長年染み付いた雨水によってまだらな薄墨色に染まるコンクリートの階段を上る。二つめのドアが、詩乃が独りで暮らすアパートの部屋だ。
しかし、そこへ行く前に一つ目の部屋の前で買い物袋を持った男性が電子ロックを解除している所で鉢合わせた。
「──あ、先輩」
「ん? ああ、朝田か」
男性──先輩は「よっ」と言って片手を上げた。薄い茶髪に長身でがっちりとしている体躯が制服に上からでも分かる。何度も黒染めをして来いと言われているはずだが、一向にしてこようとしない。何でも向こうでは普通なんだとか。
向こうとはアメリカのことで高校へ入学するまでアメリカに住んでいたらしい。だが、もうこちらに来て一年経つのだからいい加減、日本に合わせるべきだと思うのだが......何度言っても聞きはしないだろう。
「あれ、珍しく料理するんですか?」
「おい、珍しくはないだろ。てか、ここ最近お裾分けしただろうが」
そう茶化すと先輩は苦い顔をした。対照的に私はくすっ、と笑った。その時の肉じゃがはとても濃くて私の口にはちょっと合わなかった。
その事を正直に言うと唖然としていたのはいい思い出だ。先輩にしてはとても薄くしたらしい。
あれでとても薄いなんて......少し先輩の味覚を疑ったほどだ。でも、その肉じゃがは何だかとても温かったことは印象に残っている。
「それで、今度は麻婆豆腐を作ろうと思うだが意外と難しそうなんだよな......。──おい、朝田? どうした?」
「え?」
急に怪訝な表情をしてじっ、とこっちを見る先輩の視線に耐え切れず俯く。会話の中で何か心配されるような雰囲気を出してしまったのだろうか。
しかし、もう迷惑は掛けられない。いや、掛けたくない。学校では無くなったけど、今日のように学校以外でやられたりする。今回はたまたま新川くんに助けてもらったけど、次は無いだろう。
また先輩に助けてもらうのは嫌だ。あの時みたいに泣きつくのは嫌だ。だから私は心に蓋をした。そして、取り繕い、今できる笑顔を顔に張り付ける。
「大丈夫です。ちょっと疲れただけですから」
そう言って先輩の隣を通り過ぎて自分の部屋の電子ロックに鍵を差し込んで四桁のパスワードを打ち込み鍵を捻る。
「じゃあ、また」
「......ああ、またな」
笑顔で言う先輩の顔を見ると心が痛い。先輩の笑顔はもっと違う人に向けるべきだ。私みたいな──
ゆっくりと扉を閉じた。
♰
子猫のような印象を受ける後輩を見送って自分も部屋に入る。彼女と出会いは隣に引っ越して来たということで挨拶に来たのが最初だったか。
まあ、挨拶してすぐ戻って行ったので、その時は特に印象に残って無かった。
それから少しして彼女が同じ高校だということに気が付いたのは五月ぐらいだろうか。いくら何でも学年や帰る時間が違うからと言って一ヶ月ちょっと知らなかったのは我ながらスゴイと思ったものだ。
それから、また少し経ったある日。やけに一年と思われる女子生徒がこのアパートに出入りしてるもんだから気になっていると、どうやら隣に越してきた彼女の部屋に入り浸っていたことが分かった。
その時、彼女には悪いと思ったが変な奴等とつるんだな、と思った。そして、またある日。テストが近い中、隣でどんちゃん騒ぎをしているのか知らないが、こっちはテスト勉強──主に国語──を必死にやっておりイラついていた。
今、冷静に考えれば軽い不応侵入にあたるだろうか。部屋を出て静かにしてもらうように軽く言ってやろう扉を開けて外に出れば自分の部屋の前で立ち尽くす彼女と目が合った。
怯えたように足を震わせ今にも泣きそうな表情をしていれば、嫌でも分かるもんだ。どうした? と声を掛けると首を横に降るばかり。
だが、分かっている。『助けて』という声が聞こえてきたから。だから、自分は彼女の静止の声も聞かずに部屋に入り込んだ。
入ったらすぐにツンと鼻に来る匂いがした。奥まで行けば柄の悪い男と同じ学校と思われる女子生徒がアルコール飲料の缶を片手に唖然としていた。それもそうだろう。部屋の主かと思ったら大柄な男が入って来たのだから。
こっちが睨めつけていると酒臭い男が付かかって来て、周りもそれを見て
というのも、自分は結構長身になので胸倉を掴まれていようと見下ろす感じになってしまっている。
まあ、だがまだ手を出すのは良くない。ただ胸倉を掴まれただけだ。なので素直にここに来た理由を話した。
『おい、こっちはテス勉してんだよ。騒ぐなら外で騒げ』
と、言うと相手は大爆笑。エライね~、的な感じに小バカにされたので国語によるストレスもぶつける勢いで、そのまま胸倉を掴んでいる男の頭を鷲掴みにしてギリギリと締め上げれば、笑い声が痛みによる絶叫に変わる。
これでも向こうではバスケをずっとやっていたので握力には自信があった。
男の手が胸倉から締め上げている手首に移った瞬間を見計らって足払いをしてから、そのままフローリングに叩き付けた。
ちゃんと勢いを殺したので血は出てないだろうが顔と後頭部を手で押さえながらでうめき声を上げる男。
『騒ぐなら外で騒げっつてんだよ。てか、二度と来んな』
そこからは速かった。女子生徒たちと男は顔を青ざめ、すぐさま荷物を纏めると倒れている男を引きずりながら脱兎の如く部屋から飛び出していった。
部屋の前で突っ立ていた彼女は訳も分からない表情で固まっていたから少し悪いことをしたかもしれない。
そんな彼女に頭を下げて床を傷つけてしまったことを謝ると戸惑いながらも許してくれた。それから下の階の人にも迷惑をかけたので頭を下げに行ったがどうやら出かけていたので良かった。
それから、彼女の部屋に残ったアルコール缶などのゴミを一緒に片づけながら事情を聞いた。まあ、何というか仕方ないような気もするが余り深く聞かず、もう付き合わないことをオススメする、と言うと彼女も薄々勘づいていたようだった。
今度お礼をすると言ったので、別にこっちが勝手にやったことだと断ったが、それだと気が済まないというので、折角なら料理の味見役を頼んだのが関係の始まりだった。
偶に来る家政婦の清水さんに料理を教わるが、本当に一ヶ月に一回ぐらいしか来ないので自分の料理の腕が上がったのか実感が持てなかった。なのでちょうどいいと思ったのだ。
そんな感じでちょくちょく料理の味見役を受け持ってくれたり、国語以外の勉強を教えたり、国語を教えて貰ったりする関係だ。
一度、学校で彼女のことに関する噂があったが別に気にしてない、そんなの
越してきた時よりは随分と顔色は良くなったと思う。だが、まだ何か心の奥に爆弾を抱えているようだ。しかし、それを無暗に突くのは良くないだろう。
彼女自身が自力で解決するか、彼女から助力を求められてから助けるべきだ。それに、どうやら同年代にマシな友人が出来たと言っていたので心配しなくても大丈夫だろう。
「んじゃ、まあ......やりますか」
チラリとベットの近くに置いてあるアミュスフィアを見る。時間を見れば軽く日本サーバーを見て回るにはちょうどいいぐらいの時間はある。
本格的に依頼をやる時はあっちがバックアップをしてくれるらしいので、今回は初めて入る日本サーバーの下見といった所だ。
今日買ってきた物を冷蔵庫に入れ風呂を沸かしておく。準備が出来たことを確認し、下手をすればもう一年になるかも知れないほど触って無かったアミュスフィアを頭に装着する。
少し緊張していることに変な気分を覚えつつも、久しぶりに戻ることに高揚感を抑えられない。
自然と口元を歪めていた。
「リンク・スタート」
呟いた声は新しく貰ったおもちゃで遊ぶことを今か今かと待ち望む子供のように跳ねていた。
♰
その日、
──やべぇヤツがログインしやがった。なんでガチのガチ勢が日本鯖に来てんだよ。
──マジそれな。今回のBoB荒れるわw
──確か、第一回の優勝者ってコイツだろ? 動画みたけどエグイわ。
──ダレか、コイツが日本に来た情報リークはよ。
──正確じゃないけど、海外鯖の方で全くログインしてなかったらしい。それで一時期は辞めたって話だったけど、その原因がメンバーの中で衝突したとかなんとか。だから海外サーバーにいづらくなってこっち来たとか。
──ガチか。
──てか、ここ死銃まとめサイトだろw 何でザミエル考察サイトになってんだよww
──ザミエルは他のサイトでやってどうぞ。
──いや、死銃よりザミエルの方が現状どうにかすべき案件だろ。死銃って言っても確かな確証ねぇし。
──そういえば、ゼクシードとたらこ現れてないな。もう一ヶ月経つんじゃね?
──マジだれかリアルで知り合いとかいたら情報投下しろ。
──だからいねぇっての。スコードロンのメンバーもリアルで連絡先しらないだろうし。てか、GGOで個人情報漏らすヤツはアホ過ぎ。
──結局、死銃は誰か身体張るしかないでしょ。だから死銃さん、明日二三時三〇分にグロッケン中央銀行前で赤い薔薇を胸に刺して待ってます。
──勇者キタコレ
──いいぞ、もっとやれ。
自然とマウスを握る力が強くなる。『彼』は酷くイラついていた。どの掲示板を見てもザミエルがどうだ、ザミエルはあれだ。その話題ばかりだった。
違う、違うだろう。本来なら二人目の死を与えた時点で『死銃』の力は本物では無いか、という噂がネット上を駆け巡り、GGOプレイヤーたちは次は自分がターゲットにされるのではないかという恐怖に怯え、ゲームから引退する者が相次ぐ──ということになっていた。
しかし、現実では愚かなネットゲーマーたちは『死銃』の与える真の恐怖に気づかず、冗談めいたやり取りに終始、興じていた。
やはり、現実世界で『ゼクシード』と『薄塩たらこ』が事件で報道されなかったのが計算外だった。確かに都内では変死など相当数存在しており、報道されるほどの事件性は無かったようだ。
勿論、『彼』は自ら銃撃した二人に心臓が停止していることは知っている。この愚かな奴等に今すぐ事実を教えてやりたい誘惑は強烈だった。だが、具体的なソースを書き込むのは困難だし、何より『彼』の伝説性が薄まれてしまう。
伝説と言えば、GGOに置いて今ですら語り継がれている物がある。
『
対するギルドの総勢は百人弱。他のギルドも混ざっているいわば連合軍のような集まりだった。誰もが『
飛んで来る銃弾に自身が撃った
故に、伝説。
だからこそ今回『
──まあ、いい。
『彼』は深く息を吐いて、自分を落ち着かせる。もうすぐ第三回『バレット・オブ・バレッツ』通称BoBが開催される。『死銃』はこの大会でさらに三人ほど消滅させる予定だ。
BoBの注目度は絶大的だ。それに今回はヤツが、伝説がきっと出て来る。その大舞台で伝説をこの『死銃』で屠ることが出来たらもう『死銃』の力を疑うヤツはいないだろう。どんな化物であろうと
アカウントは駄目になるかも知れないが、あの銃さえあれば新しい『死銃』が荒野に降り立つなど容易だ。そして、更に殺す。
『
何故、日本に来たかは知らないが仲間がやられれば奴等はノコノコとこっちまで来てくれるだろうさ。
そして、『死銃』は伝説になる。
絶対の力──魔王──最強──最強──最強──......
だが、ヤツの死は絶対だ。これらを手にするためにはヤツは絶対に殺さなければならない。ブラウザを閉じてファイルを開く。
縦に八人の顔写真──ゲーム上のアバターの顔写真を切り抜いて加工した物が並んでおり、それぞれ右側には使用する武器や名前など詳しい情報が記入されている。
そして、『ゼクシード』『薄塩たらこ』の写真には色が落とされ、上から赤のバツ印で被されていた。
これは『死銃』のターゲットリスト。言い換えれば、あの銃のマガジンに装填された『死の弾丸』の数だ。八人の誰もがGGOのトッププレイヤー。間違いなくその頂点に立つ『
そのまま下にスクロールしていき一番下に配置されている写真を中央に表示させた。八人中唯一の女性プレイヤーだ。
右斜め上ぐらいのアングルで撮影されたスクリーンショット。淡いブルーのショートヘア、深く巻いたサンドイエローのマフラーのせいで口もとが見えないのは残念だが、どこか猫を思わせる深い藍色に瞳だけでも充分に魅力的な輝きを放っている。
右側に表示された名前は『シノン』。メインアームは対物狙撃ライフルの『ウルティマラティオ・へカートⅡ』。冥界の女神と称される誰もが知っているプレイヤー。
『彼』はそっと光沢パネル越しにシノンの写真を撫でた。
※原作の作中ではサトライザーが第一回優勝者だったと思うのですが、この作品では主人公になっています。そのことをご了承下さい。