くん聞いてる?」
桂香さんの声で現実に引き戻される。
「……あれ?」
よく見るとその紙は婚姻届などでは決してなく、棋士にとってもしかしたらそれよりも大事なもの、女流棋士の申請用紙だった。
「私をあなたの弟子にして下さい!!」
「お、俺の!?」
「うん。私が女流棋士になれたのは勇気くんのお陰だから、私の師匠は勇気くん以外には考えられない……。」
「でも……。」
俺はチラリと師匠を見る。
普通に考えて、桂香さんは師匠の弟子として女流棋士になると思っていた。
師匠も絶対に娘の師匠は自分だと思ってるだろう。
「勇気がええならお願いしたい。」
「師匠!?」
あの師匠が頭を下げてお願いしている。
それは俺にとってはあまりに衝撃的で、でも少し嬉しくて思わず言葉に詰まってしまう。
「桂香が女流棋士になれたのは、誰が見てもお前のお陰や。桂香が勇気に師匠になって欲しいと思うのも当然や。せやから桂香の師匠になってくれへんか?」
師匠に、桂香さんにお願いされて断る理由などどこにもない。
「はい。こちらこそ、宜しくお願いします。」
俺は目の前の桂香さんの申請用紙を手に取った。
「ありがとう勇気。桂香を女流棋士にしてくれてホンマにありがとう。」
師匠の声が涙ぐんでいることに気づく。
「俺なんて何も……桂香さんが毎日血の滲むような努力をして、どんなに傷ついても諦めずに何度も、何度も……。」
去年の思い出が一気にフラッシュバックしてきて俺の涙腺を激しく刺激してくる。
「ありがとうっ、本当にありがとう、お父さん……勇気くん……。」
つられて桂香さんもドンドン涙声になっていって後半はほとんど聞き取れない。
「ほな、行こか!新年早々湿っぽいのは縁起が悪いわ!」
師匠のとびっきりの笑顔を見て、俺と桂香さんも自然と笑顔になる。
「「はい。」」
久し振りに師匠と桂香さんと3人で将棋会館に向かう。
対局に向かう師匠と、学校に行く桂香さんに手を引かれて、眠気まなこをこすりながら将棋会館に行った昔のようにーー
次話の製作が難航してます(泣)