無償の善意なんて存在しない。5年間、1人で生きてきた俺が出した結論。人は、自分に利益がないと人に優しくすることなんてない。以前、この女みたいに、俺に『孤児院に来ないか』と誘ってきた男がいる。そいつの話をしよう。
その男は、オールバックの黒髪。強面の顔にアゴヒゲを生やして、グレーのスーツを着ていた。今思えばどう見ても極道の男。その男は、顔のイメージとは全然違う、柔和な笑みを浮かべて近づいてきた。
『坊主、お前、親居ねぇよな?』
それが第一声。彼は自分を、孤児院を経営してる者だと名乗って、俺をそこに来るように誘った。まだ能力の使い方も下手で、飯にありつけないこともあった俺は、疑いもなにもなく彼に着いていった。ああ、これで食いっぱぐれることもないんだってな。……でも、それは間違いだった。
結論だけ言うと、俺は売られかけた。そいつは俺が力を持ってることを知っていて、金のために俺に声をかけたらしい。俺の力が、逃げることが得意な力だったからなんとか逃げられたが、そうでなかったらどうなっていたのか。
人の善意なんてそんなもんだ。虚飾で、虚像で、嘘に満ちている。だから。今目の前にいるチョウキと言う女の真剣な表情の裏にも、悪辣な笑みが隠されているに違いないんだ。
「お坊さん……どうするの?」
希望が俺の手を握りしめて問う。
「決まってんだろ。おい、チョウキ! ……その提案、断らせてもらう」
その手を強く握り返して、俺はチョウキにそう言った。断られるとは思ってなかったのだろう。チョウキの顔が困惑に変わる。
「それは、どうして……?」
「信用できないからだ。口先だけならなんとでも言えるだろ? お前の言っていることが本当であることの証明をくれよ」
「証明……って、言われても……わ、私の、言ってる、ことに、嘘なんか」
「だからそれが信用できないって言ってんだよ。もう一度言うか? 口先だけなら、なんとでも、言えるんだ」
「……私、は……」
チョウキはそこで口ごもった。何も言えないなら取引終了だ。俺は希望に行くぞ、と言って、チョウキに背を向けて歩き出した。その、刹那。
「危なっ……!」
チョウキの声と共に、俺は後ろから突き飛ばされた。
「てめっ……!」
何をしやがる、と。そう言おうとした。でも、俺の言葉は続かなかった。さっきまで俺が立っていた場所に現れた2メートル程もある氷柱と、左腕から血を流して倒れているチョウキが目に入ったからだ。
「な、おま……は?」
「はぁ……んだよ邪魔しやがってクソが。そのガキ殺れてりゃ後は黒のガキを拐ってお仕事完了だったのによぉ」
そして、その向こうに見えたのは黄色いパーカーを着たガリガリの男。フードを目深にかぶっていてその表情は確認できないが、ちらりと覗く左目は群青色と殺意に染まって輝いていた。
「……なんだよお前。これ、どうなってやがる」
「はぁ? 状況見りゃわかるだろ? ……あぁ、お子さまにはわかるわきゃねえわな。なんたって頭が足りねぇ」
フードの男は自らの指で自分の頭をとんとんと叩いて笑った。……こいつ、挑発してやがる。だけど、こんなのに乗っちゃダメだ。こいつはさっき黒のガキって言った。俺の服も黒いが、多分、俺じゃなくて希望のことだ。さっきの氷の柱。今、あいつが能力を解除したのか砕けて消えたが、あれは確実に俺を狙った攻撃だった。チョウキが庇ってくれてなきゃ多分、串刺しになって死んでたろうな。そして、あいつはそのガキ殺れてりゃって言ってたはずだ。つまり、殺ろうとしたガキは俺で、黒のガキってのは希望を指してるはず。希望を『黒』と言うってことは。つまり、こいつは敵だ。どこで希望の力を知ったかは知らないが。
「お前、敵だな。なんで希望を拐おうとする。目的はなんだ?」
「あ? 黒のガキを拐う目的? んなの俺様は知らねぇよ。タイマ様の命令で来てるだけだからな」
「は? タイマって……あいつ、生きてるのか!?」
「ああ、勿論。体真っ二つにされたって聞いたが……あの人がその程度で死ぬわけがねぇ。五体満足、ピンピンしてるぜ?」
本当に、なんなんだよあの男は……! 不可解にすぎる。異常だ。あの状況から五体満足だ? それが本当なら、あいつ……本当に人間なのかよ!?
「考え事の最中悪いがよ。そろそろ用件を言わしてもらうぜ。ま、てめぇはとっくにわかってるみたいだがな。そこのガキ……『黒の子』を寄越せ」
男がそう言ったと同時に、俺の真後ろで何かが突き出すような音が聞こえた。なるべくフードの男から目線を外さないように後ろを確認すると、そこには、さっきと同じ氷柱が出来上がっていた。
「外しちまったんじゃあないぜ。警告ってやつだよこれは。大人しく黒のガキを寄越すなら、お前を生かしてやってもいい。だが、渡さないっつーんなら……お前はここで串刺しだ。賢い選択をしなよ? タイマ様からお前は殺して良いって言われてるところ、こうして温情をかけてやってんだからよぉ。あれだ。そこの女のお陰とはいえ、一発目を避けて生き残ったボーナスってやつだ」
俺の後ろの氷柱を崩しながら、男は言う。……どうする。あいつの攻撃、まったく予想ができない。一回目も、二回目も、攻撃の予兆が全く無かった。
希望は渡せない。だから、どうにかあいつを倒して逃げるしかない。じゃあ、どうすればあいつを倒せる?
あいつの能力は氷柱を出現させるもの。俺の能力は煙になること。煙になってる間は誰も俺に触れることはできない。だから、あの氷柱で貫かれようが問題ない。
そして、俺が希望から離れても、あいつの攻撃は希望に向かわないはずだ。あいつの目的は希望を奪うことなのだから、希望を傷つけるようなことはしないはず。だから、接近は煙になって行えばいい。肝心なのは攻撃だ。
煙になった俺に何も触れられないように、煙になった俺は何にも触れられない。煙から実体に戻るときは、からだの一部だけ戻すなんてこともできない。だから、攻撃するには体を全て晒す必要がある。だから、もしもそこを狙い打たれてしまったら、その時点で俺は串刺しにされて死ぬ。そして、あの男の余裕。多分、能力を使った戦いに慣れてる。それくらいのことをしてきそうな雰囲気が奴にはある。……どこかに隙は無いのか。あいつのあの能力の隙。思い出せ。あいつはどういう風に能力を使っていたか。……そう言えばあいつ、生み出した氷柱をいちいち砕いていた。そのまま残していても問題はないはずなのに、いちいち。と言うことは、もしかして。あの氷柱は一度に一本しか出せないんじゃないか? そう仮定しても、さっき言った通り俺の攻撃を読まれたら死ぬ。だけど、読まれたところで一本しか氷柱を出せないなら……その裏をかけばいい。勝機が、見えた。
「希望」
一層強く俺の手を握りしめていた希望に、小声で、それでいて優しく声をかける。
「力は使うな。俺が、なんとかするから。俺を信じろ」
俺の言葉を聞いた希望は一瞬目を伏せたけど、すぐに俺と目を合わせた。
「……うん。死なないで」
「おいおいどうしたぁ? やっぱり馬鹿だったのかお前は? まさか、黒のガキを渡さないって訳じゃあねえよなぁ?」
しびれを切らしたのか、男は苛立ったようすで俺に問いかける。渡さないって訳じゃねえよな、だって? 俺の答えは決まってる。
「ああ。そのまさかだよ」
足を一歩踏み出すと同時に目を見開いて、俺の瞳が白に染まる。それと同時に俺の肉体は世界に溶け、霞み、煙となる。俺は人である速度よりも、煙である速度の方がよっぽど上だ。チョウキの時と全く同じように、俺は男の目の前まで一瞬で移動すると、蹴りの準備を整えた状態で人に戻る。
呆れたように俺を見る男の目は、群青色のままだ。足元から強い冷気を感じる。やっぱりだ。やっぱりこいつは俺のやることを予想してきた。このままいけば俺は順当に串刺しにされて終わりだ。だが……それくらいのことは俺も読めている!
足元から氷柱が伸びるその刹那。俺は再び煙に変わって、男に突っ込んだ。そのまま男を通り抜けて、男の真後ろへ。蹴りの体勢になって、人に戻る。正面で実体に戻ったのは、氷柱を使わせるためのブラフ。本命はこの背後からの攻撃!
「貰った!」
男の正面にはしっかりと氷柱が出来上がっている。あれを砕いてからもう一度作るのはもう間に合わないだろう。俺は勝ちを確信して、鋭く叫んだ。……なのに、その刹那。足元につい先程感じていた、強い冷気を感じた。いや、足元だけじゃない。これは、360度、男の周囲全部から……!
「馬鹿が」
男が残念そうにそう言った瞬間、男を取り囲むように地面から氷柱が突き出した。
「お坊さんっ!!」
希望の声が、もう暗くなった街に反響した。
to be continued