東方キャラを病ませたい   作:ぬいカス

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霊夢編 1話

「暇ねぇ」

 

 楽園の素敵な巫女こと博麗霊夢は、花筵となっている境内を箒で掃きながら、気怠げに呟いた。その言葉通り、彼女の表情には覇気が感じられない。今日もまた、何事も起こらない一日を過ごしているからだ。

 

「参拝客も来ないし、わざわざ掃除して綺麗にする必要あるのかしらね」

 

 ぶつぶつと愚痴をこぼしつつも、緩慢な動作ではあるが手を止める事は無い。境内の清掃は一応巫女としての仕事でもあるし、サボっていると神社をたむろしている者達が小煩く嫌味を言ってくるからだ。

 

「はぁ……退屈。また異変でも起こらないかしら。妖怪どもを叩きのめして、この鬱憤をはらしたいわ」

 

 霊夢は軽く溜息を吐いて、気を紛らわそうと空を見上げた。先程までは晴天だったが、いつの間にかどんよりとした曇天模様となっていた。晩春の生暖かい風が、霊夢の髪を撫で上げる。

 

「降りそうにないけど、嫌な感じね」

 

 まるで自分の心を写しているようだと感傷的な思考になった。それは一瞬のことで、次に一呼吸した間に霧散していた。霊夢はさっさと掃除をすませて一服しようと思い、箒を持つ手を早めた。

 

 そして、いつもより早く境内の掃除が終わり、霊夢は本殿の縁側に腰掛けていた。お茶請けの煎餅を、小気味良い音を出してかじっている。

 普段であれば説教臭い仙人や淑女を気取る隙間妖怪等が居たりして人目が気になり、こう大胆にくつろぐ事はないのだが、今日の博麗神社は静寂に包まれていた。

 

「んー。穀潰しの飲兵衛まで居ないのは珍しいわね。今朝には縁側で酔いつぶれていたのを見たんだけど。まあ解放的だしいいか」

 

 疑問に思いながらも、羽を伸ばせるから良いと楽観視に捉える。どうせ、そのうち暇を持て余した魔理沙辺りが、邪魔をしにやって来るのだろう。

 霊夢は湯呑みに残ったお茶を飲み干し、座布団を枕にして横になった。それから空に視線を送り、短くため息をついた後、目を閉じて寝息を立てはじめた。

 天気は相も変わらず曇り空であった。

 

 だらしない姿を晒している霊夢だが、巫女としての天賦の才をもっている。

 強大な力を持つ孤高の者には、無力な他者は近づき難くなり、劣るとも強力な力を持つ者は引き寄せられるのである。霊夢に高位の人妖が寄り付くのはその為だ。勿論、彼女自身の人となりによるものもあるが。

 

 博麗神社は、地理や性質上滅多に人は来ない。だが、前述した訳で妖怪が多数訪れるので、案外寂れているという事でもない。それゆえ余計に人が寄り付かなくなっており、幻想郷の人間からは妖怪神社と言わている。

 

 霊夢は博麗の巫女と言う職業柄、妖怪や神などの人外達とは多くの付き合いがある。また、霧雨魔理沙を始めとする人間の友人も少なからずいる。

 だが、霊夢は生来孤独である。今のところ本人にその自覚はないが、彼女の心には埋まらない隙間がぽっかりと空いており、常に何かを求めていた。

 万物に縛られない、空を飛ぶ程度の能力を持つ彼女の本質を理解できるのは、幻想郷の中でもほんの一握りの者だけである。

 そんな彼女だからこそ、博麗神社の巫女として相応しく、幻想郷のバランスを保つ役割を担い、幻想郷の要として幻想郷を守ってきた。

 

「んっ」

 

 そして一刻程時間が経ち、気持ちよく惰眠をむさぼっていた霊夢が、不意に目を開いた。

 

「……何かしらね」

 

 鳥のさえずりも疎らにしか聞こえない境内に、異質な風が舞い込んだのを肌で感じた霊夢は、先程までの怠惰な様から一転して素早く身を起こした。

 

 丁度夢を見ていた頃合いだったので、まだ開ききっていない視界の先には、こちらに向かってゆっくりと来る人の姿が小さく、朧げに見えた。

 その人物が近づくにつれ、意識がはっきりとしてきたのも手伝って、容姿を明確に見て取れた。

 背格好からして性別は男性で、身なりは紺色の着物の上に縞の合羽を羽織り、足袋と草履を履き、三度笠を目深に被っている。一言で言うと旅装束だった。

 

「この感じ、何だか腑に落ちないわ。何者かしら?」

 

 霊夢がそう思うには様々な要因があった。男から目を離さず、警戒しながら思慮を巡らす。

 

 そもそも博麗神社は幻想郷の最東端に位置し、幻想郷と外界を隔てる博麗大結界の中間に建ってている。故に幻想郷に存在してはいるが、外界にも存在していることになるのである。

 博麗大結界があるので思考ある生命体は、幻想郷からは外界を、外界からは幻想郷を認識出来ない。通常は境界を越えられないのだ。

 

 人里からは反対向きに本堂があるので、そこから真っ直ぐ参道が続き東向きに、つまり外界に向けて鳥居がある。

 鳥居とは本来神社の境域を示す門であり、神と人との世を区画する役割をになっている。

 鳥居を隔てると、外界からは寂れた無人の神社が見え、幻想郷からは変わらず地続きの風景が見える事になる。

 

 鳥居をくぐって博麗神社にやって来る人がいれば、それは意図の有無に関わらず、結界の綻びにより外界からやってきた外来人と呼ばれる人間の可能性が高い。

 この場合、男は人里がある方角から来ているので、格好からして里人か、もしくは幻想入りして日にちが経った外来人だろう。

 

 幻想郷に住む者が博麗神社に訪れるにはどうすれば良いのか?

 神社周辺は鬱蒼とした森林に囲まれており、徒歩で人里から神社の裏まで曖昧に続く、およそ低位ではあるが妖怪の跋扈する獣道を通るか、空を飛んで越えるかしかない。

 そのような辺鄙な場所にある神社に参拝以外の目的で訪れる人は、外界への帰還希望者であると考えるが妥当だ。

 だとすれば、男には陸路にしろ空路にしろ神社まで護送する付き人が居ないといけない。

 

「いや、1人だし違う。じゃあもしかして」

 

 長考の末、合点がいき気分が晴れたのだろう。霊夢は急いで側にあった靴を履いて縁側から地面に降り立ち、いつの間にか側まで来ていた男に向き直り、朗らかな笑みを浮かべて言った。

 

「ようこそ博麗神社へ! 私はこの神社の巫女、博麗霊夢。ちなみに素敵なお賽銭箱はそこよ」

 

 男は三度笠の先を指先で軽く上げ、示された方向にある賽銭箱を流し目でチラリと見やったが、すぐに興味無さげに霊夢に視線を戻した。

 

「ははっ。どうやら噂は本当らしいな。中々に意地汚い巫女さんだ」

 

 心当たりがあったのか、彼は意味ありげに口元に含み笑いを持たせて小声で呟いた。

 

「ちょっと! 初対面の人に対して、随分と失礼な物言いじゃないかしら?」

「ああ、これは失礼した。でも会っていきなり賽銭を要求したら、そう思われても仕方がないだろ?」

 

 霊夢に聞こえていたらしく、先程の柔和な顔付きからは考えられない程に怒気を含んだ声で文句をつけたが、男は悪びれる様子もなく切り返した。

 

「神社に来たら、お賽銭入れるのが礼儀でしょ。私は親切に場所を教えてあげたのよ」

「それもそうだな。子供に礼儀を説かれるとは恥ずかしい。だが、どうやら礼節は弁えていないようだ」

 

 男は苦笑をもらして、自分の視線を霊夢の顔から胸元辺りに下げた。

 

「何ジロジロ見てるのよ。大の男がする事じゃないわね。そういうのが趣味な変態?」

 

 霊夢はじと目で男の顔を見やり、お互いにしばし沈黙した。売り言葉に買い言葉となり、不穏な様相を呈していた境内の雰囲気が平静に戻った。

 少し間をおいて男が呆れたように、視線を動かす事なく口角を上げたまま、右手で自身の胸元をサッと払う仕草をしてみせた。

 

「……あっ!」

 

 境内に、静寂を破る少女の驚愕した声が響く。

 霊夢が着ている巫女装束の胸元辺りには、先刻食べた煎餅の食べかすが一見して見て取れるほどに付着している。

 霊夢は年相応の羞恥心を露わにして、あたふたと粗雑に取り払った。

 

「悪い、少し大人気なかったな」

「……別にいいわよ。華扇とかに見られるよりは、よっぽどマシだから」

 

 霊夢は親に叱られた子供が言い訳するかのようにぶっきらぼうに呟いた。その後に、丸一日は拉致されるわねと言葉を続けて、嫌な事を思い出したのか苦虫を噛み潰したような表情を浮かべる。

 

「で、こんな辺鄙な所まで何しに来たの? 私の勘だけど、あんた外来人でしょ?」

「まあ、他人からはそう呼ばれているな」

「やっぱりね。じゃあ参拝目的じゃないみたいだし、外の世界に帰る為かしら?」

 

 外の世界と幻想郷の境界を阻む博麗大結界を管理している霊夢は、結界に一時的に穴を開けて、幻想郷に迷い込んだ外来人を外の世界に帰すことが出来る。今までに博麗神社へ訪れた外来人の目的は、全て帰還要請だった。

 

「いや、俺は里で、この神社に咲く桜が非常に美しい情景だと聞いて、一度見てみようと思ってここまで来た。でも来るのが遅かったみたいだな」

 

 男は辺りを見回して、心底残念そうに肩を落とした。境内の木々には所々に残花が付くばかりであり、散りゆく桜は地を儚げに彩る絨毯となっていた。

 

「ふぅん。まあ今年の桜も綺麗に咲いていたわ。妖怪達がこぞって集まって、連日連夜で宴会するくらいにね。でも花見したいからって、外来人が興味本位で来られる場所じゃないんだけどね」

 

 霊夢は不思議そうにして男を注視した。

 彼の年齢は顔付きから想定して二十代後半に近く、青年期は過ぎていそうな按配だ。直立すると霊夢の視線が男のみぞおち辺りに当たるので、頭一つ半個分は高い。肉も程よく引き締まっている。背格好は一般的に観ても大きいほうだろう。

 加えて適度に日焼けした肌に、少々の無精髭が生えており、一見した印象は農民や野武士の類だが、不快感は感じない。身なりを整えれば、前述した背格好も相まって紳士な様になるだろう。

 

「歩くのは慣れてるんだ。桜を見れなかったのは残念だけど、せっかく神社に来たわけだから、言われたとおりに参拝させてもらおうか」

「あら、それは良い心がけだわ。信心深いのは、人間の本来あるべき姿よね」

 

 霊夢は男の言葉を聞いて心を躍らせた。平時に人間が参拝するなど久方ぶりだったからだ。

 

「でもその前に、結構な旅路で体が汚れているし、喉も渇いたから水をもらいたいんだが」

 

 男は薄汚れた手を霊夢に見せながら、くたびれた声色で言った。

 

「でしょうね。手水舎があるから、そこまで案内するわ。ついてきて」

 

 ご機嫌に歩き出した霊夢に、男は言われるがまま同伴した。

 

「ここは静かな場所だな。人が行き来するのは厳しいと道すがら感じたけれど、噂に聞く妖怪神社とは別物らしい」

 

 ゆっくりと歩きながら辺りを見回した男は、相違している事実に肩透かしを食らったのか、残念そうに目を閉じた。

 

「誰に何を吹き込まれたのか知らないけど、まあ今日はいつもより煩くないわね。会話したのもあんたが初めてだし。宴会を開く時なんかは、妖怪達で結構賑わうのだけれど」

 

 普段からそう思われてもおかしくない程に、境内の内外問わず妖怪が訪れる博麗神社だが、今日の来訪者はこの男一人だけだった。

 

「じゃあ、あながち嘘ではないのか。あの新聞は中々に信憑性が高いみたいだ。これからは購読してあげようかな」

 

 癖なのか顎に手をやり、無精髭を触りながら満足気に頷く男。

 

「新聞……ねぇ。それって、どんな事が書いてあったの? 大体想像つくけど」

 

 霊夢は足を止めて振り返り、解答を見ながら問題を解くように淡々と聞いた。

 

「細かいとこは覚えていないが、俺が読んだときは、ここともう一つの神社の特集をやっていたな。君のことも書かれていたよ。……余り良い事では無かったが」

「……その記事書いたの誰?」

 

 男が言い終えると同時に、霊夢は顔を歪ませ眉間にシワを寄せていた。先ほどまでの笑顔は何処へ行ったのやら、今は見る影もない。

 

「名前は、確か射命丸……だったか? 君と同じ年頃の女の子だ。その娘に里で声をかけられて、お試しにとタダで新聞を貰ったんだ」

「……続けて」

 

 男は先程の対応からまた気を悪くさせると思ったのか言葉を濁したが、不穏な空気を持たせた霊夢に促されて、遠慮がちに口を開いた。

 

「まぁ……なんだ。妖怪が目に付いたら通りすがりだろうが退治する鬼巫女やら、事あるごとに賽銭を要求する守銭奴だとか、あと——」

 

「何それ? 誇大解釈も甚だしいわ。カラスの癖に人間を馬鹿にするだなんて。参拝客が来ないのも私が貧乏なのも全部あいつのせいよ。名誉毀損で閻魔に訴え……いや、私が直接裁いてあげようかしら。そもそも前から気に入らなかったのよ。この間も宴会で——」

 

 霊夢は自分で催促しておきながら話を遮って憤慨し、地団駄を踏みだした。どうにも記事の内容が彼女の逆鱗に触れたらしい。

 それから霊夢が落ち着きを取り戻すまで、暫く時間を要した。そして怒りが収まった霊夢は、ふうっと息を吐くと、男を真っ直ぐ見据えた。

 

「……みっともないところを見せちゃったわね。知っているかもしれないけど、あんたの会った女は妖怪の鴉天狗よ。つまり人間の敵なの。そんな奴が書いた捏造記事満載の新聞なんか信じない方が良いわ。この幻想郷で生きていくのならね」

 

 霊夢は未だに息を切らせながら、露骨に不満を残しつつも、これは忠告よと目で念押しする。その様子を見た男は、なだめるかのように軽くうなづいた。

 

「話が逸れちゃったわね。ほら、手水舎はそこだから」

 

 霊夢は歩みを再開して、前方を指さした。

 そこには、四方を吹き抜けにした両端二本からなる柱の上に屋根がついた、いささか手狭な建物があった。中には石造りの水盤に、亀を象った彫像から清涼な天然の地下水が湧いている。

 

 手水舎は神社にお参りする際、人の身体についた穢れや邪気を払う禊の儀を行う為の施設である。博麗神社には鳥居をくぐって少し過ぎた右手に手水舎がある。

 古来より、水とは罪や穢れを洗い流すものと考えられており、側に設置されている柄杓を使って手や口を清めるのだ。勿論神前の儀であることから、相応に手水の作法がある。

 

 まず柄杓を右手に持ち、左手に水をかける。次はその逆。そして再び右手に持ち替え、左に水をかける。このときに掌に少量水を残し、その水で口をすすぐ。また左手を洗い、最後に柄杓を縦に持ち、柄を洗うのだ。

 

 男は三度笠と手甲を脱ぎ、それに習い流麗に禊を行なった。

 

「喉乾いてるんでしょ? それ飲んでも良いわよ」

「……いや、それは遠慮しておく」

「そう? 冷たくて結構美味しいのに。お腹壊したこともないし、水質は問題無いはずよ」

 

 霊夢は男の横にちょこんと並び立つと、彼の持つ柄杓を奪い取り、水を半分ほどすくって口元へ運び、ごくごくと喉を鳴らした。手水舎の水はあくまで身を清めるために使うのであり、飲める飲めない以前の問題なのだが、霊夢は全く気にしていなかった。

 

「うん、美味しいわ」

「おいおい、そのうち神罰がくだるぞ」

 

 神に仕える身の巫女としてあるまじき行為に目を丸くした男は、開いた口が塞がらないようだ。しかし霊夢は得意げな表情を崩さず、自分の目の前で指を振った。

 

「浅い浅い。幻想郷では外の常識は通用しないの。案外、罰が当たるのはあんたの方かもよ」

「……そうかもしれないな」

 

 自信満々に講釈をする霊夢だが、男が言った言葉の意味を理解していなかった。霊夢は巫女の身でありながら、神道を真面目に学んでこなかったからだ。

 

「まあ、飲める程度には境内の手入れが行き届いているようで感心したよ。君はまだ若いのに偉いじゃないか」

「えっ?」

 

 男は微笑みながら右手を少し上げて、霊夢の頭を二度三度と柔らかく撫でる。霊夢はしばらく鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていたが、見る見るうちに頰を赤く染めた。

 

「ふ、ふふんっ。そんなの当たり前でしょ、仕事なんだから。私はやる時はやるのよ。ほら、能ある鷹は爪を隠すってやつ? そうよ、さぼっているように見えて実は——」

 

 霊夢は慌てて男の手を振り払うと、視線をしきりに泳がせて、照れ隠しにそっぽを向き、矢継ぎ早に口を動かす。後頭部に結ばれた大きな赤いリボンが大きく揺れた。いつも説教や皮肉ばかり聞かされているので、こうも素直に褒められるのは苦手だった。

 

「そういえば、俺は随分と道を間違えたようだ。神社の裏側から来てしまうとはな」

「——だからあいつらはお賽銭を入れるべき……って、えっ?」

 

 話の腰を折る男の視線の先を追うと、簡素な古ぼけた鳥居がある。我に返った霊夢は、小さく咳払いをした。

 

「あんた人里から来たのよね? だったら裏通りで正解よ。博麗神社は幻想郷から外向きに建っているもの」

「なるほど。じゃあ、この参道に沿っていけば、元の世界に戻る事が出来るのか」

「あーだめだめ。それなら楽なんだけど、実際は無理なのよね。何でかってのは説明しづらいけど、とにかく鳥居の先に行っても時間の無駄よ」

 

 霊夢は男の答えを即座に否定した。事はそう単純ではない。視覚的に幻想郷と外界の境界を認識することは困難である事から、往来はほぼ不可能。それが出来るのは、ごく一部の特殊な能力を持つ者達のみだ。

 鳥居の奥の道は続いて見えるし、ある程度は先へ進めるのだが、幾ら行けども外界へたどり着くことは無い。物理的に阻害されている訳ではなく、博麗の巫女と神社周辺を囲む大木の霊力が互いに作用しあって、結界を越えようとする者の感覚をずらしてしまうのである。

 よって、進んでいるかのように感じるだけで、実際には同じ風景の所を延々と周っている事になる。逆に一日中どんなに歩こうが飛ぼうが、引き返す時は一瞬で戻れる。

 

「そうねえ。外の世界に帰りたいのなら紫、八雲紫って言うここの管理者に頼みなさい」

 

 八雲紫は幻想郷の管理者であり、その礎を築いた古参の隙間妖怪で、賢者とも呼ばれる。境界を操る程度の能力を有し、幻想郷と外界を行き来出来る数少ない者達の一つである。博麗神社を創ったのも紫だと言われている。

 霊夢一人でも外来人を帰す事は出来るが、事前に紫に話を通さないと、後始末が面倒になってしまう。

 

「その八雲紫とやらは、普段どこに居るんだ」

「さぁ? 私もよくは知らないわ。掴み所のない、胡散臭い奴なのよ。うちにもたまに顔をだすけど、今頃はどこかも知れない所で寝ているんじゃないの」

 

 紫はその能力で神出鬼没に居所を変える事ができる。博麗神社に住んでいたこともあるのだが、現在は幻想郷の端に位置する似通った場所に移住しているらしい。それは本人談で、実際に住居を見た者はいない事から、嘘か真か曖昧ではある。

 

「お賽銭の額によっては、私が取り次いであげてもいいけど? ちょっと結界を緩めてやれば、すっ飛んで来るわよ」

 

 あまりやりたくは無いけどね、と霊夢は苦笑して付け加えた。男は霊夢の冗談に反応する事無く、顎に手を当てて考え込んでいる。

 

 霊夢は男の様子を見て、少し不安になった。どうにも様子がおかしい。外来人が外の世界に帰れると知れば、普通は喜びそうなものなのに。実際、今まで霊夢が会った人達はそうだった。

 だが目の前の男には、そういった感情が全く見えない。表情が乏しいという事もあるが、それよりも心がここに無いといった感じなのだ。

 

「悪い、興味本位で聞いただけだ。俺は帰るつもりはないよ」

「正気? 迷い込んだ外来人が、人里やここに満身創痍で辿り着くだけでも幸運な事なのに」

 

 それきり遠くを見つめ沈黙する男に、霊夢は言葉をかける隙を見出せず、軽く鼻息をついて所在無げに佇んだ。

 

「……物好きな人ねえ。でも、そういうの嫌いじゃないわ」

 

 その呟きは、先程から吹いている一陣の風に掻き消されて、男の耳に届く事は無かった。

 

「こう安らぎに満ちた自然に触れる機会は、外の世界に居た頃には少なかったからな。ここには見た事ない景色ばかりが広がっているし、妖怪が本当に存在するってのもワクワクするだろ? 幻想郷に来られたのは、俺にとっては幸運な事だよ」

 

 男は愁いを帯びた表情から、髭面に似合わず、無邪気な少年のような顔になった。

 

「あまり褒められたもんじゃないわね。好奇心は猫を殺すのよ。でも、気持ちは分からなくもないわ。あんた達外来人からすれば、妖怪は珍しいものだし、景色だって、見た目は……美しいもの」

 

「美しいなんてもんじゃない。俺は幻想郷に来た時に、紫色の桜が舞う場所に居たんだが、その現世の物とは思えない幻想的な光景に、心を奪われたよ」

 

 男は両腕を広げ、胸を弾ませて声高に語る。先程までの落ち着いた様子から一転させた男に、霊夢は少々意外な顔をした。

 

「紫色の桜かあ。それは無縁塚にある妖怪桜の事ね。確かにあそこの桜は綺麗だけど、無縁塚はその名のとおり幻想郷における無縁者の墓地なのよ。人間にとって縁起のいい場所じゃない」

 

 無縁塚は木に囲まれた小さな空間で、縁者の居ない者の墓地となっている場所である。

 幻想郷における無縁者とは外来人を指す言葉であり、実質彼らの為の墓地である。その性質上、冥界に近い場所なので、生きている人間が不要に行ってはならない危険地域となっている。

 

「でも残念だわ。もう少し神社に来る時期が早ければ、妖怪桜なんか目じゃない桜が見られたのに」

 

「ああ、本当に。新聞には幻想郷一美しい桜が拝めると書かれていたからな」

 

「ふぅん。あいつも中々いい事書くじゃない。だからって悪評を広めたのを帳消しにはしないけどね。ただでさえ閑古鳥が鳴いてるってのに、余計に人気がなくなっちゃったし」

 

 霊夢は腰に手を当て、忌ま忌ましそうに言った。博麗神社からは幻想郷が一望でき、桜咲く季節になると多くの者達が花見をしにやって来る。それゆえ観光名所なのだが、集まるのはやはり妖怪達であり、参拝客の減少に拍車を掛けている。

 

「名所の桜が見たいのなら、今の時期だと白玉楼くらいしか咲いていないと思うわ。ただ場所が冥界だから、あんたには無理かな。他の観光名所で言えば、これからの季節だと太陽の畑に咲く向日葵とか、妖怪山の紅葉も良いのだけれど」

 

「聞くだけでも興味がそそられるな。それは是非とも行って見てみたい」

 

「いやでも勿論どこもかしこも危険な……って聞いちゃいないわね」

 

 男は未知なる景色に目を輝かせて期待を膨らませており、霊夢の忠告は男の耳を右から左へと筒抜けていた。

 

「ねえねえ、それよりも大事な用が今はあるんじゃないかしら?」

 

 霊夢はちらちらと賽銭箱を横目で見ながら自信なげに言った。その様子に気付いた男は、少しだけ笑みを浮かべて霊夢の方へと向き直った。

 

「ああ、そうだったな。そろそろお参りしようか」

「ええ! お賽銭箱はこっちよっ!」

 

 男の表情を見て霊夢は満足げに笑う。そして待ってましたと言わんばかりに元気よく返答し、ぱたぱたと駆け足で参道の中央を行く。

 

「ほらぁ、なにしてるの? もたもたしてると、御利益が去っていくわよ」

 

 参道の中程で振り返りながら、遅れて後に続く男に、邪心を感じさせないあどけない笑みを浮かべて急かす。まるで縁日に連れ立つ親とその子供の様だった。

 

「さぁ、どうぞっ」

 

 霊夢は賽銭箱の斜向かいに対面して、鼻息を荒くする。その横に立った男はお辞儀をして、鈴の緒を持ち、左右に揺らした。

 

 普段からあまり鳴らされる事が無かったからなのだろう。お世辞にも心地良いとは言えない、錆びた鈴の音が、境内に鈍く響き渡った。

 そして懐から財布を取り出し、口を開こうとしたが、その手をふと止めた。

 

「そういえば、この神社の御神体は何なんだ?」

「ええっと、何だったかしら。私も知らないのよね」

 

 霊夢は視線を宙に彷徨わせ、あっけらかんとすまし顔で言った。嘘ではぐらかそうとしている訳ではなく本当に知らないのだ。

 

「おいおい。それじゃあ、ご利益がなんなのか分からないだろ。まったく……君はこの神社の巫女なんだろう? それくらい把握しておくべきだぞ」

「だって興味ないもの。それにそんな事今まで聞かれなかったから」

「……ああ」

 

 涼しい顔付きの霊夢に、男は返す言葉が見つからず、お互いに沈黙した。彼は暫く思慮したのち、賽銭箱にそっと硬貨を入れた。乾いた金属音が鳴る。

 それから流れるように、二礼二拍手一礼する男を、霊夢は上の空で見つめていた。

 

「何をお願いしたの?」

「お願いと言うより挨拶だな。この幻想郷に、お邪魔しますってな」

 

 霊夢は面食らって口を半開きにしていたが、男の言動に納得したのか、鈴をふるわすような澄んだ声で言葉を紡いだ。

 

「そう。じゃあ、あらためて幻想郷へようこそ。これであなたは、ここの立派な住人よ」

 

 いつの間にか、灰色の雲はさざ波のように引き、茜色の雲が空を夕映えにしていた。境い目の青空が朱色に染まっていく。

 その光景があまりにも幻想的で、男はしばしの間、目を奪われていたが、はっと我に返った。

 

「夕方になってしまったな。俺はそろそろ帰ろうと思う」

「あら、もうこんな時間。曇ってたから気付かなかったわ。もう少し早く来ていたら、お茶でも出せたのに」

 

 霊夢は男の言葉を聞いて、少し寂しげな表情をした。だが、すぐにいつも通りの表情に戻り、男に笑顔を向けた。

 彼女は男と別れる事が、少しだけ名残惜しかったのである。しかし、それを悟られまいと、努めて明るく振舞っていた。

 

「じゃあな。桜は見れなかったが、ここに来たのは時間の無駄ではなかったよ」

 

 身仕度を整えた男は、簡潔に別れを述べると、霊夢に会釈をして背を向けた。

 

「ちょっ、ちょっと待ちなさい! まだ明るいけど、夜が近づくにつれて妖怪は活発になるのよ。一人だと危険だから送って行くわ」

 

 霊夢は慌てて手を伸ばして、歩き出そうとする男の服を掴んだ。

 

「ははっ、大の男が女の子にお守りされる訳にはいかないだろ。心配いらないよ」

「あっ……」

 

 男はごつごつとした大きな手で、服を掴んでいる霊夢の華奢な手を取り、優しく放して向き直る。そして彼女の気遣いに、申し訳なさそうな笑みを浮かべた。

 その微笑は、とても温かく優しかった。霊夢の胸の鼓動が早鐘を打ち始める。彼の優しさに触れただけで、顔が紅潮していく。

 

 普段から女性ばかり相手をしている霊夢にとって、それは生まれて初めての経験であった。異変解決の際に危機的状況を間一髪で脱した時と似たような感じだが、その時とは微妙に違った感覚だ。

 今まで感じたことの無い感情。霊夢はそれを不思議に思いながらも心地よく思った。

 

「って、そんな遠慮は今いらないのよ! 私が言いたいのは……ああっ、もうっ! とにかく私に任せなさい!」

 

 霊夢はすっかり気を動転させて、声を荒げながら男の背中に近づき、脇から手を回して体を密着させてしっかりと抱き締めた。男の匂いと体温が、直接的に伝わってくる。

 

「おい、何を——」

「いいから!」

 

 抗議の声を余所に、男の足は徐々に地を離れ、体は霊夢ごと宙に浮いた。そのまま高度を上げて行き、前へ進みだした。

 

「霊夢、君は……」

「ふふんっ、驚いたでしょ? 私は博麗の巫女であり、空飛ぶ不思議な巫女でもあるのよ」

 

 そう得意げに言うが、気をつかっているのか、小走りのような速さで飛行している。空を飛ぶのは霊夢にとっては当然の事なのだが、ただの人間である彼は違うからだ。

 

「いや、空を飛ぶのはこれで二度目なんだ。前にその、無縁塚と言う所から人里に送ってもらったからな」

「そうなの? 誰だか知らないけど、人助けなんて物好きな奴も居るのね。ここにいるのは、自分本位な奴ばっかりなのに」

 

 霊夢は感心半分呆れ半分といった口調で言う。

 

「しかし、一体どういう原理で浮いているんだ。羽がある人はまだ理解出来るが、君は人間だろう? 超能力か、はたまた魔法か何かなのか?」

 

「何でかって聞かれても説明出来ないわね。私は物心ついた時から飛べていたし。私の知り合いに魔法を使って飛ぶ人間はいるけど」

 

「ははあ。幻想郷は本当に未知のものが多いな。ますます面白い場所だ」

 

 霊夢には、空を飛べるという事に対する特別な感情はない。飛べるのは当たり前で、飛ぶ事は生活の一部になっている。

 だが妖怪ならともかく、普通の人間は空など飛べないのだ。常識が通用しない幻想郷においても、それが出来る人間は一握りしかいない。

 

 空の海を進む二人の眼下には、美しい夕焼けの陽射しをも拒むほどの、鬱蒼とした広大な森が見渡せる。森は薄暗く不気味な気配を放っており、見る者によっては、まるで森自体が妖怪のようにおもえるだろう。

 

「それにしても、よく一人で博麗神社に来られたわね。迷ったり、襲われたりしなかったの?」

 

 霊夢は、かねてから疑問に思っていた事を男に聞いた。

 幻想郷での生態系は妖怪と神が並んで上位に位置しており、人間はその者達より劣っている生物だ。よって、ここでは人間が妖怪や獣に襲われ食われるのは常である。人間より力の弱い妖精達でさえ、言葉巧みに人を騙して愉悦に浸る有様。

 唯一の安全地帯とされている人里を離れれば、昼間であろうがたちまち彼らの餌食になってもおかしくはないのだ。

 

「いや、なんともなかった。里の外は危険だと言う人もいたが、拍子抜けだったよ。道中で親切に道を教えてくれた人が結構いたしな」

 

「……そいつら、絶対に人間じゃないわ。虫の居所が悪ければ、騙されたり、取って食われていたかも。あんたが今生きているのは、偶々運が良かっただけなのよ。もっと危機感を抱いた方がいいわ」

 

「そうか? 里の中でも妖怪と呼ばれる人達に会った事は度々あるが、みんな友好的な態度だったけどな」

 

「はあ……あのね、それは人里の中だからよ。あんたは外来人だから幻想郷の事を知らなすぎる。講釈しても無駄なんだったら、体感してもらうのが得策なんだけど、それもリスクが大きいし。とにかく私の言う事を信じてほしいの。私は人間で、巫女で、あんたの味方。私は神に誓って、あんたに嘘をつかないわ」

 

「……わかった。そこまで言うのなら、今後は気をつける事にするよ」

 

 妙に真面目な声色で語る霊夢に、男は窮屈そうに答えた。霊夢は納得した面持ちで、それきり口を閉し、飛行速度を上げた。二人の間には荒い風切り音しか聞こえなくなった。

 

 しばらくして人里がはっきりと見える所まで来た。霊夢は速度を落として、ゆっくりと高度を下げ、少し離れた場所に降り立つ。

 街道の先に小さく里の門が見えた。そこには武装した男が二人立っている。近くには既に篝火が焚かれており、辺りを暖かく照らしていた。

 

「ここまで来れば、あとは歩いて行けるでしょ」

「ああ、ありがとな。また会えるか分からないが、お互いに息災だと願うよ」

「……ええ、そうね」

 

 男は霊夢の方に向き直り礼を言うと、そのまま真っ直ぐ歩み出した。

 その背を見送りながら、霊夢は複雑な表情を浮かべている。それから口を開き、何かを言いかけたところで思い留まり、また口を開く仕草を数回繰り返した後、ようやく決心がついたのか男に声をかけた。

 

「ねえ! ちょっと待って!」

 

 霊夢の掛け声で、男は足を止めた。振り返った男の目に映るのは、寂しげな顔つきをした少女の姿。二人はしばらく無言のまま見つめ合っていた。

 

 やがて、霊夢の方が沈黙を破った。

 霊夢は小走りで男に近づくと、懐から奇妙な文様が描かれた三枚の御札を取り出して、押し付けるように男に手渡した。

 

「これをあげる。私の霊力が込められた退魔の御札よ。そこら辺の雑魚妖怪や獣達なら寄って来なくなるわ。もし効力のない相手に襲われたら、相手に直接触れさせると無力化出来るから」

 

「ありがたいが、なぜ俺にくれるんだ? これは貴重な物なんじゃないのか」

 

 男は御札を遠慮気味に受け取ったが、霊夢の行動に疑問を抱いているようだった。しかし、霊夢は気にせず言葉を続ける。

 

「まあ、作るのが結構面倒な物だけど構わないわ。だってあんた危なっかしいし、せっかくの参拝客に死なれちゃ夢見が悪いし、博麗の巫女としても人間を守らないといけないし? それに……また会いたいし……」

 

 それは最初、どこか言い訳じみた口調だった。言葉尻になると、霊夢は視線を逸らしながら、ぼそりと呟くように言った。

 一方、男は霊夢の言葉を聞いてもなお、まだ不思議そうな顔をしている。

 そんな男を見て、霊夢は照れ隠しのように語調を強めて、更に言葉を続けた。

 

「だからっ! また神社に来てって言ってるのっ! あんた幻想郷の事を知りたいみたいだし、今度私が色々教えてあげようとしたの! だから感謝してよね!?」

 

 霊夢はそう叫ぶと、ふんっと鼻息を鳴らして腕を組んだ。

 男はぽかんとした表情で、霊夢を見つめていた。ややあって、彼は笑いを堪えるように喉を鳴らしてから、口を開いた。

 

「そう言う事なら、ありがたく頂こう。何かお返し出来る物があればいいんだが、あいにくこの身一つで来たものだからな」

 

「別に気にしなくても大丈夫よ。その辺の事情は分かっているから。知らない場所にいきなり迷い込んで大変だろうしね」

 

「そうか。何から何まですまないな」

 

 男は申し訳なさげに頭を掻いた。霊夢は微笑んで首を横に振る。

 

「ふふっ。うちに来るのは、あんたの都合が良い時でいいからね。最近暇だし、私はいつも神社にいるから。じゃあ、引き止めて悪かったわね」

 

 そう言って霊夢は男に背を向けた。そして、飛び立とうとしたところ、ふと何か思い立ったようで、再び男の方へ振り向いた。

 

「そう言えばあんたさ、名前は何て言うのかしら?」

「ああ悪い、名乗っていなかったか。名字は——で、名前は○○だ。平凡な名前だろ? 向こうでも覚えにくいのか結構忘れられるんだ」

 

 それから○○は霊夢に向かって手を差し出した。

 霊夢は一瞬きょとんとしたが、すぐに笑顔で応じる。二人の手が重なる。彼の掌からは温もりと共に、確かな鼓動が感じられた。

 

「○○さんね。良い名前だと思うわ。私はしっかりと覚えておくから安心して」

 

 ○○は握った手を離すと、そのまま霊夢に背を向け、ゆっくりと歩き出した。その姿が遠ざかり、やがて見えなくなると、霊夢は少し寂しげに目を伏せた。

 

 それから気を取り直すように小さく息を吐き、空に飛び立つ。彼女の頭上には夕焼けに染まった雲海が広がり、遠くには薄らと月が見えている。

 

 霊夢はすぐに帰ろうとはせずに、しばらく幻想郷の空をただよっていた。黄昏時の春風に乗って、霊夢の身体は軽やかに宙を流れていく。上気した頬と微かな汗ばみを帯びた肌を撫でる風の感触は、彼女にとって心地の良いものだった。

 

 やがて太陽の光が消えさり、空は暗さを増してゆき、夜の闇が訪れた。無数の星々の輝きが夜空に浮かび上がり、春の星座たちが煌めいていた。それらの光の粒たちは霊夢に向かって優しく降り注いでくるかのようだ。

 

「……綺麗ね」

 

 そんなことを思いながら彼女はぼんやりと地上の星たちを眺めていたが、不意に吹いた夜風に身を震わせた。

 

「わ、寒っ」

 

 慌てて両手で自分の身体を抱き締めるが、それでもなお冷たい風に全身をなぶられる。

 

「何やってんだろ私。もう帰らないとね」

 

 独り言のように呟くと、彼女は速度を上げて家路へと急いだ。一人だと遠慮なく風を切る速さで飛べるので、先程より時間はかからない。

 空に浮かぶ月が幻想郷一面を照らし出している。その明かりのおかげで、視界はあまり悪くなかった。辺りは静寂に包まれており、時々野犬や狼の遠吠えが耳に入ってくる。

 

 ほどなくして前方に博麗神社が見えてきたところで、霊夢はようやく速度を落とした。境内に降り立ち、そのまま石畳の上を歩いていく。

 

「あら、灯りがついてるわ」

 

 霊夢は住居の壁にある行灯に火が灯っているのを見て、特に驚きも恐れもなく、何気なく呟いた。

 博麗神社には神主は居らず、霊夢は一人で生活している。それなのに留守中に灯りがついているのは、普通に考えれば怪しむべきなのだが、彼女に警戒心はかけらもなかった。

 

 履物を脱いで縁側に上がった霊夢は、心当たりがあるのか、身構えもせずに居間に続く障子を開けた。

 

「やあ、おかえりぃ。遅かったねぇ。先に一献やらせて貰ってるよ」

 

 行灯と月光に照らされた居間には、座布団の上に胡座をかいた少女が我が物顔でくつろいでおり、白く濁った液体が入った盃を、霊夢に向かって掲げた。

 

「萃香、やっぱりあんただったのね。今朝から見かけないと思ったら、こうしてふらっと現れるんだから……」

「へへへっ。私は幻想郷になら、何処にでも居るようなもんさ」

 

 木製のちゃぶ台を隔てて対面に座って頬杖をつく霊夢に、萃香はけらけらと笑い声を立てる。

 

「今宵は月が綺麗だから、飲まなきゃ損だね。ささ、駆けつけ一杯といこうか!」

「いやいや。人間の私が、鬼であるあんたの酒なんて飲めるわけないでしょ。殺す気なの?」

 

 霊夢は目の前に差し出された飲みかけの盃を、ちらりと見やった後、愛想のかけらも無しに押し返した。その言動から、相当きつい酒だと伺える。

 

「ははっ、冗談だよ。そう目くじら立てるなって」

 

 萃香は見た目相応の子供のような口調で、口元に笑みを浮かべ、返された盃を一気にあおった。

 

 伊吹萃香はその小さな身体に不釣り合いな二本の角がある事を除けば、童女のような容姿をしている。だが彼女の正体は、妖怪序列最高位の鬼である。

 幻想郷では、特別力を持つ者は少女の姿をしている事が多い。彼女も例に漏れずに、その中でも最強に近い能力を持つ。

 

 密と疎を操る程度の能力。

 ありとあらゆる物の密度を操る事ができる能力である。例えば、そこらの密度を薄めて辺り一帯の物質を塵にさせたり、空気を薄めて真空にして宇宙空間を作り出せる。高密度にすれば、熱を持たせて溶解させたりも可能だ。仮に人に使えば一瞬で爆散させられる。

 自身にも適用でき、霧状になって幻想郷中に漂う事も可能。鬼であるから、単純に力も強いので、その身一つで百鬼に匹敵する。

 

 人の気持ちといった形のない、あらゆる物を集めたりも出来るので、お祭り好きな萃香は、事ある毎に人や妖怪を集めて宴会を開かせて楽しんでいるのだ。

 

「でも一人酒ってのもつまらないねぇ。奉納品のお酒がまだあったろ? 付き合いなよぉ」

 

「……遠慮するわ。今日は、そういう気分じゃないの」

 

「はあ、珍しくしんみりしているね。いつもは参拝客が来ないだの、お賽銭が無いからひもじいって愚痴こぼしながらやけ酒するのに。何かあったのかい?」

 

 ちなみに博麗神社は参拝客が少ない為に家計が厳しい様に思われるが、実際は宴会での差し入れや、外界から流れ着く品々、異変解決の報酬などがあるので、霊夢一人で生活するには蓄えは充分である。

 

「どうもしないわよ。気が乗らないだけって言っているでしょ」

「嘘。私に嘘が通用するとでも?」

 

 ぶっきらぼうに言い放つ霊夢に、萃香は身を乗り出して探る様な目つきでじっと見つめる。しばらくお互いに視線を交わしていたが、先に霊夢が耐えかねたのか、顔を伏せながら溜息をついた。

 

「……まあ、隠す様な事でもないから話すけど。今日、人間の参拝客が一人来たの。それだけよ」

 

「へえ、この神社に人間が? 縁日でもないのに珍しいもんだ。ちょいと詳しく聞かせなよ。酒の肴にはなりそうだ」

 

 萃香は眉をひそめつつ、瓢箪から盃に酒を注いで話を促す。

 

「いいけど、面白い話じゃないわよ」

 

 霊夢はそう前置きをして、○○との出会いを思い出しながら口元を少し緩め、語り出した。

 

 

 

「——で、彼を人里に送り届けておしまい。ほら、わざわざ話すような事でもなかったでしょ」

 

「ふぅん。外来人だとしても、随分と奇特な奴だねぇ。中々面白そうな奴じゃないの。ただ、ここでは長生きはしなさそうかな」

 

「……そう、そうなのよね」

 

「んー?」

 

 流暢に調子よく語っていた霊夢が、萃香の一言を聞いて、曇った顔で歯切れを悪くした。先程までの饒舌さは鳴りを潜めて、今は俯いて黙り込んでいる。

 そんな霊夢の様子を見て、萃香は目を細めた後、彼女の肩をポンと叩いた。

 霊夢はビクッとして、ゆっくりと顔を上げる。そこには、ニヤリと笑っている萃香の顔があった。

 霊夢はその笑顔を見て、思わず身構えてしまう。

 彼女がこういう表情をしている時は、大抵ろくな事を考えていないからだ。そして案の定、その予想は的中してしまう。

 

「霊夢ぅ、そんなにその男の事が気になるのかい?」

「は、はあ? いきなり何言ってんのよ!」

 

 突然突拍子もない事を言われ、霊夢は狼狽した。

 それから自分の頬が熱くなるのを感じ、赤面して顔を背ける。萃香はその様子を見て、満足気にうんうんと首肯すると、またニタリとした嫌らしい笑いを浮かべた。

 霊夢はムキになって反論する。

 

「○○さんはただの参拝客で、それ以上でも以下でもないわよ! でも外来人だから無知な所があって、博麗の巫女として私は心配してあげてるだけよ!」

 

「やぁん、○○さんだってぇ? ただの参拝客なのに、もう名前まで知ってるじゃん。いつもは無関心を装ってるのにさあ」

 

「ちっ、違うっ。そういう意味じゃなくて……」

 

「あははっ、霊夢も可愛い反応するねぇ。でも、別に人間の男と仲良くする事は悪いことじゃないと思うんだけどね。霊夢だって人間の女の子なんだし、自分の気持ちに素直になりなよ」

 

「それは……」

 

 霊夢は言葉に詰まる。

 確かに○○の事は気になっているものの、それが異性として意識したものなのかと言われれば、自分でも答えようがない。彼とは今日初めて会ったばかりで、お互いの素性を詳しくは知らない関係だ。それなのに恋愛感情を抱くのは、自分の心はあまりにも軽々しくないだろうか。霊夢はそう考えると、胸の奥がきゅっと締め付けられるような感覚を覚えた。

 

「……はいはい。妄想膨らませるのはあんたの勝手だけど、この話はもうおしまい」

「えーっ、なんでさあ? 時間はあるんだから、その男の話に花を咲かせようよ」

 

 萃香は不満げに唇を尖らせるが、霊夢はそれを無視して話を切り上げる。

 

「とにかく、もう終わり。これ以上詮索しないで頂戴。それに私は今から晩ご飯の支度をしないといけないし。邪魔するなら、あんたの分のご飯は抜きにするわよ」

「うーん。それは困るねぇ」

「じゃあ大人しくしていなさい」

 

 霊夢は部屋を出ると、大きくため息をついた。そして、そのまま台所へ向かい、食材の下ごしらえを始める。

 

「まったく……人の気も知らないで面白がるんだから。でも、あいつがさとり妖怪じゃなくてよかったわ」

 

 霊夢はぶつくさと文句を言いながら炊飯の準備をこなし、慣れた手つきで料理道具を使って調理を進めていく。

 今日の献立は肉野菜炒めと味噌汁とほうれん草のおひたし、白米に漬物というシンプルなもの。小柄な女性二人分と考えれば十分な内容だろう。

 霊夢はフライパンの中で踊っている具材を見つめると、ふと先ほどの会話を思い出して憂鬱になった。

 

『——素直になりなよ』

 

「……好きとか嫌いとか、そんなの分からないわよ」

 

 霊夢は自問するように呟く。しかし、彼女の声は誰に届くこともなく、空虚の中に消えていった。

 

 

 やがて料理が完成し、霊夢は出来上がった品々をお盆に乗せて居間へと運んだ。

 

「はい、できたわよ」

 

 霊夢が机の上に配膳していると、座布団の上でくつろいでいた萃香が感嘆の声を上げた。

 

「おお、いつにも増して美味しそうだねぇ。これなら、毎日食べたいくらいだよ」

「勘弁してよ。食費だって馬鹿にならないんだから」

 

 霊夢は苦笑しながら、湯呑と急須を持ってきてお茶を入れる。 

 

「ほら、食べましょう」

 

 霊夢が言うと、二人は揃っていただきますをして食事を始めた。料理に箸をつけながら談笑したり、おかずを取り合ったりと穏やかな時間が流れていった。

 

「ごちそうさま。後は呑むなり寝るなり好きにしてていいわよ」

 

 霊夢は食事を済ませて、食器を片付けようと席を立つ。すると、先に食べ終えて晩酌していた萃香が口を開いた。

 

「ちょいと待ちなよぉ。呑まずとも酌くらいしてくれないのかい?」

「お断りだって。大体、花見の時に散々付き合ってあげたでしょ」

「ちぇっ、ケチだね。愛想の無い女は嫌われるよ」

 

 そう言って萃香は瓢箪を持ち上げた。彼女は盃を手に取ると、酒を注ぎ始める。

 霊夢はそれを見届けてから、食器を洗おうと部屋を出た。

 

 そして洗い物を終わらせ、次に体を清めるために風呂場に向かった。

 浴室は住居の奥にあり、やや手狭だが真新しい檜造りの湯船がある。これは以前神社が倒壊させられた時に、ついでに改装してもらった物だ。

 

 霊夢は服を脱いで浴室に入ると、湯船の側に設置された蛇口を捻った。すると、そこから即座に熱湯が勢いよく流れ出した。これも改装した物で、神社の裏手に沸いている温泉から、直接湯を引いてこれるように配管されている。

 浴槽に湯が溜まるまでの間、霊夢は手桶で軽く身体を流し、髪を洗いはじめた。

 

「さて、そろそろいい感じかな」

 

 やがて湯が程よく溜まったので、浴槽に全身を沈めると、霊夢の口から大きな吐息が漏れ出す。それからしばらく彼女は入浴を楽しんだ。

 

 

 その後、着替えを済ませた霊夢は、髪を乾かすついでに一服しようと縁側に腰掛けて空を見上げた。夜空は薄い雲がかかっているだけで、星も綺麗に見える。

 霊夢はぼんやりと星々を眺めて、湯気の立つ湯呑みを傾けた。思わずほっとしたような吐息が漏れてしまう。

 

 そして、ゆっくりとお茶を飲み干した頃、霊夢は不意に居間の方から気配を感じた。居間には既に萃香が居るが、それとは別のものだった。

 

 妖怪特有の気配。それは幻想郷では妖気と呼ばれており、人間と妖怪を判別する重要な要素となる。いくら妖怪が人間の姿形を真似ても、溢れ出る妖気を完全には抑えられないからだ。妖気は凡人には感じ取れないが、妖怪と深く関わる者ほど鋭敏に察知できる。

 

 妖怪退治屋の側面を持つ霊夢は、その正体が何なのかすぐに察した。それは霊夢が知っている者の妖気だった為、相手が妖怪とはいえど警戒はしなかった。

 

「何の用か知らないけど、今はあいつの顔を見たくないわね」

 

 むしろ即刻に無視を決め込み、急いで自室へと引っ込んだ。眠気を覚えたのもあるし、わざわざあの二人の間に首を突っ込んで、長話と酒に付き合わされて宵越しとなるのは、今の気分的に避けたかった。

 

 それから霊夢は今朝から敷きっぱなしにしてあった布団に潜り込み、そのまま目を閉じた。するとすぐに眠気が襲ってくる。

 霊夢の意識はゆっくりと深い眠りへと誘われていった。

 


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