あれから……何時間経ったか。時計を見ていないから正確な時間はわからないが、窓から差し込む光が夕暮れ時だと言うことを伝えてくれている。俺と希望は、朝に簡素なごはんを食べてから、ずっとこの家の掃除をしていた。
字の読めない本が大量に置いてある屁やだの、壁際に簡素な木のテーブルが設置してあるだけの、どういう用途で使うのかわからない部屋だのしかなかった一階の探索はそこそこに。俺たちは寝泊まりをするための部屋を掃除するため、二階の探索に入った。
二階には部屋が四つ。それのどれもが個人用の寝室だ。どの部屋もレイアウトは一緒。机が一台に椅子が一脚。それに、大きなベッドが一台だ。
俺たちは一人一部屋ずつあれば十分だから、それぞれ一部屋選ぶことになった。希望は最初、適当に西側の部屋を選んだ。が、俺のアドバイスによって、朝陽が窓から入る部屋。東側の部屋に変更し、そこで寝ることになった。俺はまだ決めていないが、西側の部屋にしようと思っている。なんでかはわからないが、なんとなく、部屋は暗い方が落ち着くのだ。朝早くから明るい太陽の光が入ってくるのは勘弁願いたい。
他には一階に風呂場や洗面台なんかもあって、そこも掃除はした。が、あまり意味がなかったと言えるだろう。案の定、この家には水が通っていなかったからだ。前のねぐらでもそうしていたように、体の汚れなんかはお湯を沸かして濡れタオルを作って拭き取るしかないだろう。
と、まあ。この数時間でやったことはこんなものだ。探索と掃除に明け暮れていたお陰で、この家の色々なことを知ることができた。想像よりも綺麗で、良いねぐらになりそうだ。
「お坊さんお坊さん! すごいよこれ! ぼよんぼよん跳ねるの!」
で、今俺がいるのは、たった今希望の部屋に決まった部屋だ。俺の部屋になる場所の掃除はこれから。だが、その前にそろそろ晩飯を作らねばなるまい。
「よかったな。じゃあ、俺はこれから飯作ってくる。お前はここで待ってろ。出来たら呼びに来る」
「はーい。って言っても、ガス使えないんじゃあまた缶詰なんでしょ? 作るなんて大袈裟だよー」
「ぐ。……まあ、そうなんだけどな。盛り付けるとかあるだろ。それに今回は余った野菜でサラダを作ろうと思ってるから一応作るぞ、飯」
「へー、サラダ作るんだ! 楽しみにしてるね!」
「おう、任せとけ。……あんまり跳ねてるとベッド壊れるかもしれないからほどほどにしとけよ」
「ええ!? ほんと!? わかった気を付ける!」
ベッドをギシギシと鳴らしながら跳び跳ねていた余韻で飛び続ける希望を見送って、俺は食堂へ向かう。どんなサラダを作ろうか悩んでいると……。
ガツン、ガツン! と。扉を叩く音が聞こえた。
「……誰だ?」
この家の持ち主がいた? まさか。想像以上に綺麗だったとはいえ、この家は本当に長い間使われていない様子だった。少なくとも、前に一度俺が訪れた一年前から。あの埃は、数ヵ月程度でたまるものじゃないし、水道もガスも電気も停まっている。……一応、長い間ここを放置していた持ち主っていう線はあるが……だとしたら相当にタイミングが悪い。なんだってこのタイミングで……。
とにかく、出るしかないか。一応、言い訳は用意してある。人がいなかったから秘密基地として使っていた……という、少々苦しいものだが。なんとかなってほしいものだ。
ガツン、ガツン! もう一度扉が鳴る。俺はゆっくりと扉に近づき、恐る恐ると言ったように開いて相手を出迎える。予想外の来客に怯える子供を装って。
「あの……どちら様ですか?」
扉の前に立っていたのは、紳士然とした服装の男だった。ダークスーツを身に纏い、かぶっているシルクハットは黒一色。中に見えるワイシャツも、鏡のように磨きあげられた革靴も黒。唯一ネクタイのみがくすんだ緑色をしていて、本来は目立つような色ではないはずなのに異様に目立って見えた。
男は俺の姿を確認すると、ゆっくりと口角を上げた。
「……やあ、こんにちは。いや? もうこんばんはの時間かな? ともかくお出迎えありがとう、少年」
「……すみません! ここ、ずっと人がいなかったから、仲間で秘密基地にして遊んでたんです! 迷惑でしたら、すぐに出ていきますから!」
勢いよく頭を下げ、あくまで普通の子供のように謝罪する。こっちはここの掃除をしたんだ。これくらいで許してくれても良いだろう? ……こんなに条件の良いねぐらを、手放さなきゃならないのは癪だけど。
「ん? ……ああ! ごめんごめん。僕はこの家の持ち主じゃないんだ。誤解を与えてしまったのなら申し訳ない……でもまあこんな状況で来たら勘違いもするよなあ僕ももう少し気を付けるべきだうーむ少年少女に警戒心を与えない方法と言うのはどうにも……」
唐突に。息継ぎもなく、ぼそぼそと途切れることなく言葉を呟き続ける男に、言い様のない不気味さを感じた。
「……あぁーあ。いけないいけない。ごめんね。これは僕の悪い癖なんだ。少し……のめり込んでしまうっていうね。さて……本題に入らねば」
やばい。こいつはなにかやばい。全身が拒否反応を起こしている。こいつに関わってはいけないと、逃げなければならないと僕が言っている。出来るのか? ここから、希望を連れて、こいつから逃げることが。考えろ、考えろ考えろ。こいつから逃げる方法を……!
「……お坊さん」
「!? お前、なんで出てきてる!」
気付けば、自分の部屋にいるはずの希望が俺のすぐ隣にいた。この男の異様な雰囲気に呑まれていて、自分の焦りに飲まれていて声をかけられるまで全く気づかなかった。
「わたし……この人嫌。嫌い。……誰?」
希望は俺の服の裾をつかみながら、男を睨み付けながら言った。男はますます口角を上げる。無機質な笑みが、笑っていない濁った目が、希望を射抜いた。
「ああ、君かぁ……! 僕の求める子。黒の子! やあ。やあやあ、こんにちは、本当にこんばんは。ふふ、初めまして。ずっと君のような子に会いたかったんだ……僕はタイマ。君と僕はね、おんなじなんだよ……! あぁ、嬉しいなぁ!」
希望の、俺の服の裾を掴む力が強くなる。俺は無言でうなずく。わかってる。今決定的になった。こいつは敵だ。何を思って、どうやって嗅ぎ付けてここにやって来たかはわからないが、こいつは希望を狙う敵だ。
正直、希望が部屋にいてくれれば、俺が煙になってここから離脱し、希望を連れて窓から脱出。みたいなルートも取れたはずだが……こうなってはそれも無理だ。ならば。真正面から突破する!
希望を見つけた途端、男の注意は希望に向いた。こいつは今俺のことを気にしていない。つまり、奇襲が成り立つ! 目を見開いて、存在を希薄に。一気に煙に変わった俺は男の背後に回り込み、家の中に向かって男を思いきり蹴り飛ばした。
「……手応えがない!?」
目論み通り。いや、目論み以上に男は吹き飛んだ。結果から見ても俺は確かに人間を蹴り飛ばしたはずなのに、蹴った瞬間の感触が全くなかった。まるで掛け布団を蹴飛ばしたかのように、俺の蹴りに対する抵抗が全くなかったのだ。不気味だ。一層不気味だが、これでひとまず、少しだけ隙ができた。
「希望、逃げろ。お前が逃げ切るまでここで時間稼ぐから、お前は街の方に逃げろ!」
「う、うん! お坊さんは?」
「後で追い付く。マリアクアンから出るなよ? 探せなくなるからな」
男は倒れたまま起き上がらない。あの蹴りに大した衝撃があったとは思えないが、失神してるなら好都合だ。希望が逃げるのを見届けて、あとから追い付けば良い。これからのことは、そのあとに考えて……。
「えっ!? お、お坊さん、後ろ!」
「は? うっ!?」
希望が声を上げた。それと同時に俺は背後から物凄い力の強さで振り向かされ、頬に一発。思い拳を貰ってしまった。思わず倒れそうになる俺の胸ぐらを掴み上げ、男は醜悪に笑った。
「なるほどね。そうかそうか、なるほどねぇ。ようやくわかったよ。君は白か。謎だったんだ。黒の子のそばにいる子供はなんなのか。君だったら納得だよ」
「……俺の方は、お前が、何言ってんのか、さっぱりわからねぇよ! なんなんだ、てめぇ……!」
本当についさっきまで。希望が声を上げるまで。俺の視界には倒れているこいつが写っていたはずだ。いつだ。いつの間に起き上がった? いつの間にこいつは俺の後ろに来た? こいつは……なんなんだ?
疑問は尽きない。しかし、そんなことを考えている場合でもない。この状況を打破することを考えなければ。さっきからこいつの動きは鈍い。余裕があると言い換えても良い。そこに隙がある。さっきの蹴りが入ったように、素早い動きには対応できないはずだ。
「……? さっき名乗ったじゃないか、
「っ! てめぇが! 俺をその名前で呼ぶんじゃねぇ!」
俺はもう一度自らの体を煙に変え、即座に実体に戻る。そして、そのまま蹴りの体制に入った。さっき家の中側に蹴り飛ばしたように、今度は森側に蹴り飛ばす。そしてそのまま希望を連れて、この家の裏側から脱出する。これが俺の導き出した最高の逃げ道!
足に渾身の力を込め、発射される弾丸をイメージして蹴り出した。今度はもっと、起き上がるのに時間がかかるように、さっきよりも威力の高い蹴りをこいつの腹にぶちこんで……しかし。無防備に蹴りを受けたこいつは、その場からピクリとも動かなかった。
「……は?」
「駄目だなぁ、お坊さん。君の蹴りは軽いんだよ。もっと、もっともっともっともっと! 重ぉく撃たなきゃあ!」
衝撃。それと共に、胃の中身を全て吐き出しそうになる。気がつけば俺は、こいつの……タイマの蹴りを受けて、さっきのタイマのように、家の中に吹き飛ばされていた。
「お坊さん!」
希望の声がずいぶんと遠くに聞こえる。痛みと、衝撃で声がでない。起き上がれない。
「ち……く、しょ……」
タイマが希望に近づいている。駄目だ。あいつに希望を渡しちゃ駄目だ。助けなきゃならない。俺が、希望を、助けなきゃならないのに。
「体、動、かねぇ……」
慢心していた。思い上がっていた。切り抜けられると思っていた。俺は所詮子供なのに。くそ、駄目だ。駄目だ駄目だ駄目だ。希望、逃げろ! 逃げてくれ……!
俺の願いは届かない。タイマは、すでに視界の端に映る希望の目と鼻の先まで接近していた。希望を抱き締めるように、タイマが両腕を伸ばしたその時。
「嫌いだ、お前」
どす黒い、希望の声が聞こえた。
「嫌いだ。嫌い、嫌い、嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌い嫌いっ嫌いだぁっ! わたしに……、お坊さんに! 近寄るなぁぁぁぁぁっ!」
希望の足元が黒く染まる。その範囲は一瞬ごとにずん、ずん、ずんと肥大していく。希望から広がった黒が床を染め上げて、タイマの足元まで到達して、そして……タイマの下半身を塗りつぶした。
to be continued